「もののけ姫」は1997年に公開された宮崎駿監督による劇場用アニメーション作品である。「もののけ姫」の前に宮崎監督が作った劇場作品は「紅の豚」であり、思えばその頃から100%の大衆迎合をやめ、自分のために作品を作り始めたのかもしれない。
まあ、そんなことはどうでも良いのだが「もののけ姫」という作品を好きな人は結構多いのではないかと思う。もちろん私もその一人である。今回は「もののけ姫」という作品中異色の魅力を放つ「エボシ御前」について書こうと思う。
エボシ御前を語る上で最も需要なシーンは「アシタカからタタラ場の窮地を知らされたのに、タタラ場に戻らなかった」あのシーンである。さて、エボシはなぜタタラ場よりも、シシ神殺しを優先したのだろうか?この辺のことについて書いていこうと思う。エボシ御前は何を求めたのだろうか?
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「もののけ姫」におけるエボシ御前
「エボシ御前」はどういう人かと言われればその答えは「優れた指導者」になるだろう。しかし極めて冷酷な側面も見せている。初登場のときは、山犬に襲われ崖下に落ちた人々をすぐさま見捨たし、物語の後半に地侍にタタラ場が襲われているという事実をアシタカから聞かされても、エボシはタタラ場に還らなかった。
そういったエボシの行動を理解するためには彼女が背負う過酷な過去を知らなくてはならない。
エボシ御前は身売りされた女達をタタラ場で働かせているが、実は彼女自身もそういう過去を持っている。しかもなお、彼女は倭寇の頭目に買われ、その妻として生きていた。そんな望まぬ状況の中でもエボシは狡猾に生き、ついには頭目を殺害し金品を奪った上で再び自由を取り戻した。エボシの部下のゴンザは、エボシが倭寇の妻であった頃からの仲である。
頭目の殺害はおそらく暗殺という形をとったに違いないが、失敗できないその瞬間を望まぬ日々の中で懸命に待ったことだろう。倭寇の組織を壊滅させたとも思えないので、過酷な逃走劇も遭ったに違いない。あるいはゴンザのような手下とともに組織を壊滅させたかもしれないが、残っているのはゴンザだけである。どれほど可能性を探っても、都合の良い日々は想像できない。
そんなエボシの前に現れたのがアシタカである。彼は自らの運命を呪っていたが、エボシ御前から言わせれば「片腹痛い」であっただろう。「賢しらに僅かな不運を見せびらかすな!」という言葉に、子供の頃は「エボシ優しくないな~」と思ったものだが、エボシの人生に思いを馳せれば分からなくもない。
この様に過酷な人生を送ってきたエボシ御前にとってタタラ場とは一体どういう場所だったのか?そしてなぜエボシは、アシタカに促されてもなおタタラ場に戻らなかったのだろうか?
エボシ御前が見たタタラ場という夢
自らを苦しめたこの世界に対する復讐劇
物語中語られているように、エボシ御前が従えていた石火矢衆は彼女の紙幣ではなく師匠連という組織から与えられたものであった。エボシは「シシ神殺し」という「天朝様」の指令を利用してでも、石火矢という武力を手に入れたかった。さらにエボシは「シシ神殺し」の達成後にもタタラ場を守り抜くために、自ら石火矢の開発も行っていた。
エボシが作ろうとしていたものは単なる「製鉄所」ではなく、彼女の王国である。
エボシはなぜ自らの王国を作ろうとしたのだろうか?これに関しては想像の翼を羽ばたかせるしかないのだが、エボシ御前は世界に復讐をしたかったのではないだろうか。
エボシの壮絶な過去は自分が悪いとか誰かが悪いとか、そういった理由で発生したことではなく「この世界がそうなっているから」エボシは苦境に立たされた。そんな彼女はこの世界の有り様を変える、あるいは世界をひっくり返すためにその残りの人生をかけようと思ったに違いない。
そしてその拠点こそがタタラ場だったのである。
エボシ御前と「天朝様」の密約
「世界に対する復讐劇の拠点」と考えると、タタラ場は非常に厳しい状況に置かれている、あるいはこれから置かれるであろう事がわかる。実際作中でも地侍達との激しい闘争を行っていた。その上相当に追い込まれてもいた。確かに優秀な指揮官になるはずだったエボシはいなかったし、最前線で戦うはずだった男たちもいなかったのだが、いればなんとかなったという様子にも見えなかった。
タタラ場という場所がエボシの王国である以上、鉄を作っていればよいのではなく、それを期間産業とし、周りの権力者と対等にやり会えるくらいの武力をもち、王国が安定するまでの武力衝突に耐え抜かなければならい。
エボシとしては「自分がいないくらいで陥落するなら陥落しても良い」、あるいは「また人を集めて奪還すれば良い」と考えたのだろう。逆に考えると、その瞬間のタタラ場よりも、エボシには大事なことがあったということになる。
エボシが直接的に優先したことは「シシ神殺し」だが、エボシにはそもそもシシ神を殺す理由がない。すでに「まごの守」を追い払っており、山犬さえいなくなれば「シシ神の森」は「シシ神がいるだけの森」となり、エボシの王国建設の障害は実質的にない。奇妙な力を持ったシシ神ではなく、基本的にはでかくて力が強いだけの山犬退治に向かうのが自然である。
エボシが優先したことが「シシ神殺し」でないとすると、天朝側との間に何かしらの密約があったと考えるのが自然であろう。おそらくそれば「タタラ場の安堵」であると考えられる。
そもそもタタラ場がある場所はどこぞの大名の領地であるはずで、そこで勝手に経済活動を行っている。作中でも生産された鉄の半分量をよこせと言われてきている。もちろんそれを突っぱねたので戦争になってしまったのだが、エボシはそもそもそういった武力衝突が起きないように天朝側と取引をしたのではないだろうか。
エボシがアシタカの言葉を聞いてもタタラ場に戻らかなったのは、「シシ神殺し」さえ実現してしまえば、少なくともしばらくの間タタラ場の安寧が天朝側から約束されるということもあったのだろう。
以上のようにエボシがタタラに戻らなかった理由は「奪還すればよいだけのこと」という考えと「タタラ場を安堵するという天朝との密約」だったではないかと考えている。もちろん勝手に考えているだけだが。
これでエボシが戻らなかった理由はまとまったが、ここからは少しタタラ場のその後について思いを馳せてみよう。
タタラ場の悲しき運命
地侍との戦闘と暴走したシシ神の影響で、タタラ場は相当なダメージを負ったが、幸運にもエボシの命は助かった。ラストで語られるようにエボシたちはタタラ場を再建するのだろう。
しかしその行く末が明るいとは到底言えない。地元の大名はタタラ場を狙い続けるだろうし、天頂様の後ろ盾は期待できない(シシ神は殺したが、首は手に入らなかった)。シシ神の暴走で多くの木々が失われたが、製鉄所としてのタタラ場、そしてかつて「シシ神の森」であった場所は権力者にとって魅力的であり続けるだろう。
結局タタラ場に住まう人々は「搾取」との闘争を続けることになる。だが、「天朝様」の後ろ盾はない。どう考えてもタタラ場に未来はない。それでもなお、エボシはタタラ場の人々に優しくほほえみ、もう一度初めからやり直そうと告げた。
絶望の未来を予見しながらも、エボシは懸命に生き続けようと告げたのである。エボシにとっての儚くも強固な夢であった自らの王国の樹立はもはや実現できない。そんな絶望のなかで、タタラ場の人々に微笑みを与えたエボシの心意気は、アシタカがカヤに向けた笑みと同じであっただろう。
タタラ場は滅びる。その運命は変えることができない。
しかしその滅びの瞬間まで、タタラ場の人々は懸命に生きただろう。もしかしたら、地侍との戦いの中でアシタカの英雄譚くらいは生まれたかもしれない。
それでもやはり滅びる。アジアの東の端に、たたら製鉄の国は存在していないのだから。
自らの王国を樹立し、自らに辛苦の過去を与えた世界を滅ぼすエボシの戦いは実らない。でも、そんなエボシの戦いを知った我々は、せめて懸命に生きるしかないのではなかろうか。誰かに売られることもなく、地侍との闘争もない人生を我々は享受している。
懸命に生きよう。ただただ懸命に。
この記事で使用した画像は「スタジオジブリ作品静止画」の画像です。
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