「ベター・コール・ソウル(Better Call Soul)」はアメリカAMCのテレビドラマシリーズであり、同様のシリーズであった「ブレイキング・バッド」のスピンオフ作品となっている。
物語の主人公はジミー・マッギル。後にソウル・グッドマンと名乗り「ブレイキング・バッド」に登場した人物である。「ブレイキング・バッド」では主人公のウォルター・ホワイトのために資金洗浄の手ほどきをする優秀な「悪徳弁護士」として描かれており、「ベター・コール・ソウル」においては、「真っ当な」弁護士であるジミー・マッギルがソウル・グッドマンになっていく過程と、「ブレイキング・バッド」以降の姿が描かれる。
「ベター・コール・ソウル」は極めて面白いドラマなのだが、主人公ジミー・マッギル(ソウル・グッドマン)の言動、判断に少々困惑させられるのも事実である。
別の言い方をすると、彼の人間性を捉えきることが出来ないという問題を抱えることになる。
今回はそんなジミー・マッギルの人間性について考え、最終的にはソウル・グッドマンとは何だったのかということを考えていこうと思うのだが、その際に重要なキーワードとなるのは、「繰り返し」、「依存性と独立性」そして「過程と結果」ということになると思う。
このキーワードを頭に入れながら「ベター・コール・ソウル」を振り返ってみよう。
「ベター・コール・ソウル」の持つ基本構造

繰り返しの物語-チャックの死までの構造-
「ベター・コール・ソウル」の序盤は以下のような極めてわかりやすい構造になっておいる:
- ジミーはチャックに認められるべく「真面目に」弁護士業を営む。
- そこになにかしらの事件が発生。
- ジミーは人が思いつかない方法で問題を解決。
- チャックにそのやり方について対立して喧嘩。
つまりは、「チャックに認めてもらいたいジミーと、そんな彼を認めてあげられないチャック」の物語となっている。
しかし、物語が進むにつれて我々を悩ます問題が生じてくる。とうのも「ジミーは本当にチャックを愛していたのか?」「チャックはジミーに愛情を感じていたのか?」という疑問にぶち当たってしまっていないだろうか。
お互いが離れては歩み寄ったりをあまりにも繰り返すし、相手を叩き潰そうと本気になっているように見える。「家族なんてそんなもんだよ」で終わることもできなくないのだが、あまりにも同じことが繰り返されてしまっていて困惑するのである。
ただこれは、作劇上の作戦、あるいはメタ的な問題と思えばある程度解決できるだろう。同じようなことは同じ海外ドラマの「SUITS」やそれこそ「ブレイキング・バッド」にも見受けられる。つまり、同じことがスケールアップしながら繰り返されていく。
ドラマ「SUITS」では「嘘→問題発生→主人公ハーヴィーの激烈な叱責→謝罪→許し→大団円」という流れが、立場や肩書具体的な問題を変えながら繰り返されるし「ブレイキング・バッド」でも「メスの製造→売上で大儲け→事件発生→金がなくなる」が繰り返されていた(最初はコメディだったよね)。
「ベター・コール・ソウル」においても同じ同じような作劇法が取られている。したがってこのドラマを見るときはある事件の始まりから終わりを一括りだと思って、次の事件が発生したら「スケールアップだ!」と思えば良い。登場人物たちの基本的な物の考え方はシーズン1と何も変わっていない。
チャックの死後のハワードへの嫌がらせ
表面上の理由
チャックの死に至るまでの物語の考え方は「繰り返し」と「スケールアップ」で良いのだが、「ベター・コール・ソウル」の中で一番悩ましいのは物語の後半で描かれた「ハワードへの嫌がらせ」である。
表面上の理由はハワードの上から目線ということになるだろう。ハワードは確かに善良な人物であるのだが、その態度が人からどのように見えるのかが全くわかっていない。ハワードはジミーに対してHHMに来るように要請したし、それがジミーにとって良いことと信じて疑わない。
しかし、ジミー側から見れば「施し」を与えているようにしか見えなかった。
さらに、当時のジミーはすでにマフィアとの関係を持ってしまっており、彼の人生は大きく変わってしまっている。これまでは自分の実力で何でも解決できると思っていたかもしれないが、自分の力だけではどうしようもない存在が現れてしまった。
一方その頃ハワードは相変わらずのハワードだった。
以上をまとめると、ジミーがハワードに嫌がらせを始めた理由は「ハワードの間抜けな善良さからくる無自覚な上から目線と、自分が変わらざるを得なくなっているのにもかかわらずハワードが全く変わっていないことへの怒り」ということが出来るだろう。
しかし・・・ジミーとキムのハワードに対する嫌がらせはあまりにも度を越しているように思える。なぜあれほどまでに苛烈な嫌がらせが描かれたのか?
苛烈なストレス
ハワードへの嫌がらせが彼の上から目線に対する不満だとしても、それは口で言えば良いことであるし、ジミーはその不満をきちんとハワードにぶつけている。それでも嫌がらせを始めてしまった。
その裏にあるのはマフィアとか変わってしまったがゆえの「命の危険」という苛烈なストレスだろう。そのストレスと戦いながら日々の生活を維持するためにはそれを発散しなくてはならなかった。
しかもそんじょそこらのストレス発散では不十分であり、ず~っとそれに集中し命の危険があるということを忘れられるものでなくてはならない。
しかも、自分という存在に対して自身しか持っていないジミーにとってはもしかしたら生まれて初めて自分の力ではどうにもならないものと対峙する羽目になっている。
ジミーとキムの行動の異常性はそのまま、彼らがその時に立たされていた状況の異常性の現れということが出来るだろう。
ただ、もう少し考えるべきことがあるとすれば、それはジミーとキムのハワードに対する依存性である。彼らは異常なストレスの中で異常な行動をとったのだが、その行動の結果としてハワードが破滅するとは考えていなかったように思われる。
ジミーとキムは反発しながらも、結局はハワードに依存していたという見方ができると思う
依存と独立の物語
ハワードに対する嫌がらせを振り返ると、根源的な部分にある「依存性」が見えてくる。
実のところ「ベター・コール・ソウル」の登場人物はそれぞれが何かしらのものに依存していたことが分かる:
- ジミーは憧れとしてのチャックに依存し
- チャックはジミーのダメさに依存し、
- ハワードはチャックの伝説に依存し、
- キムはプロボノに依存し、
- マイクは頼られることに依存し、
- マイクの義娘は夫の死に依存していた。
さらに、ジミーと一緒にハワードの嫌がらせをしていたときのキムはジミーに依存していたし、ジミーはキムを社会性の規範として依存していた(チャックもそうだった)。
「依存」というと悪い事のような気もするのだが、人には生きていくための「縁(よすが)」が必要であるわけなので全く悪いことではない。ところが、ジミー・マッギルとう存在のためにそこから逃れていくことの素晴らしさが描かれる。
ジミーを含め、何かを縁(よすが)にしているときに登場人物はまさに我々と同じなのだが、それを超えていくジミー・マッギルの姿は実に痛快でかっこいい。
そうすると「ベター・コール・ソウル」は「依存と独立」の物語であり「独立」こそが素晴らしいということになりそうなのだが、実は必ずしもそうはなっていない。それを表現するために登場したのがラロである。
ラロとは社会性を失ったジミーである。
物語の中盤で登場したラロは、優れた知性と洞察力、強靭なフィジカルと不屈の精神を持った人物である。こう言うとラロとても魅力的な人物に思えるのだが、ラロには決定的に「社会性」がなく、ジミーたちが絡め取られそうになっていた社会からひどく独立している。
ラロはジミーがチャックに対して献身的であったようにヘクターに対して献身的であったし強烈な敬意を持っていた。ところが、ラロが大事にするのはファミリーだけであり社会ではない。ファミリー以外の人間のことなどなんとも思っていない。
そしてその有能さや献身さはジミーに重なるものがあるだろう。
その事によって、ジミーが我々にとって魅力的に見える理由がジミーの持つ社会性であるということが分かる。
ジミーは「標準的な感覚」とはズレた人物であり、犯罪まがいのことから犯罪まで犯すのだが、その立脚するところにギリギリの社会性がある。特に、ジミーは人の命を大切に考えている。
このように見てくると「ベター・コール・ソウル」は単純な独立の物語ではなく「『社会』への依存と独立という相克の物語」であることがわかってくる。
ジミーは揺れ動くから分かりづらいのだが、その揺れこそがこの問語りのテーマとなっていると見ることが出来るだろう。
最後に、ジミーとそれ以外の人々がなぜ対立してしまうのか、ということについて考えていこう。
ジミーが最優先する結果と、周囲が重要視する過程
ジミーは度々周囲と対立するのだが、その根源にあるのは「結果と過程のどちらを重要視するか」という問になるだろう。
「そんなもん結果に決まってるやんけ!」と思うかもしれないが、ほとんどすべての私達は実のところ結果より過程を重視してしまっている。
だからこそ人生の成功者と呼ばれる人間は少ない。彼らは私達が「どうしよう」となすべきことから逃げている間に「こうしよう」と行動をしている。それが少々グレーであったとしても。
「ベター・コール・ソウル」においてジミーと対立する存在は一般的に言えば人生の成功者なのだが、それが故にすでに過程を重視しなければならなくなっている(法律家ということもあろうが)。一方ジミーは徹底的に結果にこだわり、その結果に至るまでの過程を全くと行っていいほど気にしない。
そして、ジミーは誰よりも優れた結果を手にする(その結果をどういじるかも彼次第)。
つまり、本来はハイクラスにいる人々が過程に固執するがあまりジミーほどの結果を得られず、本来は底辺層でうだつの上がらない生活を贈るはずだったジミーが結果をもぎ取るところが痛快で楽しいドラマになっている。
ただ、俺達はジミー的なものに憧れつつも結局過程を重要視して大した結果を得られない人生を贈ることになっている。
だからこそ、やはりジミーはかっこよく見えるのだろう。
ソウル・グッドマンはチャールズ・マッギルである

ここからは「ソウル・グッドマン」とは結局何もであったのかということを考えていこうと思う。それを考えるためにまず、チャールズ・マッギル(チャック)について重要な要素を振り返ろう。
チャックも一筋縄ではいかない人物
チャックは、ジミーにとっては「正しさの象徴」であり「社会の象徴」であった。ところが次の2つの件を考えると、どうやら簡単な人間ではないとうことが分かる:
- ジミーから弁護士資格を奪うための執念、
- キムからメサ・ヴェルデを奪い返したときの手腕。
我々はチャックが弁護士としての最盛期にどのような手段を使って結果を手にしてきたかを見ていない。それがでかい結果であればあるほど綺麗事で実現できることではなかっただろう。
チャックはジミーくらい結果のためには過程を厭わない人物だったのかもしれない。少なくとも仕事上は。
このように考えてみると、ソウル・グッドマンがどのような存在であったのかが見えてくるように思える。
ジミーがチャックになる物語
ジミーは最初期に老人相手の仕事というなかなかいにいい方向性を見つけたのだが、最終的にソウル・グッドマンとして彼がたどり着いた場所は街中にいるゴロツキの弁護だった。
それはチャックが住む世界とは全く異なっているように見えるのだが、極めて優れた成果を収め続けたという点においては全く一致している。
しかも実際のところ、奇跡を起こした件数で言えばジミーの圧勝かもしれない。
そして、刑務所に送られるバスの中での「Better call soul!」の大合唱でも分かるように彼らはアウトサイダーの英雄であった。それはチャックが法曹界の人々から深い尊敬を得ていたことに類似されるだろう。
ジミーとチャックはひどく対立し、互いに嫌悪していたのだが、2人とも全く別の立ち位置で偉大な法律家になったということになる。
そして、裁判所での最後の演説をもってジミーはチャックをようやく克服することが出来るようになり、マッギルの名前を取り戻した。
あの瞬間にチャックがいなかったことが悔やまれるが、ジミーがマッギルの名前を取り戻したことが二人の和解を象徴していたということになるだろう。
まとめると、「ベター・コール・ソウル」という物語は、長い時間をかけてジミーがチャックにたどり着く物語であったということが出来るのではないだろうか。
以上が「ベター・コール・ソウル」の内容、特にソウル・グッドマンについて個人的に考えたことです。本来ならもっとキムのことを書くべきなのですが、考えたことをこの文章に入れようとすると少々チグハグになるので書かないことにしました(大したことではなかったし)。
いずれにせよ、「ベター・コール・ソウル」は面白いドラマでしたが、皆さんにとってはどんなドラマだったでしょうか。
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