スタジオジブリ

【となりのトトロ】お母さんがついた「美しい嘘」と「美しくないかもしれない嘘」

前回はとなりのトトロという作品について、何故『となりのトトロ』の都市伝説がは生まれたのかという視点で考えてみた。

今回はとなりのトトロという作品中非常に印象的で美しいシーンであるサツキの髪をとかすお母さんについて考えたいと思う。私はここでお母さんあはある嘘をついていると考えている。お母さんはどんな嘘をつき、そして何故その嘘をついたのだろうか。

となりのトトロお母さんがついた嘘とその思い

シーンの誕生秘話

お母さんがサツキの髪をとかすシーンはおそらくとなりのトトロを見た多くの人の胸に残ったシーンだと思うが、実はこのシーンの誕生について、宮崎駿監督本人が語っている。

ジブリの教科書3 となりのトトロ (文春ジブリ文庫)において、何故主人公が姉妹なのかという問に対して、男の兄弟だったらもっと痛ましいものになり、自分には作れなかっただろうと述べて、次のように続ける:

……………僕自身と母親との関係てのは、あんなサツキみたいに親しいものじゃないですからね。もっと自意識過剰で、それはおふくろの方だってそうで、病院にお見舞いに行ったからって、抱きつくわけにも行かない—つまり、サツキがちょっとはずかしくってすぐ寄っていかないのが、もっともなんですね。そうすると、サツキのおふくろさんはどうするだろう……………たぶん髪の毛でもとかしてあげるんじゃないかな—そうすることによって一種のスキンシップを立ってると思うんです。それがサツキを支えているんですね。実は、そういう話が本当にあって、制作の木原くんがこういう話をきいたことがりますってある女性の話しをしてくれたんです。

ここに出てくる制作の木原くんというのは当時制作デスクをしていた木原浩勝さんで、怪談新耳袋シリーズで有名な方である。上の話は木原浩勝著ふたりのトトロ -宮崎駿と『となりのトトロ』の時代-に詳しく書かれている。

それは木原さんが高校時代に親しい友人から–怪談と共に–聞いた話だそうで、その女性の母親はずっと入院生活をしており、母親とは病院のベッドでしあったことがなかった。それでも病院に行くとショートヘアだったその女性の髪を何度もすいてくれた。そういう経験のおかげで、母親の愛情を忘れたことはなかったという。そしてその女性は

だから私は片親だったけど、それでいじめられたことも多かったけど、寂しいと思ったことはないし、1度もグレなかったんですよと誇らしげに笑った。

そうである。この話を聞いた宮崎監督は一言いい話ですねとつぶやいた。

もともと胸を打つシーンであるが、それが宮崎監督本人の複雑な母への思いと実話に基づいていると聞くと、あのシーンの素晴らしさが更に際立つ。

しかし、宮崎監督の情念がこもっているせいか、大人になってからあのシーンを見ると私の中の悪魔が囁いてくる。それはサツキのお母さんの内面の複雑な真実である。あの時お母さんはどんな思いでサツキの髪をとかしていたのだろうか?

お母さんのついた嘘

さて、いよいよお母さんのついた嘘について話そう。それは、お母さんとサツキの次の会話である:

  • お母さん:相変わらずのくせっけねー。あたしの子供の頃とそっくり。
  • サツキ:大きくなったら、私の髪もお母さんのようになる?
  • お母さん:たぶんね。あなたは母さん似だから

この会話におけるあたしの子供のお頃とそっくりあなたは母さん似だからどうしても嘘に聞こえるのである。あまり適切な画像ではないのだが、下の2つの画像を見てみよう。

実際には左の画像の直後が良いのだが、サツキとお母さんはたしかにおでこが似ているように見える。しかし露骨なのは、メイとお母さんの髪型の類似である。どちらも真ん中から分けており、実際にはメイのおでこもお母さんそっくりである。

また右を見てみると、ボサボサのお父さんの髪とサツキの髪はそっくりである。お父さんはそもそも髪型など気にしたこともない人であろうし、サツキはその忙しさから自分の髪型を整える時間がない。つまり、最も自然状態にある2人の髪がそっくりなのである。

更に、サツキがお母さんに手紙を書く下のようなシーンがある。

自らの研究に勤しむお父さんの姿と良い対比になっているではないか!どう考えてもサツキはお父さん似である。では何故お母さんはサツキに対して自分に似ているなどということを言ったのだろうか?

お母さんが嘘をついた理由➀美しい嘘

お母さんが嘘をついた理由の最も重要な部分はもちろんサツキが自分を大好きなことを知っているからである。別の言い方をするとサツキは自分になりたがっていることを知っているからになるだろう。

入院している自分と使えない父親という緊急事態の草壁家で、自分の娘サツキがどんな状況にいるのかをお母さんはよく知っている。そしてそのような状況で、あなたは私に似ているという言葉はその瞬間最もサツキが求める言葉であり、最高の自己肯定を与えるものだったに違いない。はっきり言って、お母さんはサツキの髪をとかしながらサツキを抱きしめているのである。

確かにお母さんは–この記事内では–嘘をついたのだが、それは、自分の髪よりも妹の髪を気にかけ、使えない親父の代わりに家事をこなしている娘に向けた最高の愛情表現だったのではないだろうか。そして、ボサボサの髪をとかすほうが、実際に抱きしめるよりもよっぽどサツキの心を癒やしたのかもしれない

……………さて、皆さん。ボサボサなんですよ。サツキの髪は。この辺のことが、私の中に悪魔の囁きを生み出すのである。

ボサボサの髪を見たお母さんは一体なにを思ったのだろうか?

お母さんが嘘をついた理由➁美しくないかもしれない嘘

七国山病院の病室を思い出してみると、全員が女性である。そこに髪がボサボサの娘が入ってきた時の思いはどんなものだっただろうか?おそらくお母さんは一瞬しまったと思ったに違いない。

つまり、この手のことに関して全く使い物にならない自らの夫にすこしはサツキの髪をきにしてあげてと手紙くらいは書くべきだったと思ったのではないだろうか。ではなぜ、サツキの髪はボサボサではいけないのだろうか?

サツキが恥ずかしい思いをするから?

いやそうじゃない。お母さんの内面に生じた思いはそんなものではなかったと思う。一応言っておきますが、あの瞬間のお母さんの思いについてこれからものすごく嫌なこと言います。

良いですか?

あの瞬間お母さんが思ったことはボサボサな髪の娘を周りの人に見られて恥ずかしいだったかもしれないのだ。

つまり、あの瞬間相変わらずのくせっけねー。あたしの子供の頃とそっくり。といったのは娘の髪はくせっけであって、ボサボサ(手入れがなされていない状態)なわけではないということを、自分の周りにいる入院患者に伝えようとしたのではないか。そしてこれは満面の笑みで私もお母さんのようになる?と聞いた娘に対してたぶんという言葉で返した理由なのではないかと思ってしまう。

なんかちょっとサツキが可愛そうな気もするが、病院はサツキが暮らす場所ではなく、お母さんが暮らす場所である。これくらいのことを考えてしまうことを責める必要もないだろう。

ここでもう一度宮崎監督の言葉を引用する:

……………僕自身と母親との関係てのは、あんなサツキみたいに親しいものじゃないですからね。もっと自意識過剰で、それはおふくろの方だってそうで、病院にお見舞いに行ったからって、抱きつくわけにも行かない—つまり、サツキがちょっとはずかしくってすぐ寄っていかないのが、もっともなんですね。そうすると、サツキのおふくろさんはどうするだろう……………たぶん髪の毛でもとかしてあげるんじゃないかな—そうすることによって一種のスキンシップを立ってると思うんです。それがサツキを支えているんですね。

もちろん私はうがった見方をしているし、あのシーンが美しいということは絶対に変わらない。でも、なにかこう、それだけでは終われないものをあのシーンに感じてしまうのである。

となりのトトロお母さんがついた嘘のまとめ

以上のことをまとめると

まとめ

となりのトトロにおけるお母さんがサツキの髪をとかすシーンは、宮崎監督の母親への思いと、制作デスクであった木原浩勝さんが聞き知った実体験が混ざった極めて美しいシーンである。

お母さんが、どう考えてもお父さんに似ているサツキに対して自分に似ていると嘘をついたのは、それこそがサツキがもっとも求めている言葉であり、その言葉と髪をとかすという行為によってお母さんはサツキを全身で抱きしめているのである。

こういう意味でお母さんがついた嘘はとても美しいものなのだが、一方で、お母さんはボサボサの髪の娘の姿を見てしまったという思いにかられた可能性がある。

つまり、もともとくせっ毛であるということを周りに主張するために自分に似てという嘘をサツキについたのかもしれない。

ということになる。となりのトトロは幼稚園の頃から繰り返し視聴している作品であるが、年を重ねると色んなことを考える。これは作者の意図からどんどん離れていくということかもしれないのだが、宮崎作品の登場人物は生きているということの裏返しだと思う。生きた人だから、単純には割り切れないお母さんの思いを勘ぐってしまうのである。

こういうふうに考えると、このシーンの直後に現れるお父さんがものすごく間抜けだね。今すごいこと起こってたぞって教えてあげたいよ。みんなはこの話についてどう思う?

お母さんは嘘をついたと思いますか?
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シフルは嘘をついたと思っているわけだね?
まあそうだね。ただ、直接的な証拠はなにもないので、俺の個人的な感想に過ぎないけどな。

おまけ:お父さんの覚悟と狂気

さて、今回はお母さんとサツキの物語を考えてきたが、私が男だからだろうか、どうしてもお父さんを捨て置けない。

となりのトトロを見ると、どうしてもお父さんの間抜けさというか使えなさが目につく。メイから目を離すし、自分が家事当番の朝も見事にそのことを忘れている。自らの配偶者が入院中であるという緊急事態をわかっているのかどうかもわからないくらい使えないやつである。でも、使えないだけでは、お父さんは終われないと思う。。

設定上お父さんは大学の非常勤講師である。しかも文系の考古学者。おそらくとても優秀な人なのだろう。しかも32歳である。彼は勝負しているのである。30代の研究者として、今自分の中にあるものを全力で研究にたたきつけている。もちろん現代的に考えれば、そんなことしてないで子供の世話を全力でしなさいと言われそうなものであるが、実はそれもあの家庭にとっては中々危うい。お父さんが研究者として立場を作れなかった未来のほうが、よっぽどあの家庭を地獄に陥れるのではないかとも思う。そしてそれを思う時、あのお父さんの覚悟が見えてくる。

つまりは、あのお父さんは決めたのである。研究者として認められる道を。それは普通の人には出来ない。あのお父さんが優秀であるからできることだろう。ある意味では風立ちぬの堀越二郎とか、宮崎監督本人の分身だったのではなかと思う。やらないということができないたぐいの人なのである。

ここからまた、すご~く嫌な話しをします。

そういうお父さんの狂気とはまあ、サツキは大丈夫ということである。別の言い方をするとメイはまあ、ねえ、なんというか、その………ということでもある。優秀な研究者であるお父さんは研究とサツキの両立は計算できたが研究とメイの両立は諦めたのではないかと、ちょっと考えてしまう。

構造としては、メイのように母に抱きつけないサツキ自分の母親と『サツキほど優しくない関係』にあった宮崎監督の分身であり、その存在は髪をといてもらうということで救われるのだけれど、一方で、仕事をしないということが出来ない宮崎監督の分身である、研究をしないということができないお父さんは、母にへいきで抱きつけるメイを一人ぼっちにしているのである。

なんとも無駄に暗い気持ちになる。

もちろん、そんなわけはないんですよ。この記事本編の美しくないかもしれない嘘も、ここで述べたお父さんの狂気も、私が勝手に考えていることであり、特にメイに関してはありえない話である。露骨に感情が見えないだけでお父さんはメイのこともこよなく愛しておりま、いっかなどと考えているわけがない。

ただとなりのトトロを大人になってから見ると、この記事で書いた情念みたいなものを感じてしまうのである。

これも私が見えなくなった人だからなのかもしれない。

この記事で使用した画像はスタジオジブリ作品静止画の画像です。

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北国出身横浜在住の30代独り身。日頃は教育関連の仕事をしていますが、暇な時間を使って好きな映画やアニメーションについての記事を書いています。利用したサービスや家電についても少し書いていますが・・・もう崖っぷちです。孤独で死にそうです。でもまだ生きてます。だからもう少しだけ生きてみます。           
           
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