「HUNTER×HUNTER(以下ハンターハンター)」は1998年から週刊少年ジャンプに連載されている冨樫義博による漫画作品である。
私の世代にとってはちょうどど真ん中の作品になるのだが、私がこの作品に触れたのは大学生になってからであり、漫画ではなくアニメでの視聴だった。それでも見れば見るほどハマっていき、キメラアント編を見終わったときには感動の涙が溢れていた。
さて今回はそんな「ハンターハンター」屈指の名作「キメラアント編」について考えていこうと思う。漫画であるにも関わらず、キメラアントの王メルエムの絶望的な強さに「おい、どうすんだよ」と本気で思ったものだったが、その結末は「貧者の薔薇」と呼ばれる化学兵器での決着だった。
この決着についてはある程度の賛否両論があるように思われるが、私個人としては「貧者の薔薇」での決着であっていると思う。ここから私がこのように考える理由を語っていくのだが、重要な補助線は「ドラゴンボール」の「セル編」である。
【ハンターハンター】キメラアント編の面白さ
ドラゴンボールという作品の困難
ホイポイカプセルという驚異
「ドラゴンボール」という作品を考える上でもっとも重要と思われる事実は、あの世界にはホイポイカプセルという超科学が存在しているという事実である。
それはどうも天才ブリーフ博士の発明のようなのだが、1人の天才が何かを発明し切るには、それだけの科学的な成熟がその世界に存在していなくてはならない。石器時代にアインシュタインは相対性理論にたどり着けないのである。
そのように考えると、「ドラゴンボール」の世界は相当に科学技術が発展していることになる。ならば・・・核兵器を超える大量殺戮兵器が存在していて然るべきである。
ところがあの世界では、戦車やらピストルやらと、我々の世界とほぼ同じような兵器体系で成り立っている。あまりにもおかしな描写だが、理由はいくつか考えられる。
1つはもちろん、そんな大量殺戮兵器を出しちゃったら、悟空たちが戦う理由がなくなるからである。
そしてもう一つは、本来大量殺戮兵器というのは使わないことに意味があるものであって、高々実験するだけでも大問題になるということである。
「ドラゴンボール」の世界の情勢がどうなっているか不明だが、例えば多くの国家が乱立しているならその使用には各国の同意が必要であるだろうし、単一国家になっていたとしても国民からの理解を得なくてはならない。いずれにしても、その使用は非常に面倒なものということになる。
それでもなお、ピッコロ大魔王やセルというやばい奴らが出てきたなら、その殲滅のために何かしらの化学兵器を利用するのが当然の帰結である。特にセルは、ドクターゲロによって科学的に合成された生命体なので、絶対に化学兵器で殲滅できる。
では、本来ドラゴンボールの世界ではどのようなことが起こるべきだったのか。
時の政府が本来やるべきこと
ドラゴンボール世界の政府高官が、セルなどの驚異の出現に際してまず行うことは軍に対して大量殺戮兵器の使用計画を立案させることと、各国へ同意を求めることである(あるいは国民に対してその使用の同意を得る)。
ある程度の時間が必要になるが、どうしても必要なステップになる。アホのセルが「セルゲーム」を開催すると言い出したときには、政府の連中は歓喜したことだろう。
その上で、実際の作戦を成功させるためにもっとも困難なことは「命中させること」ということになる。セルに限らず、あの世界の悪者はとんでもない超高速で移動するので、兵器を命中させることが非常に困難である。しかもおそらくチャンスは一度しかない。セルがどれほどアホでも、兵器の存在を知れば「セルゲーム」なんて遊びをしている暇がないことくらい分かるだろう。悟空に対する怨念を晴らす前に、世界を破壊するほうが早い。
ということで、作戦行動には悟空たちの協力が必要不可欠になる。
そして、悟空たちに対する協力要請は「セルを殲滅してくれ」という要請ではなく「なんとかセルを呼び寄せて、ギリギリまで動きを止めてくれ」ということになるだろう。最後の作戦行動時には悟空たちにも多くの危険が伴うが、げんこつ勝負で殴り合うよりはよっぽど安全に思えるし、少なくともセル編のときの悟空には「瞬間移動」がある。皆がそれを習得すればよいだけのこととも言える。
しかしここで最大問題になるのは、悟空の性格である。
悟空の性格と作戦の危険性
おそらく悟空以外のまともな連中は、軍の作戦行動に一定の理解を見せてくれるだろう。
しかし、最後の最後まで悟空は「オラ、セルと戦いてえ!」とアホなことを言い出すに決まっているのである。世界の命運よりも「強いやつと戦いたい」という欲求を優先するのが悟空だし、そんな悟空のことが俺たちはスキだったはずだ。
結局政府がどれほど要請しても、ベジータやピッコロやご飯やブルマやチチが説得しても悟空は納得しないので、「ドラゴンボール」の世界ではどうしても大量殺戮兵器を使用できないのである。
さらに、完全に前言撤回になるが、軍の作戦行動を手伝うとその爆心地に悟空たちがいることとなりとんでもなく危険なのである。セルが「この世のもの」である以上に悟空たちは「この世のもの」である。どれほど超人的な力を持っていても、その逃げ出すことができなければまっさきに死んでしまう。
そんな作戦行動を立案したところで、採用されるだろうか?基本的には悟空たちに「死んでください」と言っているようなものである。おそらく難しいだろう。悟空たちは単なる民間人である。以上のことをまとめると
- 時の政府はセルの驚異に際して、大量殺戮兵器の使用を検討するべきである。
- 作戦の成功には悟空たちの協力は必要不可欠である。
- しかし、悟空の性格上「セルを止めるだけ」という作戦に同意しないだろう。
- 何よりも民間人を危険に晒すような作戦が決行されるとは考えにくい。
ということになるだろう。しかし「ハンターハンター」の「キメラアント編」では、「ドラゴンボール」の世界が抱えていた困難を見事に乗り越えて「貧者の薔薇」を炸裂させたのである。
キメラアント編が見せた合理的な判断
キメラアントの驚異と当然の帰結
「ハンターハンター」のキメラアント編を考える上でまず大事なのは「キメラアント」はすでにその存在が知られた驚異ということになるだろう。つまり、そいつらがどこかでうごめいていることが確認されただけで、世界中の人間はビビる訳である。そして、国を守る気がある政治家なら「即刻殲滅」を考えるだろう。
結果は我々が知るとおり「貧者の薔薇」が使用されたわけだが、「キメラアント」という驚異を前にして「ハンター」を送り込むよりも「貧者の薔薇」を炸裂させることまず考えるのが当然のことだろう。もちろん本編で解説されていたように「貧者の薔薇」の使用には国際的な面目という問題がそもそも存在しているので、使わずに済むならそれに越したことはないのである。
そういう意味ではハンターを送り込んだのは「偵察」という意味ではありだっただろうが、ネテロの行動開始のタイミングを考えれば「貧者の薔薇」の使用は「キメラアント」の情報が入った時点で考えられていたということになるだろう。
作戦の困難
このように当然の帰結として「貧者の薔薇」の使用が検討されたことと思うのだが、国際的な面目よりも重要な問題が生じる。それはセルに対する作戦と同様で、一発で確実に命中させなくてはならないということである。
高度な知性を持ってしまったキメラアントに「貧者の薔薇」の存在は決して知られてはならない。
そのためにはどうしてもハンターの協力が不可欠となる。そしてここからが「ドラゴンボール」と異なる部分になってくる。
ハンター協会の立場
「ハンターハンター」作中の登場する「ハンター協会」は民間組織ということにはなっている。しかし、ハンター協会が発行する「ハンターライセンス」はとんでもない権限を個人に与えるものであり、それは世界各国の同意なしには得られない特権となっている。
つまり、ハンター協会は多くの国と「取引」をしているということになるだろう。
実際「協専ハンター」という政府からの依頼を受けるハンターが存在しているし、おそらくは各国政府からの依頼は断ることができない。
となると、キメラアント討伐作戦が立案された時点でハンター協会は何かしらの協力をすることになるだろう。この辺が「ドラゴンボール」に置ける悟空たちとの決定的なさということになる。
ハンターとしてのネテロと自爆作戦
以上のように「貧者の薔薇」使用の決断とハンターの協力という「ドラゴンボール」では実現しなかった状況が「ハンターハンター」の世界では見事に実現できるわけだが、それでも問題はのこる。
だれがメルエムを抑えるか?という問題である。
「キメラアント」を殲滅するためにはどうしても王を殺さなくてはならない。しかし「貧者の薔薇」が小型爆弾である以上、メルエムに近接した上で炸裂させなくてはならない。それこそ困難というものだろう。その上、そいつはどう考えても死ぬのである。
独立心の塊のようなハンターが、ただただ「キメラアント」の殲滅のために命を投げ出すだろうか?そしてそれを誰が命令できるだろうか?
ここで登場するのが我らがネテロ会長である。
ネテロは武術家のハンターであり、そのハンターとしての本質は「強力な相手を『如何にして』倒すか」ということになるだろう。そんじょそこらの相手なら簡単に倒せてしまうので、ネテロのハンターとしての本質を震わせることはない。
そしてそんなネテロのハンターとしての本質を、メルエムは見事に直撃したに違いない。ネテロはそれこを悟空のように、メルエムの存在に心を踊らせていただろう。
しかしネテロはハンター協会が誇る最大戦力であり、できれば温存したい戦力である。ある意味でネテロがいなくなったら「そこまで」という事になりかねない。それでもどうしてもメルエムと戦いたかったネテロは、本編で描かれた自爆作戦を進言したのではないだろうか。
ネテロの自爆は、メルエムの殲滅と「メルエムと戦いたい」というネテロの根本欲求の両方を満たすものだった。
どうせ「キメラアント」の殲滅作戦に犠牲は覚悟しなければならないなら自分の欲求を満たすことにその犠牲を利用しようとした「尋常ではないネテロのハンター魂」が「貧者の薔薇作戦」を見事に成功に導いたということになるだろう。
「キメラアント編」についてのまとめ
以上のように「ハンターハンター」の「キメラアント編」は、私にとっては大量殺戮兵器としての化学兵器が何故か使われない「ドラゴンボール」を代表とする「少年漫画」に対するある種の皮肉であるように感じられる。
そしてまた、「ハンター協会」と「ハンターとしてのネテロ」という2つの要素が、ものの見事にその皮肉を「当然の帰結」として「ハンターハンター」の世界に結実させたのである。
今回わざわざ「キメラアント編」と「セル編」を対比したのはもちろん、メルエムとセルのその形態上の露骨な同一性である。
メルエムを見てセルを思い出さなかった人はいないだろうし、その意味を考えた人も多かったのではないかと思う。そしてそれは私にとっては「これはセル編のやり直しだ!」という強烈なメッセージに見えたということである。
ただし、最終的にネテロが死んだという事実は「ドラゴンボール」の世界で同様の作戦を決行できない理由付けにもなっている。つまり「確かに大量殺戮兵器が使われないのはおかしいが、ほぼ確実に死ぬことになるような作戦に民間人である悟空参加させることはできない。セルの駆逐は悟空たちが起こした1つの奇跡なんだ」という「セル編」の全肯定になっているようにも見える(ようやくタイトルを回収した)。
私が「キメラアント編」について考えたことはこんなところである。
以上で終わりだが、「ハンターハンター」のファンからすると「こいつ何言ってるの?」という話だったかもしれないし、そうでない人にとっても穴だらけの話だったとも思う(私もそう思う)。
それでも「貧者の薔薇」が「少年漫画」の構造そのものに与えた打撃は大きかったのではないだろうか。あれをやられてしまったら、化学兵器で殲滅できる驚異を作品に登場させるのは難しいだろう。少なくとも我々の世界には核兵器が存在しているし、そういった兵器を利用しない言い訳をいちいちしなくてはならなくなってしまう。
なんとも強烈な一撃だったね。
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