これまで「おろく婆ちゃんの言動」、「妖怪大作戦」について書いてきたが、今回は全体としての「平成狸合戦ぽんぽこ」がどういう物語だったのかについて書こうと思う。
今思えば「平成狸合戦ぽんぽこ」は「題名でネタバレ」している映画だったように思われる。少なくとも映画館の特報やTVCMと合わせれば、「狸が負ける物語」であることは明らかである。公開当時は小学校低学年で、幸運にも親に連れられて映画館で見ることができたが、わざわざ「狸が負ける話」を見に行くというのもどうかしている。
だが、それでもなお見る価値があるのが「平成狸合戦ぽんぽこ」である。まずは、本編中で描かれた狸たちの戦いを振り返りながら「敗北」について考えようと思う。
「平成狸合戦ぽんぽこ」で描かれた「敗北」のステップ
唯一効果的だった権太の作戦【幻の勝利】。
「平成狸合戦ぽんぽこ」を見たことのある人なら「権太の最初の作戦が一番正しい作品だったな~」と思ったことがあるだろう。作品中唯一人間にダメージを与えたのが権太一派の最初に実行した作戦だった。この一件で多摩ニュータウンの開発に関しての批判的な報道が始まり、狸たちは一気に盛り上がった。そればかりか、あまりにも嬉しくて即日の大宴会を行った。
しかしこれは「敗北」の第一歩でもあった。もし権太の作戦が失敗に終わっていたら狸たちは意気消沈しその後の展開はなかったかもしれない。ある意味では多摩の狸の実質的な絶滅を加速させたとも言える。そしてもう一つ重要なことは、確かに人間にダメージを与えたが、まったくもって状況を変更する効果はなかったということである。実際、ニュータウンの開発は着々と進んでいた。つまり、彼らの勝利は幻であったということになる。
これが「平成狸合戦ぽんぽこ」で描かれている敗北の第一歩「幻の勝利」である。
人々を化かす狸と「双子の星作戦」【熱狂する大衆】
さて、結果的に権太の実行した作戦の成功によって、狸たちは勢いづき、人間を化かすことに注力してしまう。これだけでも見ていられないのだが、あの正吉ですら、おキヨへの恋心のために「双子の星作戦」を実行してしまう。
この作戦も、結局は人を化かす作戦に過ぎず、なんの意味もない(まあ、正吉の気持ちもわからんではないので、責めるに責められないが)。権太だけが歯がゆさを感じていたが、熱狂している狸たちは自分を止めることができない。権太の目には彼らが対人間戦を戦う戦士には見えなかっただろう。自分の作戦の成功に浮かれる、まさに大衆だったに違いない。
これが敗北への第二歩、「熱狂する大衆」である。
妖怪大作戦に夢を見る狸たち【やけくそな夢】
熱狂の中にいる狸たちも、ある段階で「こんなことではいけない!」と気がつくのだが、そこに彼らの救世主がやってくる。もちろん四国の長老達である。
「多摩に行く」と意気込んで、こんな訳の分からない服装でやってきた長老に、自らの命運を託した狸はもはや正常な判断ができているとは思えない。結局、労力がかかる割に得られるものは何もない妖怪大作戦に一縷の望みをかけることとなった。旗から見ていると分かるが、自分たちにできる「人を化かす」ということだけではどうにもならないことに気がついている狸たちは。やけくそになっている。
これが敗北への三歩め「やけくそな夢」である。
決定的な敗北【特攻、自決、最後の変化】
妖怪大作戦というやけくそな夢にかけた狸たちは、その失敗を知ると概ね3派に分かれることとなった。一つは権太を筆頭とする強硬派、もう一つは禿狸が率いる現実逃避派、そして最後は暴露派である。
結果的に強硬派は人間の手によって命を落し、
現実逃避は宝船に乗って集団自殺を図った。
いずれにせよ、彼らは自分たちが生き残る未来というものを根本的に信じられなくなってしまっており、結果的に短絡的な道を選んだ。一方暴露派は、妖怪大作戦の実行を人々に暴露し、
結果的に敵対していた人間の姿で生きていくことを決める(最後の変化)。
このように、人間に敗北してしまった狸たちは死ぬか、敵に同化するかの選択しかなかったのである。思えばすべての始まりは権太一派の作戦であった。正吉もそれに乗ったが、なんというか、権太は頑張りすぎたんだね。最後の最後まで。
さて、権太のことを思うとなんとも切ない気持ちになるのだが、このような文脈の中で、結局の所「平成狸合戦ぽんぽこ」はどういう話だったと言えるのか。
「平成狸合戦ぽんぽこ」は結局どういう話だったのか?
抽象的な「敗北」の構造
以上のような敗北のステップを見ると、我々がどうしても想起してしまうのは「太平洋戦争での敗戦」である。「幻の勝利」は「真珠湾攻撃」だし、当時我々庶民も戦いに向かっていたし、戦艦大和の建造はやけくそな夢である。そして最後の最後は特攻という作戦とも言えない作戦をとり、我々は「アメリカっぽく」生きることにしたのだ(なんとも滑稽だし、結局「アメリカぽっくもない」)
だが、高畑監督がそんな具体的なことをしたかったのかというとおそらくそうではない。もっと抽象度の高いことをしようとしたに違いないと私は思う。一言でいうならば、太平洋戦争に限らず、
結局の所我々が敗北するのは、何かをしたからでも、何かをしなかったからでもなく、始めから負ける戦いをするから
ということが描かれていたように思われる。
そして重要なことは、たとえそれが負ける戦いであったとしても、その渦中にある我々はいつだって大真面目にことにあたっているということであり、同時にそれを傍から見ているとなんとも空回って見えるだろう。ということである。
ただ、その空回りの構造を、人間を使って描いてしまうと、また俺たちは「火垂るの墓」のような作品を見ることになっただろう。別に戦争がモチーフである必要はなく、「ある人が小さな成功体験で調子に乗り、負ける戦いに挑み、大真面目に空回りを続けながら結局敗北している姿」なんて見ていられるわけがないのだ。
この辺の「敗北のえぐさ」が、「狸の作品」として本作が描かれ、声優に噺家が起用された理由になるだろう。つまり、「空回り」を「滑稽噺」することによって「見ていられる話」になったのだ。結局の所は「悲劇は喜劇」「喜劇は悲劇」という言葉に集約されるのだろう。
ただ、「敗北」を抽象的に描いていることは確かなのだが、「敗北って滑稽だよね~」といって終わっている訳ではない。敗北のその後のこともきちんと描いている。
それでもどっこい生きていこう。
もちろん、敗北のその後についての「平成狸合戦ぽんぽこ的解答」は「どっこい生きる」である。「敗北」という渦中にある我々は、敗北後もその空回りをやめられない。その結果として、権太や禿狸のように短絡的な結論にたどり着くこともあるだろう。
しかし、「敗北したそのときこそ空回りをやめ『それでもなお生きていくこと』を選ぼうではないか!」が高畑監督のメッセージであったのだはないだろうか。そしてその言葉が「どっこい生きる」という言葉に集約されたのだろう。死んだら終わりである、
最終的なメッセージはもしかしたらつまらないものかもしれない。だが「敗北の物語」という辛辣な物語を、「狸と噺家」という舞台装置を用いることによって見事に「滑稽噺」にしたのは高畑監督の辣腕だろう。私にとって「平成狸合戦ぽんぽこ」いつまでも傑作で有り続けると思うし、年をとったらまた何か思うことがあるかもしれない。今回の記事に至るまで「ポンポコの思い出」、「おろく婆ちゃんの言動」、「妖怪大作戦」について書いたが、それも長い時間の中で考えてきたことのまとめである。
また新たな発見があるまで、どっこい生きていこう。
この記事で使用した画像は「スタジオジブリ作品静止画」の画像です。
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