東野圭吾原作の映画「容疑者Xの献身」。私は映画しか見たことがないが、未だかつてこれほど題名に偽りのない作品を見たことがない。何回見てもまさしく「容疑者Xの献身」である。個人的にとても好きな作品なのだが、なぜこの作品は面白いのだろうか。
今回は「石神哲哉」という人物の真実に迫りながら、この作品の面白さについて考えていこうと思う。まずは物語のあらすじを思い出そう。
「容疑者Xの献身」のあらすじー石神哲哉が見た最後の夢ー
高校の数学教師石神は、一人暮らしの孤高の男。彼は変わらぬ日常を暮らしていた。ところがある夜、隣の部屋から言い争いの声が聞こえる。彼は隣人(花岡靖子・美里母娘)を訪ねるが「ゴキブリが出ただけだ」と突き返されてまう。しかし彼は隣人が殺人を犯してしまったことにすでに気づいていた。彼は2人が犯してしまった殺人を隠蔽することを決意する。
ある朝河川敷で男性の遺体が発見される。捜査本部が設置されるが、遺体の損壊がひどく、被害者の確定も艱難な状況にあった。
そのような状況下、とある捜査一課の刑事が物理学者湯川に捜査協力を求める。湯川はこれまでも結果的に捜査協力した上に、難解な事件を解決した人物である。
事件の捜査中、被疑者の候補として上がっていた母娘の隣人が石神であることに湯川は気付く。湯川と石神は学生時代の友人であり、湯川曰く石神は「天才」である。
石神が仕掛けたトリックは極めて巧妙なもので、石神の関与に気づいた湯川の当初の予測通り捜査は難航した。しかし湯川はその優れた洞察力で最終的に事件の概略を看破するが、石神が全ての責任を負い「出頭」してしまう。
自らの人生をかけて母娘をかばった石神だが、良心の呵責に耐えかねた花岡靖子が自首してしまい、石神の作戦は瓦解してしまう。
「容疑者Xの献身」における石神の動機
上記のように、石神は母娘の殺人を隠蔽すべく策を弄するのだが、この隠蔽トリックは極めて秀逸である。このトリックの巧妙さだけでこの作品には価値があるとさえ言える出来だと私は思うが、重要な問題は「石神は何故人生をかけてまで2人をかばおうとしたのか?」ということである。一応答えは作品中で提示されている。前提となる状況は以下の通りである:
人生に絶望し、自ら命を断とうとしていた石神。そんなときに隣に越してきた母娘が挨拶に訪れる。ある程度一方的ではあるものの、石神は隣人母娘との関わりの中で、絶望の淵から復活し生きる気力を取り戻す。
つまりはその存在によって自らの命を救ってくれた母娘への恩返しということになっている。
さらに、美しき隣人花岡靖子に対する恋慕の思いも作品中に描かれる。映画を見る我々に対して、その「思い」を確定させてくれるのも湯川の洞察である。湯川は石神と歩きながら以下のような会話をする(2人が石神の部屋で飲んだ次の日の朝のことである):
ここで石神は正面のガラス上の壁に映る2人の姿を見比べる(湯川はそこで違和感を覚える)。
この後湯川は自分が覚えた違和感が、石神が自分の見た目を気にしていることに起因していることに気がつく。自分の見た目(老い)を気にしている石神の中に、湯川は恋慕の思いを看破したというわけである。以上をまとめると、石神の動機は
自らを絶望の淵から救ってくれた母娘への恩返しと、花岡靖子に対する恋心
ということになる。これはこれでよいし、そのような映画になっているのだけれども、本当にそれだけだろうか?
湯川の誤解と研究者の「老い」
ここまで主に石神の犯行動機について考えてきたが、我々は2つのことをいい加減なままにして放置している。つまり
- 石神の研究者としての側面
- 石神が感じた人生の絶望
である。石神の研究者としての側面を知るための重要な証言が湯川によってなされている。つまり、
「天才なんて言葉をうかつには使いたくないが、本物の天才と呼べるのは石神だけだ」
我々はこの証言をあまりに拡大解釈してはいないだろうか?湯川が知っている石神は「あの頃」の石神であって、現在の彼のことをそもそも湯川はよく知らない。もちろん、そういう状況を補完するために、湯川が石神に「リーマン予想の反例」を提示したという論文を査読させるシーンを挿入され、現在の石神も現役の研究者であるということを印象づけてはいる。しかし、論文を読む力があるということと、研究者の瑞々しさを今なお持っているということにはギャップがある。私はここにこそ、石神の自殺の原因である「絶望」があったのではないかと考える。つまり、石神は研究者として老いていたのだ。
石神が湯川に掛けた「君はいつまでも若々しい」という言葉を、湯川は見た目の事と考えた。もちろんそうではあるのだが、もう一つ重要な意味は「君は研究者としてイキイキしているな、俺もうだめだよ」であろう。今なお第一線の研究者である湯川にはこの気持を理解できない。しかも湯川にとって石神は「すごいやつ」であるがゆえに、むしろ彼への誤解が加速する。
ここで少々話がずれるが、湯川が「若々しい」という言葉を見た目の事と考え、更にそれを色恋と結びつける点には作劇的な面白さがあると思う。映画の冒頭で、湯川は捜査協力を拒んでいる。彼が事件の概要を聞くきっかけとなったのは「容疑者は美人」という事実である。もちろん冗談交じりなシーンではあるが、このシーンによってこの作品における湯川のキャラクラーが確定する。つまり、この作品における湯川は色恋の男であり、石神の本当の苦悩にたどり着けないことがここで決まるのである。
話しを戻すと、石神の苦悩とは、研究者として新しい結果を出すことができなくなったということであり、数学以外自分にはないと思っていた石神にとってその事実は自らの命を断つ決断をするほどの絶望でもあったのだ。
石神が隠しきったもう一つの動機とラストシーンの意味
さて、ここまでたどり着くと、石神が隠しきったもうひとつの動機が見えてくる。つまり「自分にしかなし得ない特別な何かを完成させる」ことである。数学の研究者としての限界を迎えた男が、隣の部屋で起こった事件を利用して特別なことを完成させようとしたわけである。少々自分勝手な理屈であるとも思われるが、これこそが優れた研究者の持っているある種の狂気である。殺人事件でさえ、彼にとっては道具に過ぎなかった(研究者としておいてなおこの点は変わらなかった)。
このように考えると、ラストでの石神の絶叫シーンにも2つの意味があるように思える。ラストで花岡靖子が警察に赴き「私も石神さんと一緒に罪を償います」と泣きながらに話すと、石神は「どうして、どうして、どうして」と絶叫する。この「どうして」の1つ目の意味はもちろん「どうして来てしまったんだ、これじゃあなた達を救えないじゃないか」という嘆きであるが、もう1つは「どうして来てしまったんだ、完成間近だった私の仕事が瓦解してしまうじゃないか!」という怒りである。
ラストの絶叫に2つ意味があるということは、この作品そのものに2つの見方があることを意味する。1つは「孤独な男が人生の最後に愛する女性を救おうとしたが、その思いはその女性本人によって打ち砕かれた」という構造だけなら幼稚な失恋物語であり、もう1つは「人生の最後に自分にしかできないことがあるということを証明しようとした絶望の数学者が、結局自分には何もできないのだという現実を突きつけられる」という絶望の物語である。何れにしても胸が痛くなる話だが、前者の方がまだ救いがあるように思われる。
無駄に長くかたってきてしまったが、結局のところ、私が「容疑者Xの献身」を面白いと思う理由はここで述べた物語の二面性にあると思う。
因みに私は原作をよんでいない。いつか読もうと思う。
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石神は自殺をやめた後も自分の価値を認識できず、靖子への献身に自己犠牲を当然のものと計算していたのに、靖子が自首したことではじめて自分の価値を認識させられて驚いた(嬉しかった?)という希望の面もあるかと思います。
どうして?の解釈ですが、福山さん自身が
どうして、自分なんかのために尽くして(自首)くれるんだ?という解釈であり、
今まで愛を知らなかった石神が2人に救われて、2人の罪を庇うことで恩返ししようとするところで石神の中でのストーリーは完結しており、まさか最後に自分のために、なぜそこまで(自首)してくれるのか?という、戸惑いを表しているということです。
ただ自分が庇ってあげたのに出てくるなよ、とか自分のシナリオは完璧だったのに。のどうしてだとスケールが小さいと思ってしまうので…。
誤解されやすいけど福山さん自身が語ってたので真意だと思います。