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ゴジラ-1.0】あらすじとその考察-ゴジラ細胞の恐怖と希望-

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「ゴジラ-1.0」は2023年11月3日に公開された山崎貴監督、脚本による劇場作品である。

公開当初から非常に評判が良く、世界配給としても成功を収め、第96回アカデミー賞では邦画・アジア映画史上初の視覚効果賞を受賞するに至った。

個人的にはラストの「海神作戦」がとても好きだし、色々と考えることもあったので、歴代のゴジラ作品でも相当上位に食い込んでおいる。もちろん1位は初代「ゴジラ」であるが、どれを2位にするかは観点によってしまうのでとりあえずは「上位」といっておこう。

今回はそんな「ゴジラ-1.0」のあらすじを振り返りながら、その面白さを探っていこうと思う。

多くの人にとっての疑問、懸念となっているのは、典子の首筋に合ったゴジラ細胞とラストでうごめくゴジラの体ということになると思うが、それについても個人的に考えたことを書いている。

さて「ゴジラ-1.0」とはどのような物語であっただろうか。

以下あらすじと言っても全部話してしまうので、ネタバレが嫌な人は途中まで読んで本編を見てください

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ゴジラ-1.0」のあらすじ(ネタバレあり)

1945年の戦争末期。物特攻隊であった敷島浩一(しきしまこういち)は、零戦の故障を訴え、大戸島の守備隊基地に着陸する。

整備隊はそれが虚偽であることをたちどころに見抜き、敷島は整備兵の橘宗作(たちばなそうさく)にそれとなく詰め寄られるのだった。

その夜、大戸島で語り継がれていた怪獣ゴジラが守備隊を襲う。

守備隊らは息を潜めて状況を見守っていたが、橘が敷島に対して零戦の機銃でゴジラを攻撃することを提案。敷島は零戦に乗り込むが、恐怖のあまりゴジラを撃つことができなかった。

その時、状況に耐えかねた整備兵がゴジラを銃撃。それに反応し暴れ出したゴジラに守備隊は壊滅させられてしまう。

敷島と橘はなんとか生き延びることができたが、機銃を撃つことができなかった敷島を橘は一方的に罵倒したが、小一軒は敷島本人にとっても決して忘れてはならない心の楔となった。

守備隊の壊滅という大惨事は軍事作戦によるものとされ、ゴジラの存在は結果的に隠蔽されることとなった。

奇妙な共同生活

1945年の冬、東京に戻った敷島は両親がすでに亡くなっていることを知る。家も失った敷島は、瓦礫の東京でその日暮らしをしていた。

そんな折、敷島は大石典子と名乗る女性と出会う。

彼女もまた空襲で両親を失っており、そのときに見知らぬ女性から託された赤ん坊 明子を育てていた。

二人は明子を育てるため、付かず離れずの奇妙な共同生活を始めるのだった。

家計を支えるため、敷島は機雷除去の仕事を始める。危険の伴う仕事であったが、その分割は良かった。

その仕事の中で敷島は、掃海艇の館長 秋津淸治(あきつせいじ)、見習いの乗組委員 水島四郎(みずしましろう)、そして野田健治(のだけんじ)と出会う。野田は掃海艇の乗組員であるが、元技術士官であり、戦時中は兵器開発に従事していた。そんな野田を秋津は「学者」と呼んでいた。

機雷除去のしごとのお陰で敷島は小さく小屋のようではあったが、きれいな家を立てことが出来た。

まだ戦後の混乱期にあったが、敷島と典子は「生活」を取り戻していくのだった。

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ゴジラ襲来

1946年夏。米軍がビキニ環礁で核実験を実施。そこで被爆したゴジラは突然変異を起こし、全長50メートルを超える巨体へと変貌を遂げてしまう。

1947年5月。米軍はなぞの巨大生物が日本に向かって進行している事実を掴むが、ソ連との緊張状態にあったアメリカは日本近郊での軍事作戦を渋り、対応は日本が独自に行うこととなった。

戦力と呼べるものがほぼない中で、敷島たちも謎の巨大生物に対応するため、掃海艇で海に出る。彼らの装備は機雷2つと船尾に設置された機銃のみであった。

そこにゴジラが現れる。

並走してゴジラ警戒にあたっていた掃海艇は一瞬にして海の藻屑と消え、敷島たちも直ちに退避の判断を下す。

絶望な状況の中、機雷での攻撃を仕掛けるが、1つ目の機雷はゴジラの表皮に傷一つつけることができなかった。そこで野田はゴジラの体内で機雷を爆発させることを考える。

野田の作戦は見事に成功し、ゴジラに打撃を与えることができた。しかし、ゴジラの傷は瞬く間に再生し、敷島達の前に立つ塞がる。

そこに、ゴジラに対抗するためシンガポールから戻ってきた重巡洋艦「高雄」の砲撃がゴジラに直撃。敷島らは「高雄」の出現にゴジラ殲滅の期待を書けたが、「高雄」はゴジラの放射火炎によって撃沈される。

力を使い果たしたゴジラは海の中へ消えていった。

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惨劇

ゴジラと遭遇した敷島等にとって、その存在が未曾有の脅威であることは明らかであったが、「混乱を避ける」という名目で、巨大生物の接近は国民から隠蔽されることとなった。

しかし、再び現れたゴジラは東京に上陸し銀座へ進行。敷島は、銀座で事務仕事を始めていた典子の下へ向かった。

日本政府は数少ない戦力でゴジラに対抗しようと試みるが、ゴジラの放つ放射火炎によって壊滅。その爆風は逃げ惑う典子と人々を吹き飛ばした。

その後ゴジラは再び海に戻ったが、最終的には死傷者3万名にも及ぶ大災害となった。

典子の遺体を発見することができなかったが、敷島は典子の葬儀を上げるのだった。

海神作戦(わだつみさくせん)

銀座での犠牲はあまりにも大きなものであったが、この状態を受けて、民間主導のコジラ駆除作戦が進行していた。

その事実を野田から知らされた敷島はその作戦への参加を即決する。作戦の具体案を立てたのは他ならぬ野田であった。

彼の作戦は、ゴジラを相模湾の深海1500メートルまでの急降下させることによる加圧とその後の急上昇による減圧によってゴジラを殲滅するというものであり、「海神作戦(わだつみさくせん)」と銘打たれていた。

予備作戦として、沈めたゴジラを急浮上させ急激な減圧を与えることも考えていた。

ただ、ゴジラを罠を張った相模湾に誘導することが最初の問題となる。

野田はゴジラが上陸した際に録音したその鳴き声を海中に流すことによってゴジラを誘導することを考えていたが、それでは不十分と考えた敷島は、ゴジラが再上陸した場合も考え、自らが戦闘機の銃撃でゴジラを誘導することを提案した。大戸島での惨劇をしる敷島は、それでゴジラを有できると革新していたのである。

野田は伝を頼ってようやく「震電」と呼ばれる局地戦闘機を見つけ出した。戦争末期に本土決戦を想定し開発されたものだったが、仕様に耐える状態にするには優れた整備士を必要としていた。

敷島は大戸島の整備兵の生き残りであった橘と連絡をとった。

敷島と再会を果たした橘は、強烈な嫌悪を敷島にぶつけるが、ゴジラという脅威と対するため「震電」の整備を承諾する。

すべての準備は整った。

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相模湾の決戦

再び日本に接近したゴジラを補足した野田たちは、作戦通りゴジラの鳴き声を利用して相模湾に誘導した。

ゴジラは想定よりも早く移動し、再び上陸を果たすが、敷島の誘導によって海へ再誘導することに成功する。

海上でも敷島の見事な誘導が機能し、ついには「海神作戦」の核となる急降下と急上昇を実施するに至った。

野田の見事な作戦は確かにゴジラにダメージを与えるものだったが、ゴジラを殲滅するには至らなかった。作戦に参加したものが絶望するなか、敷島が乗る「震電」がゴジラに向かって突き進む。

敷島は始めからこのような状況を考えており、特攻するつもりで橘に頼んで「震電」に爆弾を積んでいた。

敷島の駆る「震電」はゴジラの口内に特攻し、ゴジラの頭部を破壊することに成功。

「海神作戦」の成功に終わる。

生きているということ

敷島は生きていた。

敷島は「震電」での特攻のみを橘に伝えていたが、橘は脱出装置の整備も完璧に行っていた。敷島を酷く憎悪した橘も、最後には敷島が生きることを望んでいたのである。

吉報は続く。

ゴジラのために命を失ったと思われていた典子がきちんと発見され入院していることが分かる。

敷島と明子は典子との再会を果たすことができた。

しかし典子の首元には不可思議な黒い影。そして海中に沈んだゴジラの体も不気味にうごめくのであった。

ゴジラ-1.0」の考察

ゴジラの生態に関する伏線と回収

「ゴジラ-1.0」は大戸島における悲劇から始まる。

それは敷島と橘にとっての大きな楔となり、ゴジラと対決する大きな動機となっているのだが、あのシーンにはゴジラの生態として極めて重要な伏線が貼られている。

そもそもあの状態で敷島と橘は何故生き残ったのか?

それは最終的なゴジラ殲滅作戦における敷島の誘導が成功したことに少なくとも理由を見いだせる。

つまり、ゴジラは動かないものを攻撃しない

敷島は撃たなかったことを延々と責められ続けたが、あそこで撃っていても一撃で零戦ごと放り投げられて死に、その状況に焦った整備兵が撃ってやはり全滅という事になっただろう。橘の気持ちはものすご~~く分かるが、敷島は撃たなかったことによって生き延び、最終的にはゴジラ殲滅作戦において英雄的な功績を上げたのである。

おそらくは初登場のゴジラにはその後に見せたような驚異的な再生能力はなかったと思われるが、零戦の機銃で本当に倒せたかも微妙なところである。

しかし、「倒せたかどうかわからない」という曖昧状況そのものが敷島と橘にとっての楔となっていると考えられる。

いずれにせよ、大戸島の悲劇は「動機づけ」と「ゴジラの一貫した生態の提示」という2つの意味をもっていることが重要な点であると思われる。

巨大化したゴジラが「高雄」を放射火炎で撃沈した後にすぐに海中に戻ってしまうことも「一発撃てばへにゃへにゃになる」というゴジラの生態を我々に教えてくれるものであった。

しかしその一発こそが「海神作戦」遂行の最大の障壁であることは野田が一番良くわかっていた。逆に言うと、一発撃ったあとならなんとかなるわけで、作戦が始まった段階で謎の三隻目の意味も頑張ればたどり着けるようになっている

いろんなことがパズルのピースのようにハマっていく映画になっていて、なんとも「フェア」な作品といえるかもしれない。

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人が生きていてくれることは嬉しい

大戸島の悲劇が2つの意味を持っていたように、典子が行方不明になるシーンも2つの効果を持っていた。

1つはやはり敷島の動機づけである。

敷島は「特攻兵として死ななかった」、「大戸島で撃てなかった」そして「典子を失った」という3つの動機にってゴジラ殲滅作戦に参加する。

しかし、その作戦決行の直前のシーンで、安藤サクラ演じる澄子が電報を受け取ったことによって我々は典子が無事であることを知る。

そして願った。「敷島決して死ぬな」と。

その思いがあるからこそ、見事に敷島が脱出してくれたことが本当に嬉しかったし、典子が生きていてくれたことも嬉しかった。

この映画のキャッチフレーズは「生きて、抗え。」であったが、それよりも単純に「人が生きていれくれることは嬉しい」という極めて単純で素朴な思いが描かれたということになる。

つまり、典子の行方不明は「敷島の動機づけ」と「人に生きてほしい」という思いを我々の中に植え付けるという効果があったということになる。

完全にやられたわけ。

ただ、典子が敷島を突き飛ばすシーンを見て「タックルして自分も助かればよかったじゃん!」と思ったのは私だけではないだろう。

もちろん、典子が敷島を突き飛ばしたことによって、典子の中にある敷島への思いが明らかになるし、結果的に上に述べたような効果を生んだのだが、フィクションとはいえ典子は結局大きな痛手を負った。

フィクションとはいえ「ゴジラ-1.0」では多くの人が亡くなった。その人々は「物語の都合によって犠牲になった」という事ができる。ただ、生き残ったといっても、乗り込も十分に「都合によって犠牲になった」ということができるのではないだろうか。

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ラストに見るゴジラ細胞の恐怖とその希望、あるいはメッセージ

さて、「映画のラスト」はその映画が持つ根本的なメッセージを含んだものだと思うのだが、「ゴジラ-1.0」のラストはどうだっただろうか?

生きていたことが判明した典子の首筋には何やら怪しげな影。そして、殲滅したと思ったゴジラは復活しそう。

最初に見たときには「何だよ!」とちょっと不満があった。

確かに、ゴジラという存在はそもそも消滅させることができない。それは以下の記事でも書いた:

映画「シン・ゴジラ」で、なぜゴジラを殺せなかったのか?シン・ゴジラ」は2016年に公開された庵野秀明総監督、樋口真嗣監督の劇場作品である。庵野秀明監督によるゴジラの新作制作が明らかになった...

ゴジラは我々にとっての地震とか台風といった「どうしようもないもの」の象徴であるので、当然殺せない(初代は唯一にして珠玉の例外)。

なら「シン・ゴジラ」のように無駄な希望を持たせないような結末にしてくれればよかったものの、ちょっと期待させるところが不満だったのである。

しかし、映画を見てからしばらく考えたところ、僅かに考えは変わった。

典子の首筋にあった影はもちろんゴジラの細胞である。

参照:山崎貴監督が『ゴジラ-1.0』ラストシーンの重要な設定を認める 海外ファンの間でも続編の予想が白熱

では何故あのような描写がなされたのだろうか。

続編のための伏線?いいえ違います。

典子はゴジラ細胞に寄生されたおかげで助かったのである。

そもそも思いませんでしたか?敷島は典子を探さなかったのかと。必死になって探さなかったのかと。

もちろん探しただろう。でも見つからなかった。だから葬式をあげた。そう考えるのが自然である。

となると、可能性は例えば2つほど考えられる。

典子は信じがたいほどに吹き飛ばされたか、誰かわからないような状態になっていた。

いずれにせよ、その体はひどく損壊していたと思われる。

でも物語のラストで、典子は生きていた。

となると・・・典子が生きていた理由はゴジラ細胞に侵食されたからということになるだろう。物語の中盤でゴジラが見せた驚異的な再生能力を見れば実現可能なように思える。

これはある意味で怪奇映画であるし、ホラー映画になっているのだが、別の見方もできる。

つまり、ゴジラ細胞は再生医療の希望になり得ると言っているように見える。

そして、海中で復活しそうに見えるゴジラも見え方が変わる。

あれは、ゴジラが復活しそうなのではなくて、実験に使えるゴジラ細胞がものすごく増えたというようにも見える。

古来よりゴジラは有害な放射線を発する存在であり、「ゴジラ-1.0」でもそのように描かれた。しかし、あのラストは「忌み嫌われるものにももしかしたら別の側面を持っているかもしれない」ということを言いたいのではないだろうか。

映画のラスト以降のことを想定してみる。

典子の首筋にあれほどまでに明確に何かがあるのだから、いつかそれがゴジラ細胞だと気がつくだろう。あるいは、ばれるだろう。

その時あなたはどうすだろうか

「ゴジラ-1.0」にメッセージがあるとすればこれだと私は思う。

つまり「あなたにとって『いのち』とはなんですか?

この映画はず~っと言ってきた「死ぬな」と。キャッチフレーズも「生きて、抗え。」となっている。

そしてそういう物語に感動させるようにできている。私も感動した。

ところが、ラストで突然、もしかしたら人間とは言えないような存在が人間としてそこにいて、私達はその存在がそこにいることを喜んだという構造が発生してしまっている。

しかもその存在は「ゴジラ」と表裏一体である。

あなたは、ゴジラ細胞に侵食された典子を人と思えますか

これがこの映画が隠しきったメッセージであり問でもあるだろう。

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歴代2位の怖さと海神作戦の素晴らしさ

ここまでは面倒くさいことを語ってきたが、「ゴジラ-1.0」で一番大事なことは「とっても怖い」ということだろう。

「戦後」という状況を選んだが故に、ゴジラの登場とともに「あ、むりだ」という強烈な絶望感があった。

初代「ゴジラ」以降様々なゴジラ作品が作られてきたが、心の何処かで「なんとかするのだろう」という思ってしまう。

しかし今回は、戦後間もないという状況でフルスペックのゴジラが来るのだからその絶望感は大きかった。そのような中で「どうやってゴジラを退治するのか」という疑問が延々と頭の中で回っていたのは私だけではなかっただろう。

そして、山崎監督の解答は、物体の持つ「浮力」を用いた極めてスマートなものだった

参照:キーワード【浮力】 | ぶくぶくタンク・ポコポコタンク(名古屋市科学館)

なんとも地に足のついた作戦であり、私が知らないd酒かもしれないが、今までなぜそれをやらなかったのかと不思議なくらいだった(コロンブスの卵!)

残念ながら主人公である敷島を際立たせるためにこの作戦は失敗することになってしまったが、本来的にはあれで終わりということでいいと思う。「演出のために犠牲になった妙案」という言い方もできるかもしれない。

いずれにせよ、歴代の「ゴジラ殲滅作戦」の中で一番好きだね。

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北国出身横浜在住の30代独り身。日頃は教育関連の仕事をしていますが、暇な時間を使って好きな映画やアニメーションについての記事を書いています。利用したサービスや家電についても少し書いていますが・・・もう崖っぷちです。孤独で死にそうです。でもまだ生きてます。だからもう少しだけ生きてみます。
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