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ゴジラ(1984年)】あらすじと考察-ゴジラ復活を告げる小林桂樹の涙-

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「ゴジラ」は1984年に公開された橋本幸治監督による劇場作品である。

前作「メカゴジラの逆襲(1975年)」から10年弱の時間を経て公開されたまさに「復活のゴジラ」。タイトルも初代を踏襲したシンプルなものとなっており、作り手の気合が見て取れる。

また、本作品は初代「ゴジラ」と地続きの作品となっており、物語の中心人物である林田博士は初代の襲撃により両親を失っている。それでもなおゴジラを殺すのではなく故郷に返すという発想で対ゴジラ作戦を立案した彼の思いに我々は打たれるのである。

そんなこともあり、この作品は多くの人に愛されていると思うが、私個人的としても「ゴジラ映画史上ダントツの2位」の作品であると思っている(もちろん1位は初代ね)。

今回はそんな1984年版「ゴジラ」の面白さを語っていこうと思う。

まずは映画のあらすじを振り返ってみよう。

以下あらすじと言っても全部話してしまうので、ネタバレが嫌な人は途中まで読んで本編を見てください

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ゴジラ(1984年)」のあらすじ(ネタバレあり)

謎の巨大生物

休暇中であった新聞記者の牧悟郎(まきごろう)はヨットを楽しんでいた。そんな彼の眼の前に、行方不明となっていた「第五八幡丸」が姿を表す。

中に入ると、乗組員の大半がミイラ化した遺体となっていたが、ただ一人の生存者 奥村宏(おくむらひろし)を発見。気を失っていた彼の身分を探る中、巨大なフナムシに襲われるが、意識を取り戻した奥村によってフナムシは退治される。

帰路につく牧と奥村であったが「大黒山から巨大な生物が出現した」というににわかには信じがたい証言をする。

牧はスクープとしてこの事実を報道しようと試みるが、デスクには全く取り合ってもらえなかった。牧自身も実のところ半信半疑であった。

その頃、入院する奥村の下に恩師であった生物学者の林田信(はやしだまこと)が訪れる。林田は奥村の証言から、その巨大生物はかつて日本を襲ったゴジラであることを確信するのだった。

ゴジラの出現はすぐさま内閣総理大臣 三田村清輝(みたむらきよてる)に伝えられたが、彼はこの事実を隠蔽することを決める。結果として、牧の記事も出版前に封殺される。その見返りは、林田への独占取材の許可であった。

牧は林田の取材をするなかで、奥村の妹 奥村尚子(おくむらなおこ)に出会う。彼女が政府から兄に関する情報を隠されていることを知ると、牧は2人の再開を強引に実現させた。しかし、牧にはその感動的な再開を記事にする目論見があり、それを知った奥村と尚子は酷く落胆するのだった。

ゴジラ上陸

奥村兄妹が再開を果たしていたその頃、ソ連の原子力潜水艦が航行中に撃沈させれるという事件が発生する。

ソ連がアメリカの攻撃と断定し状況が緊迫する中、自衛隊の哨戒機が捉えた映像から日本政府は事件の原因がゴジラであることを知る。その事実をすぐさまソ連とアメリカの大使に伝えるとともに、ゴジラ出現の事実と第五八幡丸の一件が公にされることとなった。

自衛隊による対ゴジラ作戦が展開される中、静岡県の井浜原子力発電所にゴジラが出現する

原発を破壊し炉心の放射線をすべて吸収したゴジラは、頭上を飛ぶ渡り鳥に導かれるように海へと姿を消すのだった。自衛隊のヘリで現場に赴いていた林田らもその光景を確認する。

渡り鳥が発する超音波にゴジラの磁性体が反応し、その帰巣本能が刺激されたと考えた林田は、渡り鳥の鳴き声から合成した超音波によってゴジラを誘導し、三原山の火口にゴジラを落とすという作戦を発案する。

三田村首相は、自衛隊によるゴジラ対策を強化するとともに、林田の作戦の準備も進めることを決める。

一方、アメリカとソ連はゴジラを殲滅するために核兵器の仕様を決定。日本国政府に対してその使用を許可するように要請する。

三田村首相は「非核三原則」を理由に、その要請を頑なに拒否するのだった

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東京襲撃

自衛隊がゴジラを警戒する中、再び現れたゴジラはついに東京上陸を果たす。

その折、東京湾停泊していたソ連の貨物船に積み込まれていた核ミサイルのコントロール装置が誤作動を起こし、核ミサイル発射のカウントダウンが始まってしまった。

一方、林田博士はゴジラを誘導する超音波の完成を急いでいた。

進撃を続けるゴジラに対して、首都防衛のために秘密裏に開発されていた「空飛ぶ要塞」スーパーXが出撃する。

自衛隊のあらゆる攻撃を寄せ付けないゴジラに対して、スーパーXが装備していたカドミウム弾がその効力を発し、ゴジラを沈黙させる。

それと時を同じくし、ソ連の軍事衛星から核ミサイルがゴジラに向けて発射される。総理はアメリカに対して核弾頭の撃墜を要請。着弾まで残された時間はわずか30分であった。

日本の要請を受けたアメリカは、直ちに迎撃ミサイルを発射。核ミサイルの迎撃に成功する。

しかし、それと同時に再びゴジラが目を覚ます。

カドミウム弾を打ち尽くしたスーパーXは、もはやゴジラを止める力を持っていなかった。

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SAYONARA

林田博士は、ようやく完成した超音波を用いてゴジラの誘導を開始。東京を蹂躙したゴジラはそれまでの凶暴さが嘘だったかのように大人しくなり、音波の発生源である三原山へ向かう。

林田博士の作戦は見事に成功し、ゴジラは三原山火口へ落ちてゆく。

ゴジラという災厄は過ぎた。しかし、我々の心に残る思いは何故か「懺悔」であった。

ゴジラ(1984年)」の考察

どうしてもかわいいゴジラ

1984年ゴジラは、それまでに歪みに歪みまくった「ゴジラ感」を再び初代に戻す作品であったと思うし、実際それが実現されていた。

ただ、ゴジラのデザインだけはそれまでの流れから逃れることができていない。おそらく制作サイドとして最も苦しい決断の1つがこれだったのではないだろうか。

「初代ゴジラ」に回帰するために一番必要なことは「ゴジラは怖い」という印象を聴衆に与えることだろう。

しかしだ、あのゴジラのデザインを見ても「怖い」とは思わないだろう。それまでのゴジラ作品の残り香が明確に存在しており、どう見てもゴジラは可愛らしい。

そしてこの呪いのような「かわいいゴジラ」は結局この後も延々と続くことになる。

「かわいい」に同意できないなら「かっこいい」といっても良い。

私が思うに、デザインとして怖いゴジラが復活するのは「シン・ゴジラ」を待たなくてはならない。

1954年に怖いゴジラが現れ、再び怖いゴジラが現れるのに60年以上の時間を要したことになる。

それほどまでに「怖いゴジラ」を制作サイドが提供するのに勇気が必要であったということもできるだろう。

映画として公開するからには成功しなくてはならない。つまり、人に来てもらわなくてはならない。

そういうことを考えたときのギリギリの判断が、あの「かわいいゴジラ」だったのかもしれない。商売とは難しいものだよね。

とは言うものの、やはりこの映画は「ゴジラ」を復活させている。それは「核」を全面に押し出したことに理由を見いだすことができるだろう。

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小林桂樹の涙が支えた「復活のゴジラ」

1984年。ゴジラという脅威をリアリティーを持って描くなら、ゴジラに対する核攻撃は必須の問題になる。

そして、核兵器を持たない日本がその問題に直面する時、核保有国の論理と戦うことになることも必然である。

実際本編中ではソ連とアメリカが核攻撃を決定しそれを容認することを要請するが、小林桂樹演じる三田村首相は頑なにそれを拒絶する。

我々としては、その姿に賞賛を送りながらも心の何処かで「その方が良いんじゃないか」とも思っている。こういった感情が許容されるために「フィクション」は存在するのだろう。

結果的に「誤射」されたソ連の核ミサイルはアメリアによって迎撃され事なきを得る。

この映画の面白さこういった細かい部分にある。

つまり、この映画は「日米安保条約」が極めて理想的に機能している世界を描いている

それはソ連という存在に対する恐怖の現れとも言えるかもしれないし、アメリカに対する無批判な憧れと言えるかもしれない。

そして、アメリカに対して「当然やるよね?」という訴えかけと見ることもできる。

いずれにせよ、アメリカという状況に依存している日本を的確に表現していたといえるだろう。

…なんてことをさ、大人になると考えるけどさ、そうなんだけどさ。

小林家樹さんが演じた三田村首相は結構頑張ったじゃん。最初期でこそゴジラの出現を隠しちゃったけど、ソ連とアメリカの核攻撃は拒否したし、林田博士の作戦を許容していた。

そしてず~っと無表情だった三田村首相は、三原山火口に落ちるゴジラを見て涙する。彼の眼の前に広がる真っ赤な光景は、ソ連の核ミサイルが迎撃されたときの赤い空に類似するだろう。

その涙は、自らの職責を果たせたことに対する涙だったのかもしれない。その一方で、人間が生み出したゴジラをその人間が葬り去った事に対する贖罪の思いもあったかもしれない。

そしてあの真っ赤な空の類似を考える時、自分たちがしでかしたことでもないことに対する「人間としての自責の念」を表明したと思うことができるだろう。

「核」という問に対する答えが我が国において一枚岩であることは未来永劫ない。おそらくない。

それでもなお、あの真っ赤な空に涙を流した小林桂樹の姿に思ったことは同じでいられるのではないだろうか。

あの涙への共感が、一枚岩ではない日本国民にとっての僅かな救いであると私は信じている。


「ゴジラ」を語る時、「核と日本」はどうしても切り離すことのできない問題であり、それを描いてくれたからこの作品は素晴らしいと思うのだが・・・ここからはもう少しライトなトピックスに関して思いを馳せていこうと思う。

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ゴジラ上陸の謎

この映画を語る上で決して目をそむけてならないのは、最初のゴジラ上陸に関する違和感だと思う。

なんか変じゃありませんでした?

すでに自衛隊がゴジラを追っているのにも関わらず、何故か霧の中から出現し、ゴジラは最初の上陸を果たす。自衛隊はまったくそのことに気がついていない。

さらに、二回目の上陸の際にもギリギリになってようやく気がついている。なんなに警戒していたのに。

このような事実は、ゴジラの非生物的側面を端的に表現しているものと考えられる。

本編中で林田博士は「ゴジラとは人類の滅びへの警告である」と述べていた。

そして、現代的にゴジラというものを振り返ると、それは台風や地震といった未だ人間にとってどうしようもないなにかの象徴と言えるだろう(別に自然現象に限らない)。

だからこそ、ゴジラが現れたときに我々にできることは基本的に対処療法であり、「過ぎ去ってくだされ~」と祈ることしかできない。

ゴジラがそういった超越的な存在であり、ある意味で幽霊や妖怪、あるいは神(荒神)に近い存在であることがあの上陸シーンで表現されている。

ゴジラはでかいから怖いわけでもないし、街を破壊するから怖いわけでもない。怖いから怖いのである。

ゴジラの持つそういった側面も見事に映像化しているところが84年ゴジラの素晴らしいところだと思う。

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カドミウム弾と林田博士の言葉、そして次回作問題

84年ゴジラと言えばスーパーX。スーパーXと言えばカドミウム弾だよね。

本編では原発の制御に利用されていると説明されていたが、実際にそうで、所謂「制御棒」に使われている(使われうる)物質のようである。


参考


結果としてゴジラに対して極めて明確な効果を発揮した。歴代のゴジラ映画のなかでも、あれほどに効力を発揮したものはなかっただろう。

しかし、なればこその問題が2つほど発生してしまっている。それは「次回作で使われなかった」ということ、そして「林田博士がその効力に嘆いた」ということ。

1つ目の問題は、問題でありながら理解はできる。続編を作る以上、カドミウム弾は使えない。使っちゃったら終わってしまうから。でもみんな思ったよね「ゴジラvsビオランテ」を見た時。なんでカドミウム弾使わないんだ!と。

これはカドミウム弾を使ったら物語を作れないというメタ的な視点もあるが、もう少し物語の内部に潜り込んだ視点でも語ることができる。

だって、「カドミウム」だよ。我々がこの単語を初めて知った時、それは「イタイイタイ病」とセットだった。


参考


スーパーXは秘密裏に開発された兵器ではあったのだが、「カドミウム弾」の良し悪しについては世論が大きく揺れたことが想像される。

スーパーX2にカドミウム弾が装備されていなかったのはそういう理由があったと考えることができるだろう。

ただ、それよりも大事なことは林田博士の台詞だろう。彼はカドミウム弾で倒れたゴジラに対して「死んでない、死ぬはずがない」と語った。

どう見ても林田博士はゴジラに死んでほしくなかったことが分かる。その思いが言葉として出てしまった。

では、何故死んでほしくなかったのか。

これを言葉にするのは極めて面倒なのだが、簡単なところから考えてみる。

1つは、ゴジラにそこで死んでしまっては自分のプロジェクトがなくても良かったことになってしまうという科学者としてのわがままだろう。

林田博士はゴジラの研究者であり、誰よりもゴジラを理解している。そして理解している存在でなくはならない。そんな自分を差し置いて、ゴジラを駆逐する方法論があるなんて、そんなこと認められるわけがない。だから「死ぬはずがない」といってしまった。

そして、もう一つ考えられる見方がある。それは、林田博士は「ゴジラを愛してしまった我々」の象徴であったという見方である。

林田博士は初代ゴジラの襲撃によって両親を失っている。現代的にも親を失うことはしんどいことなのに、当時としては深刻であっただろう。それでもなお彼は研究者として名を成した。

しかし、その長い研究生活のなかで、彼は寧ろゴジラを愛してしまったのである。そしてそれは「大怪獣総進撃」なんかを見て育った我々の思いに合致するだろう。

つまり、林田博士の内面の複雑さは、研究者としてゴジラを調べ尽くすうちに寧ろその罪を人間の中に見てしまうという研究者としての必然と、ゴジラを愛していしまっている我々の思いを同時に実現してれたものと考えられるだろう。

このめんどくささも84年ゴジラの良さだよね。

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新聞記者牧吾郎

84年版「ゴジラ」に主人公がいるとすれば、おそらくそれは牧吾郎ということになるのだろう。

ところが、新聞記者である牧は必ずしも善良な人物として描かれてはいない。

第五八幡丸で奥村を発見した際、生きていることを確認しながらも、牧は財布を探って身分証明証を確認した上に妹との写真をパクっている。それで介抱を始めればまだ良かったかもしれないが、彼は気を失っている奥村の写真を平気な顔をしてとっていた。

後日、林田博士の研究所で尚子を見かけた牧は、奥村の財布からパクった写真を平然と林田に見せて2人の関係を尋ねているし、兄妹の再開という感動シーンを写真に収めることに関しても何ら悪びれていない。しかも官房長官から許可を得ていると嘘までこいている(許可されたのは林田博士の取材だけ)。

そして、こういった牧吾郎の性向は物語の最後まで変わることはない。

何故か映画の終盤で尚子といい感じになるのだが「吊り橋効果」以外に説明がつかないだろう。

では、何故こんないかれた野郎が主人公ポジションだったのだろうか?

理由は色々考えられるだろうが、「目撃者」としての主人公にしたかったということもあったかもしれない。

ゴジラ映画は様々なところで様々なことが発生する。そのような映画で主人公を張るからにはその「様々な状況」にコミットし、それを目撃する必要があるだろう。

現代的に、できるだけ自然な形でそれを実現するために「新聞記者」という選択になったという事かもしれない。

結局のところ主人公が「新聞記者」になった理由は分からないのだが、大事なことは、彼を分かりやすい「正義の味方」にせずに、極めてリアリティーのある迷惑な新聞記者にしたことだろう。

この辺にも、リアリティーを持って「ゴジラ」を復活させようとする作りての気合が見て取れるのではないだろうか。

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我々が愛してやまない「GODZILLA・愛のテーマ」

ここまで色々と考えてきたように、84年版「ゴジラ」はできる限りのリアリティーを実現しつつ「ゴジラと核」を描き、我々にとっての恐怖の対称であるゴジラを見事に復活させている(フォルムの可愛さはあったが)。

したがって、何かしらの方法でゴジラを退治しなくてはならないのだが、それまでの昭和ゴジラシリーズを通じてゴジラを大好きになってしまっている我々にとしては極めて複雑な思いに駆られる(私はまったく世代ではないのだがきちんと昭和ゴジラシリーズを見て育った)。

そんな我々の心を最後に包みこんでくれたのがTHE STAR SISTERSの歌う「GODZILLA・愛のテーマ」だった。

あの曲いいよね。

「Goodbye now Godzilla」、「Sayonara till we meet again」というフレーズにぐっと来た人も多いだろう。

映画公開当時、映画館であのエンディングを聞くことができた人が羨ましいね。

武田鉄矢とムッシュかまやつ問題

84年版「ゴジラ」のキーワードは「リアリティー」だと思うのだが、それを思う時、何やら浮いてみるのが武田鉄矢とムッシュかまやつだろう。

武田鉄矢は浮浪者として火事場泥棒をし、ムッシュかまやつはゴジラによって持ち上げられた電車の中でゴジラを見ながら微笑んでいた。

あれほどまでにリアリティーを追求した本作においてこの二人の存在は少々浮いている。というか、無意味なユーモアとも見えてくる。

しかし、あの二人の姿は寧ろこの映画のリアリティーレベルを上げていると思うこともできる。

最も嘘っぽい表現とは、ある状況の一面しか見せないことだろう。

人が悲しむことになっているときには皆が悲しみ、人が苦しむことになっているときには皆が苦しみ、人が混乱することになっているときには皆が混乱している。こういった表現ことそが実のところ最もリアリティーがないと言えるのではないだろうか。

実際のところは必ずその「常識」から外れた人がいる。

人が悲しむことになっている場面で何故か笑ってしまい、隣で人が苦しんでいるときに人生を謳歌し、その混乱を楽しむ。武田鉄矢とムッシュかまやつはそんな人を表現しているようにも思える。

もちろん重要な「閑話休題」、「リラックスポイント」と見ることもできるが、決して84年版「ゴジラ」のリアリティーを犯してはいないという味方も重要ではないだろうか。

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おまけ:ロシア語の空耳アワー

最後は本当にどうでもいい話なのだが、子どもの頃に初めてこの映画を見て以来、未だに存在している「空耳」がある。

物語の中盤、ロシアとアメリカが核攻撃を許容するように日本に要請するが、三田村首相がそれを拒否。結果、ロシアの核ミサイルのコントロール装置のスタンバイ状態が解除されるのだが、それを行っている大佐の下に現れた男が、

どうする気です?

といっているように聞こえる。今でも聞こえる。どうしても聞こえる。しかもその状況に絶妙にマッチしている。

未だにロシア語でなんと言っているのか分からないのだが、私と同じように聞こえた人はいませんか?そして、そいう聞こえませんか?

本当に、どうでもいい話でございました。

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北国出身横浜在住の30代独り身。日頃は教育関連の仕事をしていますが、暇な時間を使って好きな映画やアニメーションについての記事を書いています。利用したサービスや家電についても少し書いていますが・・・もう崖っぷちです。孤独で死にそうです。でもまだ生きてます。だからもう少しだけ生きてみます。
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