『ALWAYS 三丁目の夕日』の時代、豊かさの裏側で何が起きていたのか―公害と社会問題の歴史

映画『ALWAYS 三丁目の夕日』には、戦後の復興が進み、少しずつ豊かになっていく昭和の東京が描かれている。建設中の東京タワー、新しく買ったテレビを囲む人々、町を走る自動車。便利なものが増え、街が変わっていく様子には、これからの生活がもっと良くなるという期待が感じられる。
しかし、そのような発展が進んでいた時代、日本の各地では公害やさまざまな社会問題も起きていた。工場の排水によって魚が死に、煙によって病気になる人々がいた。都市では住宅不足やごみの処理が深刻な問題となり、自動車の普及とともに交通事故も増えていった。
興味深いのは、こうした問題の多くが、その後の高度経済成長によってさらに深刻化し、1970年代に入ると法律や制度を大きく変えることになった点である。被害を受けた人々の抗議や裁判を通じて企業の責任が問われ、国や自治体の対策も変化していった。一方で、環境が改善されても、健康被害や補償の問題は長く残された。
『ALWAYS 三丁目の夕日』が描く時代を出発点に、当時の日本ではどのような問題が起き、それがその後の社会をどう変えていったのかを調べてみたい。
工場が生み出した豊かさと、その陰で広がった公害
戦後の復興と高度経済成長を支えたのは、製造業をはじめとする産業の発展だった。工場では多くの人が働き、さまざまな製品が生み出され、人々の暮らしは便利になっていった。しかし、工場の煙や排水が周囲の生活環境を悪化させる問題も広がっていた。公害への規制が十分に整っていなかった時代、被害を受けた人々はどのように声を上げ、社会はどう対応していったのだろうか。
1958年の江戸川事件から、隅田川の回復まで
1958年4月、東京と千葉の間を流れる旧江戸川で、川の水が黒く濁り、魚介類が大量に死ぬという事件が起きた。原因となったのは、本州製紙江戸川工場から流された排水だった。下流の浦安で漁業を営んでいた人々は会社側に抗議し、関係機関にも取り締まりを求めたが、被害は広がり続けた。
浦安市が公開している「本州製紙工場事件」の記録によると、同年6月10日、約800人の漁民代表が国会と東京都庁に陳情した後、工場へ向かった。会社側が面会に応じなかったことなどから漁民たちは工場内に入り、機動隊との衝突に発展した。漁民側には105人の重軽傷者が出て、8人が逮捕されている。
川の汚染によって仕事を続けることが難しくなった漁民たちが、工場の操業をめぐって抗議し、大きな衝突にまで発展したのである。この事件は政府の公害対策を動かす契機の一つとなり、同年12月には「公共用水域の水質の保全に関する法律」と「工場排水等の規制に関する法律」が制定された。いわゆる「水質二法」である。
ただし、法律ができたことで全国の川がすぐにきれいになったわけではない。1969年の環境白書によれば、水質二法は1959年に施行されたが、規制対象となる水域を指定する仕組みだったため、実際に規制が進むまでには時間がかかった。江戸川が最初の指定水域となったのも1962年のことである。
その間、東京では工場排水に加えて家庭から流れ込む汚水も川の汚染を進めていた。都市の人口が増え、生活が便利になっていく一方で、下水道の整備は十分に追いついていなかった。東京都の都市づくり通史によると、1958年の東京の下水道面積普及率は19.8%にとどまっていたという。
こうした状況がよく分かるのが隅田川である。水質の悪化は深刻で、1961年には花火大会が中止された。東京都下水道局が公開する下水道の歴史によれば、当時の23区の下水道普及率は22%だった。その後、下水道整備が進み、1978年には70%となり、隅田川の水質も改善して花火大会が再開された。

出典:東京都下水道局「下水道の歴史」。出典の数値・記述を基に作成。
また、水質汚濁に対する法律も見直され、1970年には「水質汚濁防止法」が制定された。従来の水質二法と異なり、全国的な排水規制を基本とする仕組みが導入され、違反への対処も強化された。水質汚染は、特定の地域だけの問題から、全国的な規制によって防ぐべき問題として扱われるようになっていったのである。
江戸川で漁民たちが抗議した1958年から、隅田川の花火大会が再開される1978年までには、20年の時間が流れている。都市の発展によって悪化した川の環境を取り戻すには、工場排水の規制だけでなく、下水道という生活基盤の整備も必要だった。
参考資料:環境庁『昭和50年版環境白書』水質汚濁の経緯 / 環境省「きよらかな水の保全を目指して」
工場の煙は、なぜ人々の健康を脅かすようになったのか
河川の汚染と並んで深刻だったのが、大気汚染である。工場や火力発電所、ビルの暖房などで燃料を燃やすと、ばい煙や硫黄酸化物などが排出される。工業地帯や大都市では、こうした汚染物質が人々の生活に影響を与えるようになっていた。
東京でも大気汚染は早くから問題となっていた。1975年の環境白書によると、1960年に行われた政府の世論調査では、東京都区部の住民の56%が、騒音・ばい煙・振動・大気汚染などによって日頃から迷惑を受けていると回答している。これは大気汚染だけを尋ねた数字ではないが、都市生活の環境に多くの人々が不満を感じていたことが分かる。
そして、工業地帯の大気汚染が深刻な健康被害を引き起こした例として知られるのが、三重県四日市市で発生した「四日市ぜんそく」である。四日市では石油化学コンビナートの操業が進む中、1960年ごろからぜん息などの症状を訴える住民が増えていた。環境再生保全機構による四日市公害の記録では、大気汚染が特に深刻だった1964年、磯津地区の二酸化硫黄濃度が年平均0.075ppmに達し、住民の呼吸器障害の発症率は汚染の少ない地域の2~3倍、あるいはそれ以上だったと説明されている。
被害を受けた住民たちは、1967年にコンビナートの企業6社を相手取って裁判を起こした。1972年の判決では企業側の責任が認められ、被害者側が勝訴している。企業が生産活動を行う際には、周囲の住民の生命や健康に被害を与えないよう十分な対策を取る責任があるという考え方が、裁判を通じて明確に示されたのである。
その後、大気汚染に対する規制が強化され、燃料の低硫黄化や排煙脱硫装置の導入などが進められた。環境再生保全機構の資料によると、1965年度以降の継続測定局における二酸化硫黄濃度の年平均値は、1967年度の0.059ppmをピークとして低下し、1975年ごろには0.02ppm程度まで下がっている。

出典:環境再生保全機構「SO2に係る環境基準の設定と達成に向けた様々な対応策」。出典の数値・記述を基に作成。
しかし、工場から排出される硫黄酸化物への対策が進むと、今度は自動車の排気ガスに含まれる窒素酸化物や浮遊粒子状物質などが大都市の大気汚染で重要な問題になっていった。工場の排出物を減らすことによって改善した問題もあれば、自動車社会の拡大によって新たに深刻になった問題もあったのである。
工場の煙は、産業が活発に動いていることを示すものだったかもしれない。しかし、同じ煙が周囲で暮らす人々の健康を脅かしていた。公害対策が進んだ歴史をたどると、産業の発展だけでなく、そこで暮らす人々の健康をどう守るかという考え方も変化していったことが分かる。
水俣病は、なぜ長い間解決しなかったのか
高度経済成長期の公害問題の中でも、特に深刻な健康被害を引き起こしたのが水俣病である。1956年5月、熊本県水俣市で原因不明の神経疾患の患者が公式に報告された。その後の調査によって、1953年にはすでに発症していた人がいたことも分かっている。
水俣病の原因は、化学工場から排出されたメチル水銀が海の魚介類に蓄積し、それを食べた人々が中毒を起こしたことだった。患者には手足の感覚障害や運動障害などが現れ、重い症状に苦しむ人々や、命を失う人々もいた。国立水俣病総合研究センターの解説によれば、公式確認された1956年の患者の中には幼い子どもも含まれていた。
この事件で考えなければならないのは、被害が確認されてからも長く続いたことである。1956年には熊本大学の研究班が、重金属に汚染された魚介類を食べたことによる中毒の可能性を報告していた。しかし、汚染された魚介類の漁獲禁止などの措置は取られなかった。国立水俣病総合研究センターの「水俣病の原因究明」によると、原因企業であるチッソは1959年には工場排水が原因であることを把握していながら、排水を続けていたという。
水俣病は熊本だけの問題でもなかった。1965年には新潟県の阿賀野川流域でも、工場排水に含まれたメチル水銀による水俣病が公式に確認されている。そして1968年、政府は熊本と新潟の水俣病について、それぞれ工場の製造工程で生じたメチル水銀化合物が原因であるとする統一見解を発表した。
その後、被害者たちは企業の責任を追及する裁判を起こし、1971年には新潟、1973年には熊本で被害者側が勝訴した。ところが、原因が明らかになり、裁判で企業の責任が認められても、被害者の救済をめぐる問題は終わらなかった。誰を水俣病の患者として認定するのか、どのような補償を行うのかをめぐる争いが、その後も長く続くことになる。
1995年には政治的な解決策が示され、2004年には最高裁判所が国と熊本県の賠償責任を認めた。2009年には新たな被害者救済のための特別措置法が成立したが、現在も続いている裁判がある。国立水俣病総合研究センターがまとめる対策の経緯からは、問題が長期にわたっていることが分かる。
水俣病の歴史は、工業化によって生じた健康被害が、工場の排水を止めるだけでは解決しないことを示している。原因の究明、被害の拡大防止、企業や行政の責任、そして被害者の生活をどう支えるのか。それぞれの問題に対応するまでには、長い時間が必要だったのである。
便利になった都市の暮らしは、何を犠牲にしていたのか
高度経済成長によって変わったのは工場だけではない。人々の所得が増え、商品が大量に生産され、都市には新しい住宅や道路が建設されていった。しかし、便利な暮らしが広がる一方で、ごみの処理や住宅不足、自動車による交通事故なども深刻になっていく。工場の公害とは異なる問題も含めて、都市と人々の暮らしがどのように変わったのかを見てみたい。
ごみの山となった夢の島と、東京ごみ戦争
東京では人口の増加と消費生活の拡大によって、ごみの量が増え続けていた。家庭や事業所から出るごみをどこで処理するのかは、大都市にとって重要な問題となっていく。
1957年、東京都は東京湾の14号地、現在の夢の島にあたる場所で、ごみの埋め立て処分を始めた。夢の島公園の公式サイトに掲載された歴史によると、当時は生ごみなども十分に焼却せず、そのまま埋め立てられていた。東京で出るごみの多くが江東区へ運び込まれ、収集車の通行による渋滞や悪臭、ハエやネズミの発生が周辺住民の生活を脅かすようになった。
1965年には、夢の島で大量発生したハエが江東区の住宅街に押し寄せる事件が起きた。小学校では授業に支障が出るほどの被害があり、東京都は殺虫剤の散布などを行ったが十分な効果が得られず、最終的にはごみの山を焼き払う対策まで実施している。
しかし、この問題は単なる衛生上の問題ではなかった。東京で出たごみの多くを、特定の地域が引き受けていたことにも原因があったのである。ごみを出す地域の人々は便利な都市生活を送る一方、そのごみを受け入れる地域の住民が悪臭や交通被害を負担していた。
こうした不均衡は、1971年に「東京ごみ戦争」と呼ばれる問題へ発展する。江東区が他区のごみを受け入れ続けることに反発する一方、杉並区では清掃工場の建設に反対する住民運動が起きていた。杉並区が公開している「東京ごみ戦争」の記録によると、1972年には江東区が杉並区からのごみ搬入を阻止し、翌年にも同様の行動が行われている。
この対立を通じて、ごみ処理施設をどこに設置するのか、住民の安全をどう確保するのかという問題が、都市全体で考えるべき課題となった。1974年には江東清掃工場が完成し、杉並でも住民との交渉や和解を経て、1982年に清掃工場が完成している。
そして、ごみの埋め立て処分場だった夢の島は、その後整備され、1978年には夢の島公園として開園した。かつて悪臭やハエの被害で知られた場所が、緑のある公園へと変わっていったのである。
夢の島の歴史をたどると、豊かな消費生活を支えるためには、商品を作って使うことだけでなく、使い終わったものをどう処理するかまで考えなければならないことが分かる。都市の便利さは、どこかでその負担を引き受ける人々の存在によって成り立っていた。
住宅が足りなかった時代から、住宅の質を問う時代へ
戦後の日本では住宅不足も深刻な問題だった。戦争によって多くの家屋が焼失し、終戦後には復員者や引揚者が戻ってきた。その後も都市への人口集中が続き、働く場所があっても十分な住居を確保できない人々がいた。
国土交通省がまとめた住宅政策の変遷に関する資料によれば、1958年の全国の住宅総数は約1,793万戸、総世帯数は約1,865万世帯で、住宅の数が世帯の数を下回っていた。
こうした住宅難に対応するため、公営住宅の供給や日本住宅公団による団地建設などが進められた。1955年に設立された日本住宅公団は、大都市地域での住宅建設や大規模な宅地開発を担い、戦後の住宅供給に大きな役割を果たしていった。
住宅の数はその後も増え続け、1968年には全国の住宅総数が世帯総数を上回った。1973年には、すべての都道府県で住宅総数が世帯総数を上回るようになっている。

出典:国土交通省「既存住宅流通市場の活性化」政策レビュー資料「住宅政策の変遷」(資料内4頁)。出典の数値・記述を基に作成。
ただし、住宅の総数が世帯数を上回ったからといって、すべての人が十分な広さや設備を持つ家で暮らせるようになったわけではない。住宅が不足している地域もあれば、住宅の老朽化や狭さ、設備の不十分さに悩む家庭もあった。
住宅政策の重点も、住宅の数を増やすことから、居住環境や住宅の質を高めることへと移っていった。総務省統計局の住宅・土地統計調査の解説でも、1970年代以降、住宅の量だけでなく居住水準の向上が重要な政策課題になっていったことが示されている。
昭和の街に並ぶ小さな家々は、家族が近くで暮らしていた時代を感じさせる一方、住宅そのものが不足し、十分な生活空間を持つことが難しかった時代の姿でもある。住宅が増えていく歴史を知ると、戦後の暮らしの変化は家電製品の普及だけでなく、住む場所や住環境の改善という面からも考えられるようになる。
自動車社会の到来と、急増した交通事故
高度経済成長期には自動車も急速に普及していった。自動車は人や物を遠くへ運ぶことを容易にし、都市の交通や物流を大きく変えた。しかし、自動車が増えるにつれ、交通事故も深刻な社会問題になっていく。
内閣府の交通安全白書によると、全国の交通事故死者数は1970年に1万6,765人となり、当時の統計で最悪の記録に達した。自動車が便利な生活や経済活動を支えるようになった一方、道路で命を落とす人々も増えていたのである。
交通事故の増加を受け、1970年には交通安全対策基本法が制定された。翌1971年度からは交通安全基本計画が策定され、道路や信号機などの交通安全施設の整備、車両の安全対策、交通安全教育などが進められていった。
その後、交通事故死者数は減少し、1980年には8,760人となった。ただし、1980年代には再び増加する時期もあり、交通事故対策はその後も続く課題となった。

出典:内閣府「令和元年交通安全白書」第1-1図(警察庁資料)。出典の数値・記述を基に作成。
道路交通の安全を確保するためには、自動車を生産して普及させるだけでなく、その利用によって生じる危険を抑える仕組みも必要だった。自動車の普及と交通事故の増加、そして安全対策の強化という経過は、便利な技術が社会に広がる過程で、新しい問題への対応が求められることを示している。
森永ヒ素ミルク中毒事件――食品の安全は誰が守るべきだったのか
1950年代には、工場の排水や煙とは異なる形で、製品の安全性に関わる深刻な事件も起きていた。1955年に発生した森永ヒ素ミルク中毒事件である。
事件の原因は、森永乳業の徳島工場で製造された粉ミルクに、有毒なヒ素が混入したことだった。製造工程で乳質を安定させるために使用された原料にヒ素が含まれており、その粉ミルクを飲んだ乳幼児たちが中毒を起こした。
消費者庁の「森永ヒ素ミルク中毒事件」に関する資料によると、被害者は全国で1万2,000人を超え、死亡者も100人以上に上った。被害者の中には、その後も健康障害に苦しむ人々がいた。
この事件も、発生直後にすべての問題が解決したわけではなかった。被害を受けた子どもたちの後遺症や、将来にわたる健康への影響をどう調べ、どのように救済していくのかという問題が残されていた。
1969年には、事件から14年後の被害児の状況を調べた「14年目の訪問」が公表され、後遺症の問題が再び注目を集めた。その後、被害者の親たちによる運動が広がり、国や企業との交渉が進められていった。
公益財団法人ひかり協会の資料によれば、1973年には厚生省、被害者団体、森永乳業の三者による合意が成立し、翌1974年には被害者の恒久的な救済を目的とする「ひかり協会」が設立された。同協会は、その後も健康管理や医療、生活支援などの救済事業を続けている。
粉ミルクは、乳幼児の命や健康を支えるための食品である。その安全性を十分に確保できなかったことによって、多くの子どもたちが被害を受けた。そして、被害を受けた後の生活をどう支えるのかという問題は、事件から長い年月が過ぎても続いたのである。
この事件は河川や大気の汚染とは異なるが、製品の大量生産が進む社会で、安全をどう確保し、問題が起きた際に企業や行政がどのような責任を負うべきなのかを考えるうえで重要な出来事だった。
公害の被害者たちは、日本社会をどう変えていったのか
ここまで見てきた公害や社会問題は、被害が発生しただけで終わったわけではない。漁民や住民たちが抗議し、患者や家族が裁判を起こし、救済を求める運動を続けたことによって、企業の責任や行政の役割が改めて問われるようになった。こうした動きは1970年代に大きな制度改革へとつながっていく。
被害者の訴えと、四大公害裁判
公害によって健康を損なった人々が、企業の責任を裁判で追及するようになったことは、日本の公害対策を変える重要な出来事だった。特に1970年代前半には、後に「四大公害裁判」と呼ばれる裁判で、相次いで被害者側の勝訴判決が出されている。
環境再生保全機構がまとめた四大公害裁判の解説によると、1971年にはイタイイタイ病と新潟水俣病、1972年には四日市公害、1973年には熊本水俣病の裁判で被害者側が勝訴した。
富山県のイタイイタイ病では、鉱山から排出されたカドミウムによる健康被害が問題となった。新潟と熊本の水俣病では、工場排水に含まれるメチル水銀による中毒が争われ、四日市では複数の工場が排出したばい煙による健康被害が問題となった。
これらの裁判では、汚染と健康被害の因果関係や企業の責任が争われ、裁判所は被害者側の訴えを認めた。特に四日市の裁判では、複数の工場が隣接して操業する場合、それぞれの企業がどれだけ汚染に寄与したかを個別に確定できなくても、共同して賠償責任を負うという判断が示された。

出典:環境再生保全機構「問3 公害の四大裁判とは」。出典の数値・記述を基に作成。
裁判を通じて、公害は単に迷惑な煙や汚れた水の問題ではなく、人々の生命や健康を脅かし、企業に法的な責任が生じる問題として扱われるようになった。また、被害者が自ら声を上げ、裁判や住民運動を通じて企業や行政の対応を変えようとしたことも、重要な意味を持っていた。
1970年の公害国会は、何を変えたのか
公害の深刻化と住民運動の広がりを受けて、政府も対策を強化していった。1967年には、公害対策を総合的に進めるための「公害対策基本法」が制定された。しかし、当初の法律には、生活環境の保全について経済の健全な発展との調和を図るという規定があった。
この規定は、当時の日本が経済発展と環境保全をどのような関係として考えていたのかを示すものだった。しかし、公害による健康被害が各地で深刻化すると、生活環境の保全を経済発展との調和の中で位置づける考え方は見直されていく。
1970年末に開かれた臨時国会は、後に「公害国会」と呼ばれることになる。1975年の環境白書によれば、この国会では公害対策基本法の改正を含む14本の公害関係法の整備・改正が行われた。そして、公害対策基本法からは、いわゆる「経済発展との調和条項」が削除された。
この改正によって、生活環境の保全が国民の健康の保護と並んで、公害防止の重要な目的として明確に位置づけられた。水質汚濁防止法の制定や廃棄物に関する法制度の整備なども進み、公害対策の仕組みは大きく変化していった。
さらに1971年7月には環境庁が発足した。国立公文書館が公開する環境庁設置法の記録によると、それまで複数の省庁に分かれていた公害防止や自然環境の保護に関する行政を、総合的に推進することが目的とされていた。
そして1973年には「公害健康被害補償法」が制定され、1974年9月から施行された。公害による健康被害について、被害者が個別に企業を相手取って裁判を起こさなくても、一定の条件のもとで医療費などの補償を受けられる制度が整えられたのである。
環境再生保全機構がまとめた補償制度の歴史によれば、この制度は公害の被害者を迅速かつ公正に保護することを目的としており、原因者である企業などに費用を負担させる仕組みが導入された。
1958年の江戸川事件から1970年代の制度改革までをたどると、工業化に伴う公害への対応が、特定の地域で発生した紛争への対処から、全国的な規制と被害者救済の制度へと変化していったことが分かる。
環境が改善しても、被害者の問題は終わらなかった
公害対策の強化によって、工場から排出される汚染物質は減少し、河川や大気の環境も改善していった。隅田川では花火大会が再開され、二酸化硫黄による大気汚染も大きく改善した。こうした変化は、規制の強化や企業の設備改善、下水道の整備などが実際に効果を上げたことを示している。
しかし、汚染された川がきれいになったり、工場の煙が減ったりしても、それまでに健康を損なった人々が元の生活に戻れるとは限らない。水俣病では原因が明らかになった後も患者の認定や補償をめぐる問題が続き、森永ヒ素ミルク中毒事件でも、被害を受けた人々への長期的な支援が必要だった。
また、大気汚染でも、工場からの硫黄酸化物に対する規制が進む一方、自動車の排気ガスなどによる新たな問題が生じた。ある種類の汚染が改善したとしても、都市や産業の発展に伴って別の問題が現れることがあったのである。
公害対策の歴史は、法律ができて終わるものではない。被害の発生を防ぐこと、汚染された環境を回復させること、すでに被害を受けた人々の生活を支えることには、それぞれ異なる対応が必要だった。そして、そのための制度も、被害者や住民の行動を通じて少しずつ整えられていった。
『ALWAYS 三丁目の夕日』の時代を、もう一つの角度から考える
『ALWAYS 三丁目の夕日』が描く昭和の東京は、復興から経済成長へと向かう日本の一つの姿である。人々の所得が増え、家電製品や自動車が普及し、住宅や道路が整備されていく中で、暮らしは大きく変わっていった。
しかし、その変化の裏側には、公害によって健康を損なった人々や、住宅不足に悩む人々、交通事故の危険にさらされる人々がいた。ごみの処理を引き受ける地域の住民や、安全性が十分に確保されていない製品によって被害を受けた人々もいた。
こうした問題は、すべて同じ原因から生まれたわけではない。住宅不足には戦争による家屋の焼失が関わっており、森永ヒ素ミルク中毒事件には製造工程での安全管理の問題があった。一方、工場の排水や煙による公害、ごみ問題、交通事故の増加などは、産業の発展や都市生活の変化と深く結びついていた。
そして、こうした問題を経験した日本社会は、その後大きく変わっていった。公害を規制する法律が整えられ、環境庁が発足し、企業の責任や被害者の救済をめぐる制度も整備された。住宅は数を増やすだけでなく、より良い住環境を確保することが目標になり、交通事故を減らすための安全対策も進められた。
ただし、その変化は政府や企業だけによって実現したものではなかった。漁民や住民が抗議し、病気になった人々やその家族が裁判を起こし、救済を求める運動を続けたことが、社会を動かす大きな力になったのである。
映画の中で東京タワーが建設され、人々が新しい生活に期待を寄せていた時代は、その後の日本の豊かさを生み出していく時代であると同時に、公害や社会問題を通じて、何を優先し、誰の生活を守るべきなのかという問いを突きつけられた時代でもあった。
『ALWAYS 三丁目の夕日』の世界から少し視野を広げ、その後の日本がたどった歴史まで知ると、昭和の復興と高度経済成長は、便利で豊かな暮らしを実現していく歴史であるとともに、その豊かさの中で生じた問題に向き合い、社会の仕組みを変えていく歴史でもあったことが見えてくる。
また、復興と経済成長が進んだ時代には、地方から都市へ働きに出る若者も数多くいた。映画の六子が青森から東京へやってきた背景や、集団就職という仕組みについては、こちらの記事で調べている。

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