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もののけ姫」は宮崎駿が作った「平成狸合戦ぽんぽこ」であるという話。

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「もののけ姫」は1997年に公開された宮崎駿監督による劇場用アニメーション作品である。

子供の頃に映画館で見た思い出の作品で、今でもとても好きなのだが、その一方、私が生まれて初めて映画館で見た「ジブリ作品」は「平成狸合戦ぽんぽこ」となっている。1994年に公開された高畑勲監督作品であり「ジブリ作品」という括りなら未だに一番好きな作品となっている。

もちろんどちらもBlu-rayを持っており、何度も何度も繰り返し見てきたのだが、そうしているうちに何故か「ああ、『もののけ姫』は宮崎駿監督が作った『平成狸合戦ぽんぽこ』なんだな~」という思いに駆られるようになった。

もちろん2つはぜんぜん違う作品なのだが、何かしら通底するものを感じてしまう。

今回はいくつかの側面から2つの作品のつながりについて考えていこと思う。

まずは、鶴亀和尚とモロの君の不思議な類似性から見ていこう。

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もののけ姫」と「平成狸合戦ぽんぽこ」の類似性

鶴亀和尚とモロの君

年老いたシワシワの鶴亀和尚と妖艶なモロの君は似ても似つかいない。しかしその「人生」に目を向けるとその類似点を見ることができる。

わかりやすいのが鶴亀和尚なのでそちらから考えようと思うが、そのための重要なヒントが以下の鶴亀和尚の台詞である:

  • 「オラたちタヌキはヒトがいい。調子に乗る、サービスしすぎる!これが失敗の元じゃ」
  • 「作戦の犠牲となった気の毒な人間たちに、まずは惜しみない哀悼の意を証すべきではあるまいかの?」

この台詞について考えていきたいのだが、いちばん大事なことは、「鶴亀和尚」という名前がそもそもおかしいという点である。

「和尚」とは本来人間がなす仕事である。そもそも仏教が人間発祥なのだから当然のことだろう。そんな「仏教」の最前線にいるはずの「和尚」という名でなぜ鶴亀和尚は呼ばれているのか?

それが1つ目の台詞からわかってくる。つまり、かつて鶴亀和尚は人を化かすために寂れた万福寺の和尚に化けて人を欺こうとしたのだろう。ところが、それがあまりにもうまくいってしまい、人間から「和尚」として扱われてしまったがゆえにず~っと和尚をし続けたということではないだろうか。つまり、サービスしすぎたのである。

そして、人々が万福寺を顧みることがなくなり廃れてしまっても、鶴亀和尚はあの場所にい続けてくれた

なんというか、鶴亀和尚は根本的に人間に対してどちらかというと友好的であるという側面が見て取れる。

そして「もののけ姫」のモロの君にも同じようなにおいがするのである。

そもそもモロの君は強烈な矛盾を抱えた存在として「もののけ姫」という物語の中に存在している。つまり、人間に対する憎悪を見せながら、人間であるはずのサンを大切に育てている

なぜこのような矛盾が発生しているのだろうか?実はその周辺のことについては以下の記事に以前まとめている。

上の記事ではエボシ御前との絡みでモロの君についても書いているのだが、モロの君の矛盾について考えたことを取り出してみると、ポイントになるのは実のところ宮崎監督が「もののけ姫はこうしてうまれた。(PR)」というドキュメンタリーの中で発した以下の言葉になる:

「つい、自分の飼っていた犬を思い出す。」

「やっぱりね、子供の頃に一心同体の犬と育たなかった・・・」

いずれもモロの君、あるいは山犬の作画を修正しているときの監督の発言であり、幼少期に犬を飼っていた宮崎監督の犬に対する思いがこぼれ出た発言となっている。

大事なことは、犬に対してこんな思いを持っている監督が一方的に人間を呪う存在としての山犬を描くだろうか?ということである。個人的な答えとしてはNOとなる。

つまり、犬であるモロはその深いところでは人間を嫌悪していないと思われる。

ところが、鶴亀和尚がそうであったように、自分を取り巻く状況が劇的に変化し、自分以外の森の民や子どもたちの事もあり、人間と対立しなくてはならくなったのである。

モロの君がサンを育てているのは古くから自分が持っていた素朴な感覚によっていたかもしれないが「もののけ姫」という「今」においては、人間と対立しなくてはならなくあんった。

逆に考えると、モロの君が人間とうまくやっていた過去があったのではないかと想像される

「もののけ姫」本編を見ると、モロの君以外の森の民は「人間」に対してその嫌悪を向けているのに対して、モロの君だけは「エボシ御前」というその瞬間の首領にのみその憎悪を向けている。

結局モロの君が傷つけたのがエボシ御前のみであるとう事実もそれを証明している。

以上をまとめると、

  • 鶴亀和尚という名前を前提にすると、人間を和尚として化かしながら、結局和尚として生きた日々が見てとる、
  • サンを一生懸命育てていることを考えると、モロの君も人間と何かしら良い関係を築いていたことが想像される。

ということになると思う。

結末がわかっている物語

「もののけ姫」と「平成狸合戦ぽんぽこ」のもっとている最も重要な類似点は「結末がわかっている物語」ということになるだろう。

我々がこの世界が狸の楽園になっていないことを知っているし、巨大なもののけがいないことを知っている。

つまり、狸やもののけはどう考えても敗北することになる。

そして、その物語を狸側(あるいはもののけ側)から描いたのが「平成狸合戦ぽんぽこ」であり、人間側から描くと「もののけ姫」になる

「もののけ姫」は双方をうまく描いているように思えるが、主人公であるアシタカが人間である時点で「人間側」という視点を逃れることはできない。サンもなんやかんやと人間であるしね。

このように、概ね「敗北の物語であること」、「敗北するのは人間ではないこと」そして「鶴亀和尚とモロの君の共通点」によって2つの作品に何やら繋がりを感じているということなのだが、物語の終わり方についてもわずかに類似性を見て取ることができる。

「どっこい生きる」ということと「情けない復活」

先述の通り2つの物語は「敗北の物語」と捉えることができるわけだが、「敗北の後」の事もわずかに描かれている。「平成狸合戦ぽんぽこ」においては「どっこい生きる」として、「もののけ姫」においては「情けない復活」として。

どっこい生きる姿として描写されたものを見るに、その意味するところは「自分たちが得たかったもの(勝利)を得られなかったとしても、そしてどんなにみっともなくても、それでも生きるのだ」というになるだろう。

一方「情けない復活」だが、これは「もののけ姫」の制作ドキュメンタリー「もののけ姫はこうして生まれた(PR)」において語られていることで、宮崎監督が物語の終焉を「情けない復活で行く」と語っていたことがわかる。

「人類全体VS太古のもののけ」という対立で考えると「もののけ姫」は確かに人間の勝利なのだが、「シシ神の森」という豊穣の地を失ったという点では人間も完全に勝利しているとは言い難い。少なくとも、大量の木を消費する「たたら製鉄」をあの場所で営むことは不可能となったと思われる。

それでもなお森はわずかな「情けない復活」を遂げている。そして、そんな「情けない復活」を遂げたあの森で、人々はやはり「情けない復活」をとげながらそれでも生きていくのである。

このように2つの作品のラストは、決して理想的とは言えない、あるいは本当に大切なものを失いながらそれでもなおそんな自分たちで生きていくという終わり方をしている。

基本的には以上のことを持って私は勝手に「ああ、『もののけ姫』は宮崎駿監督が作った『平成狸合戦ぽんぽこ』なんだな~」と思い込んでいるわけである。

もちろん異論は認める。

漫画版「風の谷のナウシカ」の完結という大事件

さて、基本的にはここまで書いたことで私が言いたいこととしては十分なのだが、漫画版の「風の谷のナウシカ」という補助線を入れるともう少しだけ状況が立体的になると思うので、その話をしようと思う。

というのも、漫画版「風の谷のナウシカ」は「アニメージュ」誌上で1982年2月号から連載が開始され、途中の中断をはさみながら1994年3月号で完結しており、「平成狸合戦ぽんぽこ」の公開と見事に被っている上に、「もののけ姫」を作る前の宮崎監督にとっての重要なポイント(段落)になっていたと思われるからである。

漫画版[風の谷のナウシカ」衝撃のラスト

映画版の「風の谷のナウシカ」を見たこのある日とは多いと思うが、その原作に当たる漫画版の内容は映画版と全く異なるものになっている。正確に言うと序盤はきちんと映画版の原作になっているのだが、途中から全く異なる展開となっている。

で、そのあらすじを網羅的にまとめようとするとこの記事の目的からずれるので一番大事な部分を箇条書きで完璧なネタバレでまとめると:

  • 腐海は旧人類が作り出した「世界の浄化装置」。
  • ナウシカたちは汚れた空気の中でも生きられるように調整されたある種の人造人間。
  • ナウシカたちは腐海が浄化したきれいな空気の中では生きることができない。
  • 求人類はある場所で復活の時を繭の中で待っていた。
  • ナウシカはそんな旧人類と(精神的に)対峙し、きれいな空気の中でも生きられるように処置できると告げられる。
  • しかしナウシカはそんな旧人類の申し出を断り、旧人類を滅ぼし、腐海が広がる世界で生きることを決める。自分たちが滅びることを知りながら。

ナウシカが選んだこの絶望的な選択とその意味を知っているのはナウシカを含めごくごく少数である。本当に少数である。おそらく指折り数えられるくらいである。

こんな衝撃的なラストを迎えるのが漫画版「風の谷のナウシカ」なのである。

ナウシカ決意の言葉「生きねば」

そんな漫画版「風の谷のナウシカ」の最後のコマは「生きねば」という言葉で締めくくられる。それは自らが下した決断に対する責任では有るのだが、同時に1994年周辺の時代を生きる人々へのメッセージでもある。

日本は90年代に至るまでに2度の掌返しを食らっている。一度目は終戦、二度目はバブル崩壊。

一度目のときに私は存在すらしていなかったし、二度目のときには幸か不幸か子供であった。私は世界がひっくり返った瞬間を「実感」してはいない。

しかし、その二つの手のひら返しをくらい、二度目のときに大人であった人々が「物語」を紡ぐとはどういうことだったのだろうか?

きっとその答えが「風の谷のナウシカ」であり「平成狸合戦ぽんぽこ」であり「もののけ姫」だったのだと思う。

いずれの物語も「そこにあったもの」、「そこにあってほしかったもの」を失った世界でそれでも生きるというエンディングを迎えている。そして、とても重要なことなのだが、その「失った世界」はそれほど醜く描かれてはいない

「風の谷のナウシカ」においてはそれでも元気な人々がいたし、「平成狸合戦ぽんぽこ」でも失ったと思った友がそこにおり、「もののけ姫」においては情けなくても復活しようとする美しい森と人々がいた。

結局のところ、「生きねば」、「どっこい生きる」、「情けない復活」が当時子供であった私達に訴えかけていたことは「それでも世界は美しい」ということだったのではないだろうか。

そしてもしそうなら・・・なんとも粋じゃないか。

ジブリ作品で一番好きなのは?
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シフルはどうなんだい?
「ジブリ作品」と聞かれたら「平成狸合戦ぽんぽこ」と答えることにしているが「君たちはどう生きるか」も候補に入るかもしれない。

この記事で使用した画像は「スタジオジブリ作品静止画」の画像です。

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Sifr(シフル)
北国出身横浜在住の30代独り身。日頃は教育関連の仕事をしていますが、暇な時間を使って好きな映画やアニメーションについての記事を書いています。利用したサービスや家電についても少し書いていますが・・・もう崖っぷちです。孤独で死にそうです。でもまだ生きてます。だからもう少しだけ生きてみます。
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