「ドランゴンボール」は1984年から1995年まで週刊少年ジャンプに連載されていた鳥山明による漫画作品である。TVアニメシリーズも1986年からスタートしており、今なお世界的な人気を誇る作品である。
今回はそんな「ドラゴンボール」のラストで、ベジータの長台詞を締めくくった「がんばれカロット…お前がナンバーワンだ!!」という言葉について考えようと思う。最後の最後にベジータが吐露した本音は結局どういう意味だったのだろうか?まずはベジータの長台詞を振り返ってみよう。
「お前がナンバーワンだ!!」までの全文
ベジータの長台詞があるのはコミックス最終巻の第42巻其之五百十「ベジータとカカロット」。その全文は以下の通りとなっている。
…なんとくわかった気がする……
…なぜ天才であるはずのオレが おまえにかなわないのか…
守りたいものがあるからだと思っていた…
守りたいという強い心が得体のしれない力を生み出しているのだと………… たしかに それもあるかもしれないが それは今のオレも おなじことだ…
…オレは オレの思い通りにするために… 楽しみのために… 敵を殺すために… そしてプライドのために戦ってきた…
だが… あいつはちがう… 勝つために戦うんじゃない 絶対負けないために 限界を極め続け戦うんだ…! …だから 相手の生命を断つことに こだわりはしない…
…あいつは ついにこのオレを殺しは しなかった
…まるで 今のオレが ほんのすこしだけ人の心を持つようになるのがわかっていたかのように…
…アタマにくるぜ…!
戦いが大好きでやさしいサイヤ人なんてよ…!!
がんばれカカロット…
お前がナンバーワンだ!!
以上が「お前がナンバーワンだ!!」に至るまでの全文だが、さてベジータは結局どういう思いを吐露したことになるのだろうか?それを理解するために、まず「サイヤ人」という存在について思い出しておこう。
人間になったベジータと悟空の真実
サイヤ人の仕事と悟空が地球に来て失ったもの
「ドラゴンボール」における「サイヤ人」といてば「戦闘民族」という単語が思い浮かぶのだが、彼ら実際にしていたことは単なる戦闘ではない。彼らは宇宙に散らばる惑星の知的生命体を滅ぼしては、他の星の連中に売り渡していたのである。
つまりサイヤ人はただただ戦っている間抜けではなく、きちんと仕事をして収入を得ている存在ということになる。もちろん滅ぼされる側からすれば迷惑な話だが。
そしてこの「ビジネス精神」こそが、地球に来た悟空が頭を打って失ってしまったものなのではないだろうか?
一般的には「サイヤ人の凶暴性」を失ったことになっているのだけれども、そもそも悟空が地球に送り込まれた理由を考えるならば、その凶暴性は「悟空がサイヤ人の仕事を成し遂げるために必要不可欠な要素」ということになるだろう。
そして、チチの紐として生活を送る悟空の姿を見れば、彼が損得勘定をできる人間ではないことは火を見るより明らかである。
このように悟空は「ビジネス精神」や「損得勘定をする能力」を失ったと思われるのだけれども、彼の中に残ったものもあったはず。悟空の中にそれでもなお残ったものは何だったのだろうか?
ベジータが失ったもの
悟空が失わなかったものを考える前に、ベジータの長台詞に戻ってみよう。そこにヒントが隠れている。ベジータは以下のように語っている:
…なぜ天才であるはずのオレが おまえにかなわないのか… 守りたいものがあるからだと思っていた… (中略) それは今のオレも おなじことだ…
つまり、今のベジータには「守りたいもの」があるということになるのだが、もちろんそれは家族であり仲間である。ところが少々の矛盾も感じる。彼に「家族」や「仲間」ができたのは別に地球にやって来てからではない。
彼には家族がいたし、ナッパがいた。
しかしそれは彼にとって「守るべきもの」ではなく、職業人としてのサイヤ人の仕事仲間でしかなかったということになるのだろう。
しかも彼は将来、宇宙規模のビジネスを展開するサイヤ人の王として君臨しなくてはならない。誰よりも強くあらねばならないし、冷酷に人を切ることもできるようになる必要がある。
そんな彼にとってベジータ王も、慈しむ親、家族ではなく、強大な存在として君臨する自らの将来像でしかなかったのかもしれない。崇拝はしていただろうが。
しかしこういったビジネスライクな性質こそが、戦闘民族サイヤ人をサイヤ人足らしめていたのだと思われる。そしてその性質の本質こそが「闘争本能」だったに違いない。
ということは、「家族」を「家族であるから」という理由で慈しみ、「仲間」を「仲間だから」という理由で大切にするようになったベジータはもはやサイヤ人とは言えず、その本質的な闘争本能も失ってしまっていたのだと私には思えてしまう。つまり、
彼は誰よりもサイヤ人としての誇りを持ちながら、最終的には地球人になってしまったと言えるのではないだろうか。もちろんとんでもなく強いのだけれど、もう彼は戦うことが楽しいなどとは思えないし、仕事として星を滅ぼすことなどできないのである。
このようにベジータが失ってしまったものを考えると、悟空が失わなかったものが見えてくる。
悟空が失わなかったもの
ベジータと異なり、悟空は自分が地球人であるという確かな自己意識があるように見える。しかし作中で描かれた悟空は
- 息子が危険にさらされることを厭わないし
- 人類が死のうとなんとも思わない。
- そしてただただ強いやつと戦いたいと願い
- どうやら大切な仲間はクリリンだけ
というとんでもない性質を持っている。
まともな地球人とは到底思えないが、彼をサイヤ人だと思えばどうだろうか?
悟飯を過酷な修行にぶち込んだり、無理くりセルと戦わせるその姿は、戦闘民族サイヤ人そのものではないだろうか?
戦うことが何よりも好きな悟空は、自分が強くなるための修行がどれほど過酷であっても構わないし、悟飯の中にセル打倒の可能性をわずかでも見出してしまうと、それを試してみずにはいられないのである。
ただ、損得勘定を失っているので、敵に勝利するために大して利用価値のないクリリンをとてもとても大切にしているのである(もちろんクリリンはものすごく強いのだけれど)。
そして結局のところ、悟空はサイヤ人としての本質的な闘争本能を最後の最後まで失わなかったと言えるのではないだろうか。
ベジータが対魔人ブウ戦で気づいたことはこの辺のことだったに違いない。
「がんばれカカロット…お前がナンバーワンだ!!」の意味
ここまで考えてきたことを総合して、もう一度ベジータの言葉の意味を考えてみると「がんばれカカロット…お前がナンバーワンだ!!」とは
「カカロット!お前が最後のサイヤ人だ!」
ということになるのではないだろうか?
つまり、最後に最後にベジータが認めたことは悟空の強さではなく「自分は地球人であり、サイヤ人は悟空だけ」という壮絶な事実だったのだと思う。
「おれ、地球人になっちゃったよ」という本来なら涙なくしては聞いていられないような告白を、それでもなお気取った口調で披露してくれたその姿は、ベジータが見せた最後の意地だったのかもしれない。
以上で私が思う「がんばれカカロット…お前がナンバーワンだ!!」というベジータの言葉の意味である。もちろん異論はあると思うが、私とってベジータ最後の独白はこういうものなのです。
ここで「お前がナンバーワンだ!!」については終わりだが、この記事にわずかに関連する内容を「おまけ」として書き残そうと思う。
おまけ
ベジータの独白の裏で
今回はベジータの長台詞そのものに目を向けてきたが、あのシーンにはもう少し着目すべき点がある。それはベジータの吹き出しの背景として描かれる悟空とブウの戦闘である。
ベジータの苛烈な独白を尻目に、悟空とブウは極めてコミカルな戦闘を繰り広げているのだが、「ドラゴンボール」に置ける「戦闘」とは、そもそもあのようなコミカルなものだったような気もしてくるのである。
次々と現れる強敵を前に、「ドラゴンボール」の戦闘はどんどん深刻なものになっていった。「負ける」ということは「死」を意味するようになってしまったし、戦う相手は多くの命を奪うようになっていった。
しかし、まだ悟空が小さかった頃の「戦い」とはもっともコミカルで、決して人が死ぬようなものではなかったはず。天下一武道会はその最たるものだっただろう。
そしてベジータの独白の裏で、もう一度だけコミカルな戦いに戻ったところに、なにか胸が打たれてしまうのです。
元気玉はベジータ発案
魔人ブウを最終的に駆逐したのは「元気玉」だった。世界のヒーローミスター・サタンが本当にヒーローになった瞬間であったし、「最後はみんなの力で!」というなんとも少年誌らしい終わり方でもあった。
しかし、最後に元気玉を使うことを進言したのはベジータである。そしてこの事実がもっとも重要だと私には思えてくる。
ベジータは随分と長いこと悟空をライバル視してきたが、直接対決は結局2回くらいしか無い。一度目は地球に襲来した時、もう一度はブウの復活直前。
そしてそれ以外の場面では、ベジータは悟空と極めて密接に共闘している。
つまりベジータは、悟空と戦って勝利するのではなく、悟空と共通の敵を悟空より先に打倒することによって、そのプライドを保とうとしたのである。
しかし、魔人ブウ編のラスト、ベジータはようやく悟空に対する「敗北宣言」をできたことによって、ブウを自分が打倒しなくて良くなったのである。だから彼は、悟空に大して伝家の宝刀「元気玉」を進言できたのである。
この辺も「がんばれカカロット…お前がナンバーワンだ!!」に通じる部分ではないだろうか。
フリーザに支配されていたサイヤ人と超サイヤ人
最後は一番下らない話だが、サイヤ人がフリーザに支配されていたという事実に思いをはせてみようと思う。
私は昔からこの事実に不満を持っていた。
サイヤ人といえば「戦闘民族」である。そんなサイヤ人がなぜ、「支配」などという屈辱に甘んじていたのだろうか?彼らは本来、最後の一人になるまで戦うはずであり、「支配される」という状況は発生しないはずである。
もちろん、そんな奇妙な状況が発生した理由は「ビジネス感覚」であり「損得勘定」である。
圧倒的な戦闘力を持つフリーザ(達)を前に、少なくともベジータ王は「あ、おれ無理~」と思ったに違いないのである。そしてこの「無理~」という感覚こそが、悟空が失った「ビジネス感覚」であり「損得勘定」である。
もしかしたら我々が知るサイヤ人たちは、すでに「文明化」されたサイヤ人であり、彼らの本分であったはずの「闘争本能」はとうの昔になくなっていたのかもしれない。
ベジータがあれほどまでに「サイヤ人であること」にこだわったのは、そういう「意地を維持」しないと「戦闘民族としてのサイヤ人」であることができなかったからではないだろうか。
このように考えると、もしかしたらベジータは生まれたその時にすでにほぼ「地球人」であり、ギリギリのラインで戦闘民族を演じてきただけと捉えることも出来る。
したがって「超サイヤ人」とは、文明化される以前のサイヤ人が本来持っていた姿であり、文明化されたサイヤ人世界で抑圧された本質的な「闘争本能」への憧れが生んだ物語だったのかもしれない。
そういう意味では、地球に降り立ち頭を打って損得勘定をなくした悟空は、その瞬間から「超サイヤ人」だったに違いない。
以上。
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