【8番出口 考察】「赤ちゃんができた」と言われた男の頭の中を映画にしたら
「わたし、できちゃったみたい」。もし、この一言を言われた男の頭の中をそのまま映画にすると、おそらく「8番出口」になる。少し乱暴な言い方なのだけれども、私はこの映画を見ていてずっとそんなことを考えていた。
父親になるかもしれないと突然知らされた男は、そこでありとあらゆる可能性を考える。ああすればいいのではないか、こうすればいいのではないか。できることなら、まだ一つの答えにはたどり着きたくない。その終わりのない思考を、少しずつ何かが違う地下通路として映像にすれば、「8番出口」というゲームをそのまま一人の男の物語にすることができる。
ただ、映画を最後まで見てみると、この主人公は単純に「父親になる責任から逃げたい男」ではないように思う。というより、彼には最初の時点で「逃げたい」と考える主体すら、ほとんど存在していない。逃げること、関わらないこと、判断しないことが、あまりにも普通になっているのである。
「8番出口」で描かれているのは、父親になることから逃げ回った男が、最後に諦めて責任を取る話ではない。世界を自分とは関係のないものとして通り過ぎてきた男が、父親になると決めることで、初めて自分の人生と世界に関わり始める物語なのではないだろうか。
- 主人公の「空っぽさ」: 人物造形が薄いのではなく、自分で判断せず、周囲からの影響によって動く人間として描かれている。
- 妊娠が特別な理由: 「赤ちゃんができた」という出来事だけは、それまでのように「自分には関係ない」と処理することができない。
- 地下通路の意味: 主人公の頭の中であると同時に、それまでの「判断しない人生」をゲームのルールによって強制的に反転させた世界でもある。
- 父になるという決断: 主体性を持った男が父親になるのではなく、父親になると決めたことで、初めて自分で判断して動く人間になる。
- 「8番出口」とは何か: 地下通路からの出口である以上に、主人公がそれまで過ごしてきた日々からの出口だった。
『8番出口』は「赤ちゃんができた」と言われた男の頭の中ではないか
映画版「8番出口」には、ゲームにはなかった一人の男の物語が加えられている。その中心にあるのが、恋人から妊娠を告げられた主人公である。ただ、この人物を「子どもができて困っている男」とだけ考えると、映画の最初と最後に置かれた地下鉄の場面が少し余ってしまう。
主人公は「逃げたい」のではなく、逃げることが普通になっている
映画の最初、地下鉄では泣いている赤ん坊とその母親にサラリーマンが怒鳴りつけている。主人公もその場にいるのだが、特に何かをするわけではない。ここだけを見れば、「トラブルへ関わりたくないので無視した」と説明することもできる。
ただ、私は少し違うと思う。このときの主人公は、「助けるべきか、それとも関わらないべきか」と迷ったうえで後者を選んだようには見えない。そもそも、自分が何かをするという選択肢がほとんど立ち上がっていない。目の前で何かが起きている。しかし、それは自分とは関係のない出来事である。そのまま通り過ぎることが、彼にとっては特別な逃避ですらなくなっている。
おそらく彼は、これまでも同じように生きてきたのだと思う。世界で何かが起きても、自分に直接関係がなければ関わらない。自分で何かを決めるより、目の前に現れた状況へ反応する。その生き方があまりにも恒常化しているため、本人には「逃げている」という自覚すらないのである。
きちんと作られた結果、「空っぽ」に見える主人公
その意味では、この主人公が妙に空っぽに見えることも面白い。彼が何を好きなのか、何を大切にしているのか、どういう人生を送りたいのか。そうしたことは、映画の中でほとんど見えてこない。
しかし、これは単純に人物造形が薄いという話でもないと思う。自分で判断せず、周囲から与えられたものによって動く人間をきちんと作った結果として、彼は空っぽに見えている。
ここは「8番出口」というゲームとも妙に相性がいい。ゲームの中の人物は、自分の意思で勝手にどこかへ行ったりはしない。プレイヤーから入力された方向へ進み、ゲームから与えられたルールの中で行動する。映画の主人公も、それに近いのである。
何かが起きたので反応する。誰かに言われたので動く。状況が変わったので、それに合わせる。少なくとも映画の最初では、自分から世界へ何かを働きかける人間ではない。この主人公の「空っぽさ」は、映画の欠落ではなく、むしろゲームのプレイヤーキャラクターのような人間を現実世界に成立させるための人物造形に見える。
「赤ちゃんができた」だけは、自分には関係ないと言えない
そんな男のところへ、突然「赤ちゃんができた」という話がやってくる。これが厄介である。電車の中で知らない親子が怒鳴られているのであれば、見なかったことにすることができる。街で何かが起きていても、自分とは関係がないと思えば通り過ぎることができる。
しかし、自分の子どもはそうはいかない。自分が無視したところで、その出来事と自分との関係が消えてくれるわけではない。ここで初めて、彼がそれまで当たり前のように使ってきた「自分には関係ない」という方法が通用しなくなる。
映画は、彼がなぜ父親になることをためらっているのかを細かく説明してはいない。自由を失いたくないのか、父親になる自信がないのか、それとも別の理由があるのかは分からない。映画が描いていない以上、こちらで理由を作る必要もないと思う。
重要なのは、これまで判断せずに生きてこられた男が、初めて自分で答えを出さなければならない出来事にぶつかったということである。身も蓋もない言い方をすれば、「赤ちゃんできたって」という、男にとって最大級のホラーがやって来た。そして、そこから「8番出口」が始まる。
地下通路は、彼の「判断しない人生」を反転させた世界
あの地下通路を単純に「主人公の脳内世界」と考えるだけでは、少し足りないように思う。確かに、父親になるという決断を前にして同じところをぐるぐると回り続ける彼の頭の中ではある。しかし同時に、あの空間では、それまでの彼の生き方そのものがゲームのルールによってひっくり返されている。
彼の頭の中であり、それまでの人生でもある
父親になるのか。これからどうするのか。自分の人生はどう変わるのか。答えを出したくないまま、頭の中では同じような可能性を何度も検討している。少しずつ違う通路を何度も行き来し、進んだと思ったらまた元へ戻ってしまう。その意味では、地下通路は確かに彼の頭の中である。
その一方で、あの地下通路は、彼がそれまで送ってきた「判断しない人生」を、ゲームのルールによって無理やり反転させた世界でもある。
この二つを分けて考える必要はないと思う。彼の内面で起きていることと、彼がそれまで生きてきた人生の形を、一つの地下通路として同時に描くことができる。頭の中であり、人生でもある。それを一つのものとして見せられるところに、フィクションの面白さがある。
地下通路では「判断」を強制される
それまでの主人公は、目の前で何かが起きても、それを自分の問題として判断する必要がなかった。ところが「8番出口」では、それが許されない。異変があるのか、ないのか。進むのか、引き返すのか。自分で見て、自分で判断しなければ、いつまでたっても外へ出ることができない。
- それまでの日常: 世界で何かが起きても、自分とは関係のないものとして通り過ぎることができる。
- 地下通路: 目の前で何が起きているかを確認し、進むか戻るかを必ず判断しなければならない。
地下通路では、それまで彼が避けてきたことを延々とやらされる。ただし、この時点で彼が主体性を手に入れたわけではない。彼は確かに判断しているが、自分から判断したいと思っているわけではない。判断しなければゲームから出られないため、判断させられている。
異変があれば戻れ。なければ進め。外から与えられたルールに従って動いているという意味では、まだ映画の最初とそれほど変わっていない。地下通路は、彼が主体を獲得する場所というより、それまでまともに向き合ってこなかった「判断する」という行為を、初めて強制される場所なのだと思う。
海岸で初めて「父になる未来」が見える
そんなループの途中で、主人公は家族で海岸を歩く未来を見る。この場面では、それまで自分へ向かって押し寄せてくる問題だった「父親になること」が、少し違ったものに見え始める。
家族で海岸を歩き、自分の隣に誰かがいて、その中に自分もいる。父親になる未来が、初めて恐ろしい変化だけではなく、もしかすると悪くない未来として見えるのである。
同時に、それは彼がこれまで持っていなかった、「自分と誰かが関係しながら生きていく世界」のイメージでもある。世界と関係を持つことは、面倒なことに巻き込まれることだけではない。誰かと関係を持つことでしか手に入らない幸福もある。彼はここで、その可能性を初めて見る。
父親になると決めたことで、空っぽだった男に主体が生まれる
この映画で最も面白いのは、主人公が成長したあとで父親になるのではないところだと思う。一般的には、自分で考え、自分で判断する人間が、その延長として「父親になる」という大きな決断をする。しかし、この主人公の場合は順番が反対になっている。
父親になると決めたとき、初めて自分で人生を選ぶ
普通なら、一人の人間が自分で考え、自分で判断したうえで、「父親になる」と決める。父親になることは人生の大きな出来事なので、それによって価値観が変わったり、それまでとはまったく違う人間になったりすることもある。
しかし「8番出口」の主人公は、その出発点が少し違う。そもそも彼は、自分で判断して人生を動かしてきた人間ではない。周囲から何かを与えられ、それに反応する。そうやって生きてきた男なのである。
- 普通なら: 自分で考える → 判断する → 父親になると決める
- この主人公は: 父親になると決める → 自分の人生を引き受ける → 自分から世界へ関わり始める
主体性を持った男が父親になるのではない。父親になると決めることによって、空っぽだった男に初めて主体が生まれる。
「父になる」という出来事を、この男の人生に入れ込んだ意味はここにあると思う。単純に責任感が芽生えたという話ではない。自分の人生について何も決めずにきた男が、父親になると腹をくくることで、初めて自分の人生を自分のものとして引き受けるのである。
「この世界は自分に関係がある」と気づく
父親になると決めたことは、彼にとって一つの家族を持つと決めたことだけではない。それまで自分とは無関係だと思っていた世界との関係を、自分から引き受けることでもある。
この男は、父親になる決断とは別に主体性を身につけ、その結果として世界へ関わるようになったのではない。父親になると決めたこと、自分の人生を引き受けたこと、そして「この世界は自分に関係がある」と気づいたことは、ほとんど一つの変化として描かれている。
ここで父になることは、単なるストーリー上の大きなイベントではなくなる。空っぽだった男が、そうではない人間になる瞬間に「父になる」という出来事が置かれている。私はそこが、この映画の一番うまいところだと思う。
8番出口は、それまでの日々からの出口だった
映画の最後で、主人公はもう一度、最初とよく似た地下鉄の中へ戻ってくる。そこでは再び、子どもと母親がサラリーマンに怒鳴られている。最初の彼なら、そのまま何もしなかった。自分とは関係のない出来事なのだから、通り過ぎればいい。
しかし、今度は違う。彼はサラリーマンに何かを言うために動く。この変化を「正義感のある人間になった」とだけ考えると、少し狭い気がする。彼の中で変わったのは、もっと根本的な世界との関わり方である。
この世界は、自分に関係がある。
父親になると決めることと、目の前にいる親子へ自分から関わろうとすることは、彼の中では同じ変化なのである。もう「自分には関係ない」と言い続ける人間ではない。自分がここにいて、目の前で何かが起きているのであれば、その世界の中には自分も含まれている。
そう考えると、「8番出口」というタイトルも少し違って見えてくる。もちろん、物語の中では地下通路から外へ出るための出口である。しかし主人公にとって本当に抜け出したものは、地下通路だけではない。
毎日、周囲から与えられたものに反応し、世界を自分とは関係のないものとして通り過ぎていた。8番出口とは、彼がそれまで過ごしてきた日々からの出口だった。
映画版『8番出口』が見つけたもの
原作ゲームに物語を入れたことで、「8番出口」が持っていた無機質な不気味さは薄れたと思う。映画になったことで失われたものは、確かにある。
それでも私がこの映画を面白いと思うのは、ゲームのルールを無理に物語へ変えたのではなく、もともと「8番出口」とよく似た形をしている人間の時間を見つけたからである。
人生を変える答えを求められたとき、人はすぐには決められない。何度も考え、別の可能性を試し、元へ戻り、それでも最後にはどこかで自分の答えを選ぶ。その時間を地下通路のループとして見せる。そして、その答えを「父親になること」にしたことで、出口を見つけることが、そのまま一人の男が自分の人生を引き受けることにもなった。
考えてみれば、ゲームを映画にするときに必要なのは、ゲームの中へ無理やりドラマを詰め込むことではないのかもしれない。そのゲームがすでに持っている感覚や構造と、同じ形をした人間の経験を見つければいい。
「赤ちゃんができた」と言われた男の頭の中に「8番出口」を見つけた。
私にとって映画版「8番出口」の一番面白いところは、結局そこなのである。
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