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金田一耕助は何故殺人事件を止められないのか?-彼が過去を遡る意味を考える-

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「金田一耕助」は横溝正史(1902~1981)の小説に登場する探偵である。

子供の頃からテレビドラマや映画で何度となく見てきた「金田一耕助シリーズ」だがこのシリーズは、金田一耕助がいてもいなくてもほとんど何にも変わらないという極めて特筆すべき特徴がある。

彼は概ね殺人事件の発生前から状況に参加しているのにもかかわらず、最初の事件が発生してしまうばかりか、バンバンその後も殺人が行われ、真犯人の目的が概ね達成されたところでようやく事件の真相にたどり着く。

一応真犯人は判明するわけだが、あれだけ殺していれば必ず証拠が発見されて警察が逮捕にこぎつけたことだろう。

今回はそんな金田一耕助が「何故殺人事件を止められないのか」について考えていこうと思う。

それは結局のところ「金田一耕助シリーズ」で何が描かれているの、そして金田一耕助とはどのような存在であるかを考えることになる。

まずは結局「金田一耕助シリーズ」とはどういった物語だったのかを考えてみよう。

*以下の文章は主に「犬神家の一族」、「八つ墓村」、「獄門島」、「病院坂の首縊りの家」といった何度も映像化が繰り返されている有名作品が元になっています。

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金田一耕助シリーズで描かれたもの

戦前から戦後へ

金田一耕助シリーズ語るうえで最も重要なのはおそらくその時代性だろう。例えばおそらく最も有名な作品である「犬神家の一族」は連載開始が1950年で、舞台設定も戦後すぐとなっている。

金田一耕助が初登場する「本陣殺人事件」は唯一作品内の時間は戦前(1937年)であるが、連載が開始されたのは1946年(まじで!)となっており戦後となっている。

横溝正史は持病の結核もあり従軍していないようだが、1902年生まれの横溝正史は大人として職業人(作家)として戦前、戦中、戦後を生きた人物であり、戦前の抑圧と戦後という開放を身にしみた人物でもある。

そういった時代背景が金田一耕助シリーズにあることは抑えておくべきことであろう。

残されたてしまった呪い

さて、そのような時代背景があるとして結局のところ「金田一耕助シリーズ」では何が描かれたのだろうか?

最も端的に言うならばそれは「戦前から戦後に残されてしまった呪い、怨念」ということができるだろう。

多くの物語において共通することだが、金田一耕助シリーズの物語を根本的に推進しているのは「秘密」である。そしてそれは戦前なる世界で作られた秘密であり、それが戦争という混乱の中で有耶無耶になり、戦後にまで受け継がれてしまう。

結果として物語に関係するものは自分たちの「状況」そのものが立脚して根拠を自覚できずに右往左往する羽目になっている。

それは別の言い方をするならば、終戦を持ってしても戦前的なるものに固執した人々が描かれたということでもある。

このように書くと「戦前は暗黒」「終戦は民主主義の夜明け」といういわゆる「戦後民主主義」にどっぷりな感じに受け止められてしまうと思うが、別にそういう短絡的なことをいいたいわけではない。

実際、横溝正史自身は戦前に作家としての抑圧(検閲)を喰らいつつ作家としての活動をしていた人物である。本当にわかりやすい暗黒の時代なら作家など存在し得なかっただろう。

それでもなお自由な表現が抑圧された日々から、戦後という状況に移り変わった世界で生きた横溝正史にとって、戦後的なものは十分に期待を寄せるものだったのではないだろうか。それが「金田一耕助シリーズ」に色濃く出ていると思うし、同世代の作家、例えば石坂洋次郎(「青い山脈」の著者)の作品にも見て取れる。

現代を生きる我々は幸運にも「戦争が終わる」ということを経験せずに住んでいるが、当時を生きた人々にとっては「終わった」ということそのものが十分に、そして極めて喜ばしいことであっただろう。

その執着は言わば「呪い」であり、彼らは戦前から残されてしまった呪いの中にいる人々になっている

もちろんその「呪い」は悪いものとして描かれる。

とういことは、金田一耕助の仕事はその呪いを解くことではないだろうか?

金田一耕助は何故殺人事件を止められないのか

明らかにすべきは動機

結果的に少々メタ的になってしまうが、結局のところ金田一耕助という探偵は殺人事件を止めるために設定されているのではなく、その背後にある真実を明らかにするために設定されている存在ということになるだろう。

だからこそ彼は家系図をたどり、過去を遡る。

そのような彼の姿を見るときに我々が気がつくのは、彼が最も重要視するのは動機であるとうことだろう。したがって、細かな方法論にはそこまで興味はない(当然興味はあるのだが比較的興味がない)。だからこそ彼はあまり現場にはいない。所謂「現場百回(現場百遍)」とは真逆の生き様を見せてくれる。

金田一耕助は現場を離れて過去へ過去へと旅をする。

そして彼は最終的に、どのようにその事件が起こったのかも解き明かしつつ、何故その事件が発生したのかを解き明かしてくれるのである。

誰のために真実を明らかにしてるのか

ここまで色々考えてきたが、根本的な問題であるところの「何故金田一耕助は殺人事件を止められないのか」にたどり着いてはいない。

しかし、実のところ金田一耕助は殺人事件を止められなのではなく、殺人事件を止めない存在として設定されているのではないだろうか。

もちろん沢山の人が死んでしまうことは大きな悲劇なのだが、実は意図された殺人がすべて結実することによって呪われた人々がいなくなり、未来への希望が残るようになっている(人の死をこのように取り扱えるところが「フィクション」の強さだろう)。

逆に言うと、殺人事件が冠水されなければ「金田一耕助シリーズ」の物語は終わることができない。悪しき呪いが残ってしまうわけだから。

さらに言うなら、全員が死んだ時点で呪いはなくなってしまっているのだからその事件の裏にある真実が明らかにされる必要もないように思える。

では何故金田一耕助が真実を語ってくれるのかと言うと、それはどう考えても作品を見ている私達のためだろう。

真実のみが呪いを払う

金田一耕助が真実を明らかにしなくても、呪われた人々が死ぬことによって形式的に呪いはなくなっているのだけれど、大切なことはそれが呪いであったことが分からなければ新たな未来は作れないということだろう。

呪われた人々がいなくなってもまた同じことが起こるかもしれない。新たな未来を作るにはそこに呪いがあったこと、それが払われたことが認識されなくてはならない。

だから金田一耕助は真実にたどり着き、それを人々(我々)に語ってくれる。

結果として我々はその呪いに気が付き自分の人生に還元していくのである。少なくともあのようであってはならないと。

まとめ:金田一耕助はなぜ殺人事件を止められないのか

以上のことをまとめるならば、以下のようになるだろうか。

まとめ

金田一耕助が殺人事件を止められないのは、そもそも殺人事件を止める存在として設定されていないからである。彼の仕事は戦前から戦後に残ってしまった呪いを解き明かすことであり、それを解き明かすことによって「呪い」の存在を明らかにし二度とその呪いに人々が苦しめられないようにすることである。だから金田一耕助は殺人事件を止められない。

ということになるだろうか。

金田一耕助という探偵を多くの俳優が演じたが、この記事を書く上で最もヒントになったのは渥美清さんが金田一耕助を演じた「八つ墓村」であった。

所謂「探偵」というイメージに合わない渥美清さんは見事に金田一耕助を演じきっていたのだが、何故そこに説得力があるかというと金田一耕助とは「語る人」だからだろう。渥美清さんは本当に見事な金田一耕助であった。


以上が私が思うところの「金田一耕助」です。作品(横溝正史作品)を深く知っていればいるほど異論はあると思いますが、まあ、こんなふうに考える人もいるということです。異論はいつだってWelcomeです。

おまけ:金田一耕助的物語たち

ここからは私にとっての「金田一耕助的物語」をいくつか挙げていく。ここで紹介する作品は別に金田一的だから面白いわけではなく、それそのものとして面白いのだが、その類似を見出すと別の面白さがあって良いと思うのでここで紹介することする。

劇場版ガリレオシリーズ

東野圭吾の小説を原作とする「ガリレオシリーズ」がテレビドラマや映画で展開されている。形式は所謂「探偵もの」であり、物理学者である湯川学(ゆかわまなぶ)が不可思議な事件を解決する。

この「ガリレオシリーズ」は少なくとも映像作品においては極めて面白い「棲み分け」がなされている。

テレビドラマ版においては、はっきり言って「なんじゃこりゃ」と言いたくなるような間抜けかつひどく科学的な事件が発生し、優れた物理学者である湯川だからこそ(?)解決できる事件となっている。

一方で劇場版は全くその様相が異なっている。

ここで取り上げたいのは「容疑者Xの献身」と「真夏の方程式」(「沈黙のパレード」はどうもこの文脈から外れている)。

「容疑者Xの献身」の最も面白い特徴は、探偵役である湯川学がいようといまいと状況がなにも変わらないという点である。

非常に切ない物語ではあるのだが、探偵の仕事が「我々(視聴者)に真実をつたえる」ということになっている点で極めて金田一耕助的であると思った。「容疑者Xの献身」における湯川学は本当に外野なのである。

一方で「真夏の方程式」において湯川学は「真実原理主義者」として動くこととなる。

しかも、多くの人にとって「明らかにする必要のない真実」にたどり着く。

このような視点に立つと「湯川学」はひどく迷惑な人ということになるのだが、彼が誰のために真実を明らかにしているのかということを考えればそれは金田一耕助と同じであるということがわかる。

つまり、私達のためである。

金田一耕助も湯川学も私達に問いかけているのである、「だとして、君はどう生きるんだい?」と。

そういう問いかけがあるという点で「容疑者Xの献身」や「真夏の方程式」は本当にいい作品だった。

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鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎

鬼太郎はもちろんアニメーションということになるのだが、「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」も極めて面白い映画であり、金田一耕助的であった。

もちろんその状況設定が表層的に「金田一」だったのだけど、「鬼太郎誕生」で描かれたものは「戦前から戦後に残ってしまった呪い」だった。

つまり、金田一耕助的状況を利用したのではなく、その魂の部分で金田一耕助的なことを描いていたのである。

まだ見てない人は、見てみるのが良いのではないだろうか。そんなに損はしないと思う。

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Sifr(シフル)
北国出身横浜在住の30代独り身。日頃は教育関連の仕事をしていますが、暇な時間を使って好きな映画やアニメーションについての記事を書いています。利用したサービスや家電についても少し書いていますが・・・もう崖っぷちです。孤独で死にそうです。でもまだ生きてます。だからもう少しだけ生きてみます。
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