「もののけ姫」は1997年に公開された宮崎駿監督による劇場用アニメーション作品である
今回は本編中に登場した個人的名言、名台詞を集めてみた。
とりあえず、私が個人的に思う「もののけ姫」の3大名言、名台詞を挙げておくと、
- 生きろ、そなたは美しい。
- 黙れ小僧!
- 私は、山犬だ!
である。皆さんはどうだろうか。
また、名言や名台詞は通常とは異なる言い回しが用いられることも多く「英語でどう言ってるんだろう?」と疑問に思ったことがあったので、英語表現についても調べてみた。ちなみに「もののけ姫」の英題は・・・
である。
*以下の英語表現は市販のBlu-rayの字幕をもとにしています。また吹替版も参考にしています。
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「もののけ姫」の名言、名台詞と英語表現
アシタカの名言、名台詞と英語表現
「曇り無き眼でものごとを見定め、決める」
I will see with eyes unclouded, and decide.
アシタカがナゴの守の体内から発見された礫をエボシに見せた際の「その礫の秘密を調べてなんとする」という問いに答えた台詞。
おおよそ質問の解答になってはいないが、「もののけ姫」において最も有名な台詞の一つとなっているだろう。
ただ、一つポイントとなるのは「曇りなき眼」はアシタカオリジナルの言葉ではなくヒイ様がアシタカに与えた言葉であるということだろう。
この事実については色々な味方が可能だが、西へ西へと向かう長い旅の中で、アシタカにとっての唯一の希望はヒイ様の言葉であったし、自らに追放を言い渡したヒイ様という存在に対してそれでもなお信頼をおいていたことになる。ヒイ様はあの集落のなかで非常に尊敬された存在だったということになるのだろう。
また、少々意地の悪い味方をするならば、この期に及んでアシタカは自分の言葉ではなく他人の言葉を用いて何かを語っているという側面が見える。
この台詞はある意味で「アシタカの未熟さ」を表しているともいうことができるだろう。
英語表現としては「曇りなき眼」をどのように表現しているのか気になっていたが、字幕では「eyes unclouded」、吹替版でも同様の表現となっていた。
「生きろ。そなたは美しい」
Live … your beautiful.
「タタラバ」を襲撃したサンを連れ出しながらも、石火矢によってうけた傷によって気絶寸前のアシタカが詰め寄るサンに告げた台詞。
ここでようやくキャッチコピーになっていた「生きろ」が出た。普通に考えるといいシーンだと思うのだが、現代的には有名な「もやッとシーン」となってしまっている。
つまり、裏を返せば「ブスは死ね」になってしまうのではないかツッコミ、あるいは、結局アシタカの行動原理って「見た目」という事になってしまうという非難の対象となってしまっている。
確かにそう思えなくもないのだが・・・まあいいじゃないか。突っ込みどころのないフィクションなどないし、もしかしたらアシタカは女とあれば誰にでも「美しい」と言っていたのかもしれない。
更に言うなら、サンに対して「美しい」なんて言っているのはアシタカだけである(モロはギリギリ「可愛い我が娘」と言っているが親なので当然である)。「もののけ姫」をアシタカの主観の物語と考えるなら、サンの見た目はホントのところはそんなではなかったのかもしれない。それでもアシタカには美しく見えたのである。いい男じゃないか。そう思おうよ。
英語表現としては何もおもしろところはなかった。まあ、これしかないよね。
「あの子を解き放て、あの子は人間だぞ。」
Set her free! She’s human.
アシタカとモロの君との対話の中で発したアシタカの台詞。「生きろ、そなたは美しい」と並ぶアシタカの名台詞ということになるだろう。
こんな事言われたもろしても非常に困り果てるだろう。モロとしては「そうした方がいいことはとうの昔にわかっていたけどそれができなかったからみんな苦労したんだよ」という気持ちだっただろう。
こういった「正論」をぶつけるところも「もののけ姫」におけるアシタカの特徴と言えると思われる。
英語表現としては特に面白いところはなかったが、吹替版では「You must ser her free! She’s not a wolf. She’s a human.」となっていた。
「案内ご苦労!ひつ頼みがある。これをサンに渡してくれ!」
Thank you for guiding me. I have a favor to ask. Give this to San.
猪が人間との対決をする朝。サンの介抱によって傷の癒えたアシタカを適当な場所まで送り届けてくれた山犬にアシタカが発した台詞。
このシーンは「生きろ、そなたは美しい」と並ぶ「もののけ姫」における「もやっとシーン」となっている。
物語の冒頭で、劇的な別れと共に受け取ったカヤの小刀を平然とサンに渡してしまっている。これには小学生の頃に映画館で見た私ですら「えっ、あげちゃうの?」と疑問に感じたものである。
しかも小刀をもらったサンが「きれい」とか言って喜んでしまっているがゆえに「もやっと感」が増大するのである(サン!簡単すぎるだろ!)。
今なお論争の続くシーンではあるが、おとなになってから見ると「これはこれでいいシーンじゃないか」とも思えるようになった。そのことについては以下の記事にまとめている:
皆さんはどうやってこの「もやっとシーン」を楽しんでいるだろうか。
英語表現としては特に面白いと思うところはなかった。吹替版もほとんど同じである。
「それでもいい。サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。共に生きよう。会いに行くよ。ヤックルに乗って」
Then live in the forest, and I’ll at the ironworks. Together, we’ll live. Yakul and I will visit you.
「もののけ姫」におけるアシタカ最後の台詞。
なんともロマンチックな台詞であるようにも思えるが、このあとのアシタカの大変な人生の幕開けをも意味している。
これは宮崎駿監督本人も様々な形で語っていることだが、物語の終焉と共に、アシタカはタタラバとサンとの板挟み状態が始まるわけである。サンの気持ちを組めばタタラバが立たないし、タタラバの要望を聞こうとするとサンと対立する。
そんな「苦難(笑)」が始まるのではあるのだが・・・集落を守ったのにもかからずそこを追放され、右腕の呪いに怯えながら生きる人生に比べてどれほど良いことだろうか。
サンもいることだし、アシタカ君には頑張ってもらおう。
一方この台詞は「森」、「山」という場所が「行く場所」になったということも意味しているようにも思える。
それは酷く今を生きる我々と同じ感覚であり、そういう感覚の変化が起こった瞬間を見事に切り取ったのが「もののけ姫」という物語であったようにも思える。この辺のことに関しては「神殺しの意味」を含めて個人的に考えたことを記事にしている:
少々考えすぎかもしれないのだが「室町時代」という時代設定を考えるとあながち変な考え方でもないと思う。
英語表現としては特に面白いと思ったところはなかったが、吹替版では「You’ll live in the forest and I’ll go help them rebuild irontown. I’ll always be near. Yakul and I will come and visit you whenever we can, right?」となっていた。
サンの名言、名台詞と英語表現
「シシ神様がおまえを生かした。だから助ける。」
I’ll help you, because the Deer God sabed your life.
シシ神の力によって石火矢によって与えられた傷がいえたアシタカにサンが発した台詞。
特になんということもないような台詞でもあるのだが、何やらサンがその内面の真実を隠しているように思える。つまり、このときサンはすでにアシタカに惚れている、ないしは惚れ始めているのではないだろうか。
このシーンの前の夜には「生きろ、そなたは美しい」発言にうろたえてしまっている。
あれだけでアシタカに惚れてしまったならあまりにも簡単すぎるが、おそらく生まれて初めて言われたのだろうから攻めることもできまい(死ぬまで言われない人だっているはずだ)。
さらに、あの夜のシーン以外にサンがアシタカに惚れるきっかけがないということも根拠に挙げられる。
しかし、人間と対立しているサンはアシタカを無条件に助けてあげられない。そこでシシ神にかけたのである。翌朝そのかけに勝ったサンは大喜びで憎まれ口を叩いたということではないだろうか。
きっとそうに違いない。
英語表現としては特に面白いと思えるものはなかった。
「私は山犬だ!」
I’m a wolf!
エボシ御前によって首を取られたシシ神がデイダラボッチとして暴走するなか、腕を失ったエボシ御前を助けようとするアシタカに「人間なんか大嫌いだ」叫ぶが「そなたも人間だ」と返されてしまう。それに対抗して放ったサンの台詞。
個人的には「もののけ姫」の中で一番胸に突き刺さる台詞であり、好きな台詞である(「好き」という表現は適切ではないかもしれないが)。
この台詞は、誰よりも山犬になろうとしながら誰よりも自分が人間であるという現実に苦しみ戦い続けたサンの魂の叫びである。
これ以上この台詞について語るべきことはない。
「アシタカは好きだ。でも、人間を許すことはできない。」
I love you, Ashitaka. But I’ll never forgive the human race.
物語のラスト、山犬に乗ったサンがアシタカに語った台詞。
物語の最後の最後、ようやくサンの口から出た人間への好意の言葉である。
「もののけ姫」という物語を通じてサンは「山犬であるというアイデンティティ」と「それでも実は人間である」という自覚に苦しみ続け、自らのアイデンティティのために必要以上の嫌悪を人間に向けている。おそらくそれはモロの君のそれよりも深かっただろう(そもそも親に捨てられている)。
しかし、「山犬」と「人間」のどちらかでなくてはならないということはない。
この物語の終焉の後、サンは「自分は自分で良いのだ」という事に気がついてくれるのではないだろうか。そしてその重要な手助けとしてアシタカが活躍してくれることだろう。
アシタカにとってサンの存在がまさに福音であったことは本編を見ればわかることであるが、おそらくこの物語のあとに、アシタカがサンにとっての福音となるのだろう。
というよりも、そうであってほしいと切に願うものである。
英語吹き替えでは「Asitaka, you mean so much to me, but I can’t forgive the humans」となっていた。「You mean so much to me」という表現が面白いが、これは「あなたはとても大切な人です」くらいの意味になる。
エボシ御前の名言、名台詞と英語表現
「賢しらに僅かな不運を見せびらかすな。」
Enough talk of your course. I’ll cut that arm off!
「タタラバ」を襲撃したサンとエボシ御前との間に立ち「憎しに身を委ねるな!」と叫ぶアシタカにエボシ御前が放った台詞。
エボシ御前といえばこの台詞であろう。あの緊急事態にこの台詞がスラスラ出てくるところが素晴らしい。
注目すべき点は「もののけ姫」を通じて極めて抑制的な態度をとっていたエボシ御前が唯一感情を爆発させたシーンであったということだろう。
つまり、この瞬間のアシタカにホントにムカついていたのである。
このときアシタカは、
- 自らがうけた呪いの存在をタタラバの人々に知らしめた上で
- 「これ以上憎しみに身を委ねるな!」と自らの苦境をもろともせずに「正義の言葉」を発している。
なんとも凛々しい姿ではあったのだが、事実としてその姿を見たエボシ御前はムカついてしまったわけである。
人が他人のどういう行動にムカつくのかを考えてみると、結局この瞬間のエボシ御前の気持ちとしては、
「私だって自分の不幸を垂れ流し、それでもなお賢明に生きる自分を見せつけることで生きる道もあった。しかし自分はそんなことをせず、言葉ではなく行動によって今の状況を作り上げてきたというのにこの若造は何を行っているのか!」
くらいのものであったと思われる。別の表現をすると、あまりにも瑞々しい姿を見せつけられてついつい嫉妬してしまったという事もできるかもしれない。
この台詞を英語にするのは困ったと思われるが、字幕ベースでは「your course」という表現でニュアンスを出しているのだろう。この場合の「your course」はおそらく「御高説」くらいの意味で「御高説痛みいるが」という表現にしているのだろう。
吹替版では「I’m getting a little bored of this course of yours, Ashitaka. Let me just cut it down.」となっておりやはり「this course of yours」という形でわざと長ったらしい表現を使って皮肉を表わしている。
「シシ神殺しをやめて侍殺しをやれと言うのか。」
You want me to kill samurai instead of the Deer God?
シシ神の首を取るために「シシ神の森」に入ったエボシ御前に、タタラバの窮状を伝え戻るように言うアシタカにエボシ御前が発した台詞。
なんとも皮肉の効いたいい台詞であるが、エボシ御前が抱える矛盾そのものでもある。
そもそもエボシ御前にとっての「タタラバ」は「国崩し」の拠点であり、それは「自分を苦しめた男どもの世界をひっくり返すための場所」である。しかしその「国崩し」を実現するためにはまだ力が足りない。そこでエボシ御前は「天朝」との密約を交わして力をえようとしている。
結局エボシは「自分を苦しめた人間を殺さずに、自分を苦しめなかったシシ神を殺す」というおかしなことをしていることになる。エボシ御前本人もそのことに気がついているのだろうが、もはや誰も状況を止められないところに来ている。
すべての人が状況の奴隷になっていることが端的にわかる台詞とも言えるかもしれない。
英語表現としては特に面白いところはなかった。吹替版では「So, it’s don’t kill the forest gods. Now, you want us to kill samurai instead.」
「みんな初めからやり直しだ。ここをよい村にしよう。」
We’ll start over. We’ll build a good village here.
「もののけ姫」におけるエボシ御前最期の台詞。
つきものが落ちたような顔で、それでも力強く語っていた。
とても前向きな言葉にも聞こえるが、ある意味ではエボシ御前の野望の終焉を宣言したとも取ることができる。
彼女の「新しい国」を作るという野望はここで潰え、別の目標に向かって走るのだろう。それは良いことのようにも思えるが、一抹の切なさを覚えるものでもある。
「もののけ姫」という物語の中では多くの人々、存在が何かしらの思惑の中でうごめいていた。しかし、その誰一人としてその思いを完全に実現できたものはいない。
- アシタカの呪いの痣はわずかに残り、
- サンを始めとする森の民はシシ神の森をそのまま守ることはできず、
- ジコ坊はシシ神の首を取りそこねた。
誰も理想的な今を手に入れる事はできなかったが「それでも生きていく」それがこの物語のメッセージということもできるのかもしれない。
英語表現としては特に面白いものはなかったが、吹替版では「We’re going to start all over again. This time, we build better town.」となっていた。
モロの君の名言、名台詞と英語表現
「シシ神は命を与えもし、奪いもする。そんな事も忘れてしまったのか、猪ども。」
The Deer God gives life and takes it away.
「シシ神の森」を守るためにやってきた猪たちが、シシ神がナゴの守を守らなかったことに憤慨する姿を見て発した台詞。
この台詞のあとに乙事主が現れモロの君は「少しは話のわかるやつ」と評していた。つまり、乙事主もそのことはわきまえているということになるだろう。
このような状況を考えると、乙事主とその他の猪たちでは「シシ神の森」に来た理由に少々の差があると思えてならない。
つまり、乙事主以外の猪たちは実際に「シシ神の森」を守るために人間に戦いを挑もようと思っていたが、乙事主は森を守るために来たのではなく死に場所を探しに来たのではないだろうか。
モロの君のこの台詞のあとに猪たちは、シシ神がナゴの守を守らなかったのは、山犬がシシ神を独り占めにしているからだと主張している。この主張の中に見える彼らの願いは「『シシ神の森』を守る戦いに勝利すれば、シシ神が自分たちの味方をしてくれる」というものである。
しかしそんなことにはならないのである。猪たちが勝とうが負けようがシシ神の有り様に変化はない。
一方乙事主はそのことをわきまえているので、乙事主の目的はその他の猪とは異なっているということになる。
個人的に思うとことは「名誉ある死」を求めて来たのではないだろうか。もはや勝ち負けはどうでもいいし、どちらかと言うと見事に死ねればその方が良い。
ナゴの守もその思いで戦いに挑んだのかもしれないが「名誉ある死」を得ることができずに敗走しタタリ神となった。結局本編で描かれた乙事主の姿は、描かれることのなかったナゴの守の姿だったのではないだろうか。
だた、「名誉ある死」なんて言葉でいうと簡単だが「死の恐怖」を前にしたら逃げ出したくなるし、何かにすがりたくもなるだろう。静かにその死を受け入れたモロの君が特別なのであると私は思う。
英語表現としては特に面白いものはなかった。吹替版でも「The forest spirit(シシ神) gives life and takes it right away.」となっていた。
「黙れ小僧!お前にあの娘の不幸が癒せるのか。森を侵した人間が、わが牙を逃れるために投げて寄越した赤子がサンだ。人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ、哀れで醜い可愛いわが娘だ。…お前にサンを救えるか」
Silence, Boy! What can you do for her? The humans who violated the forest threw her in my path as they ran from me. Now she is neither human nor wolf. My poor, ugly, lovely daughter. Can you save her?
アシタカの「あの子を解き放て、あの子は人間だぞ」という言葉に返す形でモロの君が発した台詞。
「黙れ小僧!」は極めて有名になったフレーズであり、未だに日常生活の中でも使われることがあるかもしれないし、私は使ったことがある。
しかし「黙れ小僧!」に続くすべての台詞がまさに名台詞と呼ぶべきものであり、胸が締め付けられるものである。特に「人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ」の部分はサンが決して言葉にすることのない苦しみを見事に言い当てている。
そんなモロの君は、どうしようもなく、悲しいほどに本当の意味でサンの母だったと言えるのではないだろうか。
英語表現としては「Shut up boy!」ではなく「Silence、boy!」としているところがポイントかも知れない。「Silence」を文頭に持ってくるというのは普通は思いつかないが、おそらくこちらの方が高尚な雰囲気が出るのだろう。
「もののけ姫」屈指の名台詞なので、吹替版も載せておくと「Silence boy! I caught her human parents defiling my forest. They threw their baby at my feet as the ran away. Now my poor, ugly, beautiful daughter is neither human nor wolf. How could you help her?」である。ここで「defiling」は「defile(汚す)」の現在進行系である。
トキの名言、名台詞と英語表現
「いっそ山犬にくわれちまえばよかったんだ。そうすりゃあたしはもっといい男を見つけてやる」
The wolves should’ve eaten you. Then I could find a better man.
もののけ姫の襲撃をうけ一時は命を落としたと思われた夫がタタラバ帰還の瞬間におトキが発した台詞。
声優の島本さんの声と演技のお陰で「安心の裏返しによる憎まれ口」であることがよく分かるが、おトキさんのこの台詞によって「タタラバ」という場所における男女の有り様が一撃でわかるという利点もあるだろう。
この時点で「タタラバ」のトップはエボシ御前という女性であるということはわかっているが、この台詞のお陰でその上下関係は男衆女衆全体にいきわたっていることがなんとなく理解されるのである。
結果として吹子(ふいご)を踏むという過酷労働をしている女衆はその労働によって権力をえているのであって、男どもが楽をしたいから女が働いているわけではないという事もわかる。
小さな一言のようではあるが、我々に与える印象という点で重要な台詞だったと言えるだろう。
英語表現としては「Then I could~」の「could」の部分がポイントだろう。甲六が山犬に食い殺されるという現象は実際には発生していないことなので、この台詞自体が全体として「仮定法」になっているということになるだろう(つまり、甲六は今食い殺されなかったので、今私はいい男をみるけることができない)。
吹替版では「I wish wolves have eaten you the maybe I could have found a real husband.」となっておりガッツリ「仮定法過去完了」の文章となっている。
「せっかくだから変わってもらいな!」
Let him see what it’s like.
「タタラバ」の吹子を踏む女衆の元をおとずれたアシタカが、一人の女性に「かわろう」と声をかけたときのトキの台詞。
一見すると名台詞とは思えないが、実は声優の島本須美さんこの台詞のアフレコに結構苦労したことが「もののけ姫はこうして生まれた」という制作ドキュメンタリーを見るとわかる。
問題となったのは、どうしてもアシタカを包み込むような優しいニュアンスが出てしまう事だった。よく考えると、この場面でアシタカはズケズケと人の仕事場に入り込んでその作業に割り込んでいる。過酷な作業の中で厳密なルーティンを決めている現場としては邪魔でしかないので、トキとしてはとっとと追い払いた。
しかし、夫の恩人でもあるアシタカを無碍にするわけにも行かないので、吹子を踏ませて最短でこの場を去ってもらおうと考えた。
「もののけ姫」の登場人物は常にこのような見た目とは裏腹な内面をもっているのである。
英語表現としては「どんなもんか体験させてあげな」というニュアンスになっている。吹替版では「It’s okay, might as well let him try. 」でありほぼ変わらない。さて、英語圏の人に「ホントは邪魔だ」というニュアンスは伝わっただろうか。
ジコ坊の君の名言、名台詞と英語表現
「これよりさらに西へ西へと進むと、山の奥のまた山奥に、人を寄せ付けぬ深い森がある『シシ神の森』だ。」「そこではケモノは皆大きく太古のままに行きていると聞いた。」
`Far to the west, deep in the mountains … is a forest where none may tread. The forest of the Deer God. ‘ `They say the beasts there are giants, as in ages past.’
「巨大なイノシシに瀕死の傷を与えたものです」と言うアシタカから石火矢の礫を渡されたときの台詞。
この時点でジコ坊はすべてを悟っているはずだが、あえて「シシ神の森」というキーワードだけをアシタカに伝えている。直接的には「巨大なイノシシ」という単語にのみ反応しており、礫にはノータッチである。
つまりは「命の恩人だから情報を与えてやらんことはないが、自分の『仕事』に関わることまでは教えられない」という内面が見て取れる。
この台詞だけでジコ坊がその見た目通りに一筋縄には行かない人物であることがわかる。
ただ、「シシ神の森」というキーワードを与えたことは極めて重要であり、結局はアシタカを「タタラバ」という新天地にいざなったことになるのでアシタカの物語としての「もののけ姫」における最大の功労者と言えるかもしれない。
英語表現としては初っ端の「deep in the mountains is a forest where none may tread」の部分が重要だろう。場所や方向を示す副詞が文頭に来る場合は主語と動詞の倒置が発生する場合がある。これは主語(今の場合は「forest」)を強調したかったり、主語の修飾語(今の場合は「where none may tread」)が長くなる場合に発生するが、今回は両方だろう。決して文法的な間違いではないことは注意すべきかもしれない。
このような倒置が発生する最も有名なフレーズが「Here comes the sun」(ビートルズの曲)だろう。もちろん「Here comes~」で覚えたほうが良いものだと思うが、一応今回と同じ現象が起こっているものでもあるということになる。
ナゴの守の君の名言、名台詞と英語表現
「汚らわしい人間どもめ。わが苦しみと憎しみを知るがいい」
Hear me, loathsome humans! You shall know my agony and my hatred.
タタリ神としてアシタカの故郷を襲撃したナゴの守が、命尽きるその瞬間に発した言葉。
「もののけ姫」とう言う物語に通底するテーマが「憎しみのコントロール」であるが、ナゴの守のこの言葉は物語の幕開けにして「憎しみ」というもののある種の本質を端的に表す台詞と言えるだろう。
というのも、このあとのシーンでエボシ御前が語るように、ナゴの守が本来憎むべきはエボシ御前でありタタラバに暮らす人々である。ところがナゴの守がタタリ神として向かったのはタタラバではなく何故か東国だった。その上でアシタカの故郷を襲撃しこの言葉を残したのである。
結局「憎しみ」とは爆発するものであり全く関係のない人を巻き込む。そして、本来憎むべき相手だけではなくのその「所属」にまで対象を広げるものであるということである。
ある国である特定の人物になにか嫌なことをされてしまうとその国の人すべてを憎んでしまうのと同様のことが起こる。
それは「憎しみ」の本質ではあるのだけれど、本質だからしょうがないでは生きている意味がない。そして「もののけ姫」におけるアシタカはその「憎しみ」と戦い続けてくれたのである。
ただ、その戦いに人類は未だ勝利していない。今日も誰かが誰かを憎んでいる。この戦いに終わりは来るのだろうか。
英語表現としては「loathsome」「agony」「hatred」といった普段聞かないような単語が重要だろう。「loathsome」は「いやでたまらない」とか「いまわしい」という意味、「agony」は「苦悩」、「苦しみ」そして「hatred」は「憎しみ」、「憎悪」である。自分で使うために覚えておく必要のある単語ではないが、映画では使われる可能性があるし、こういう単語をぶつけられる可能性はあるので覚えておくと良いかもしれない。
吹き替えでは「Disgusting little creatures. Soon, all of you will feel my hate and suffer as I have suffered」となっており「Disgusting(不快な、ムカつく)」、「hate(憎悪)」、「suffer(苦しむ)」という単語が使われていた。
カヤの君の名言、名台詞と英語表現
「いつもいつも、カヤは兄さまを思っています。きっと、きっと」
You’ll always be in my heart. Always, without fail.
故郷をあとにするアシタカにカヤが玉の小刀を渡したあとの台詞。
アシタカがこのときにもらった小刀をサンに渡してしまうまではなんとも感動的で胸打たれるシーンであった。私が「もののけ姫」を見たのは小学生の頃だったが、初見のときですらあの瞬間「えっ、あげちゃうの?」と何やら不可解な思いに駆られたことをおぼえている。
今となってはあのシーンについて色々思うところがあり、その辺のことについては以下の記事にまとめている:
皆さんは今ではどう思っているのだろうか。
英語表現としては「without fail」で「必ず」とか「確実に」を意味するところがポイントだろう。残念ながら吹替版ではこの部分に直接相当する表現はなく、「You must take it with you please, I want you to have it so you won’t…forget.」つまり「私はあなたを忘れない」ではく「私を忘れずにいてください」という文脈の台詞となっている。何やら大幅な改変のような気がするが、こんなものなのだろう。
病者の君の名言、名台詞と英語表現
「コワヤ、コワヤ。エボシさまは国崩しをなさる気だ。」
Watch out. Lady Eboshi wants to rule the country.
石火矢をより軽くするように要請するエボシ御前に対して病者が語った台詞。
極めて冗談めかした言い方になってはいるが、エボシ御前は本気で「国崩し」を画策していたと思われる。そのためにわざわざ「天朝様」との密約を交わし、やりたくもない「シシ神退治」を行なったのである。この辺のことについては以下の記事にまとめている:
エボシ御前はなぜ「国崩し」などということを画策シたのだろうか。
英語表現としては特に面白いと思うところはなかった。吹替版もほとんど同じ表現であった。
「どうかその人を殺さないでおくれ。その人はわしらを人としてあつかってくださった、たったひとりの人だ。」
I beg you not to kiss our lady. She is the only person who ever treated us as human.
エボシ御前の秘密の庭で、アシタカの右腕がエボシに斬りかかろうとしたときに病者の長が語った台詞。
「タタラバ」という組織がエボシ御前を頂点に一枚岩になっている理由がこの台詞に集約されていると思われる。「タタラバ」にいるすべての人々が彼と同じような思いを抱いているのだろう。
だからこそ女たちは過酷な吹子踏みをこなし続けることができるし、牛飼いたちも物語の序盤で崖下に落ちた仲間たちを見捨てるエボシ御前に不信感を抱いたりしない。
「タタラバ」とは居場所を失った者たちの最後の希望であった。それは最終的に「タタラバ」を新天地にしたアシタカも同じことだったと言えるのかもしれない。
英語表現としてはとくに面白いと思うものはなかった。
猪の名言、名台詞と英語表現
「なぜナゴの守を助けなかったのだ!シシ神は森の守り神ではないのか。」
Why did he not save Nago?
「シシ神の森」を訪れた猪たちが、シシ神がアシタカの命を救ったことに怒り狂って発した台詞。
極めてごもっともな発言なのだが、シシ神がアシタカを救ったという事実そのものがシシ神の本質の一部を表しているだろう。つまり、シシ神にとってその生命が森の獣であるとか人間であるとかは全く関係がないということになる。
わざわざ「シシ神の森」を守るために海を超えて九州からやってきた猪にとっては悲しい現実だが、「神」とは本来そういう存在であるべきものなのだろう。
英語字幕では「Why did he not save Nago?」吹替版では「Why didn’t he save him?」と僅かにご順が違うがどちらも同じ意味である。
この記事で使用した画像は「スタジオジブリ作品静止画」の画像です。
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