『ゴジラ-1.0』の機雷除去は実在した? 敷島の仕事と1946年の復員兵たち

映画『ゴジラ-1.0』で、元特攻隊員の敷島浩一が機雷除去の仕事に就く。時は1946年3月。戦争はとっくに終わっているのに、海に残る機雷を片づける仕事があり、しかも危険なぶん報酬はよいらしい。敷島は前金として3,000円を受け取ったと話す。
この場面を見ると「なるほど、そんな仕事があったのだな~」と思うとともに「その実態はどんなものだったのだろうか」と疑問をもったのではないだろうか(少なくとも私はもった)。
当時の記録を調べてみると、機雷除去の仕事は実際に存在し、1946年3月には政府の管理下で大勢の旧海軍関係者が働いていた。さらに、危険な作業に対する手当の額を定めた規則や、特別な任務に従事する船員に約束された慰労金まで確認することができた。
さらにそこからもう一歩すすんで、そもそも敷島のような復員兵たちはどのような仕事で暮らしていたのかということを調べてみた。この記事では1946年3月を起点として、掃海の実態と報酬、そして敗戦直後の人々の働き方を、当時の公報や政府の記録からたどっていこうと思う。
『ゴジラ-1.0』の機雷除去の仕事は本当にあったのか
映画で描かれた機雷除去は、実際に日本の海で行われ、終戦直後の社会を支える重要な仕事だった。
終戦後も日本近海には大量の機雷が残っていた
機雷は、海の中に設置して船を損傷・沈没させる兵器である。太平洋戦争では日本海軍も、米軍も、日本周辺に大量の機雷を敷設した。
防衛庁海上幕僚監部防衛部が1961年に編纂した『航路啓開史』(2012年改訂版PDF)によれば、1945年8月の終戦時、日本近海には日本海軍が敷設した係維機雷55,347個と、米軍が敷設した感応機雷6,546個が残っていた。後者は米軍の総敷設数ではなく、終戦時点で掃海・爆発などによって失われずに残っていた数である。
係維機雷は、海底の重りなどにつながれて海中に浮かぶ機雷である。係維式にも、船体との接触で作動するものと、磁気などに感応して作動するものがある。「係維」は設置方式、「磁気」は作動方式を表すため、両者は組み合わせることができる。船から見えないところに危険が残っている以上、終戦したからといって船が安全に行き来できるようにはならなかった。防衛研究所の戦史研究も、これらの機雷が戦後の掃海に大きな犠牲と労力を課したことを指摘している。

航路を安全にすることが、戦後復興に必要だった
機雷の残る海では、食料や石炭などの物資を積んだ船も安心して航行できない。敗戦で生産や輸送が混乱していた日本にとって、安全な航路を確保することは急務だった。
機雷を取り除いて船が通れる水路を確保する仕事は、当時「航路啓開」と呼ばれた。連合国軍の指示・監督の下、旧日本海軍の人員や船舶を活用して掃海が続けられたのである。海上自衛隊の掃海部隊の沿革でも、1945年から航路啓開業務が始まったことが確認できる。
『航路啓開史』によると、1946年8月17日に係維機雷の掃海は完了したが、感応機雷への対処はその後も長く続いた。つまり、映画の舞台である1946年3月は、戦後の機雷除去がすでに終わりかけていた時期ではなく、なお大規模に行われていた時期なのである。
1946年3月、誰が機雷を除去していたのか
では、その仕事をしていたのは誰なのだろう。映画では敷島たちが少人数で船に乗り込んでいくが、史実では政府の組織と旧海軍の人員が作業の中心になっていた。
担当していたのは「第二復員省」だった
1946年3月の掃海を管轄していたのは第二復員省である。海軍省が1945年11月に廃止された後、同年12月に第二復員省が発足し、海軍関係の復員業務とともに掃海も引き継いだ。
1946年6月には組織改編で復員庁第二復員局となり、その後、掃海業務は運輸省へ移管されていく。海上保安庁が発足するのは1948年5月1日のことだ。したがって、映画の時点で掃海を担っていたのは海上保安庁でも自衛隊でもなく、占領下の第二復員省だった。
掃海には旧海軍関係者が数千人規模で従事していた
『航路啓開史』には、戦後の航路啓開に従事した人数が残されている。
| 時期 | 人数 |
|---|---|
| 1945年10月 | 約10,000人 |
| 1946年6月 | 8,390人 |
| 1946年8月 | 4,469人 |
※『航路啓開史』29頁「航路啓開業務要員変遷一覧表」。1946年3月の正確な人数は載っていない。6月の8,390人は、表では旧海軍将校638人、旧海軍軍人7,752人に区分されている。
1946年6月にも8,000人以上の人員がいたことから、敷島が仕事を始めた3月にも相当規模の掃海組織が活動していたと考えられる。
また「旧海軍軍人」というのはもともとの経歴を示す呼び方であり、戦後も日本海軍の軍人として勤務していたという意味ではない。掃海は軍の解体後に引き継がれた政府の業務だった。
復員してから改めて掃海員になった人もいた
この仕事に就いた人の具体的な証言も残っている。神戸新聞が2016年12月11日に掲載した元掃海隊員・嶋田好孝さんの証言によれば、嶋田さんは海軍をいったん除隊して鳥取県の実家へ戻った後、1946年春に第二復員省の職員募集を知り、応募した。
本人は復員業務に携わりたかったが、掃海艇への乗船を命じられたという。旧海軍の航海学校で操舵を学んだ経験があり、その後は神戸を拠点として瀬戸内海の掃海に従事した。映画とほぼ同じ時期に、復員した旧海軍軍人が改めて掃海の仕事に就いていた実例である。
乗船経験の扱いについても、『航路啓開史』には興味深い記録がある。1946年初頭の特別な「試航船」の乗員募集では、旧海軍軍人を新たに集める案と、その船に以前から乗っていた船員を残す案が検討された。新しい人員では船の運航に慣れるまで時間がかかるため、東亜丸など3隻では、まず元の船員に残ってもらう方針が採られたという。
機雷除去は実際にどのような仕事だったのか
機雷除去といっても、海面に浮かぶ機雷を見つけて片づけるだけではない。機雷の種類によって方法が異なり、使用する船も一種類ではなかった。さらに、実際に船を航行させて機雷を作動させたり、掃海後の航路の安全を確かめたりする任務もあった。
機雷の種類によって、掃海の方法も違っていた
映画で敷島たちが行うのは、2隻の船の間に掃海索を張って航行し、海底の重りにつながれた機雷の係維索を切断する作業だ。係維索が切れると機雷は海面に浮かび、それを機銃で撃って処分する。野田は米軍の磁気機雷の危険性を説明し、その対策として木造船を使っていると話すが、敷島たちが主に扱うのは係維機雷だとも説明している。映画でワイヤーを切っているのは、海底に沈んだ磁気機雷ではない。
実は、この作業方法は史実に基づいている。『航路啓開史』47頁の「係維機雷掃海具一覧表」には、2隻の船を使う対艦式の掃海具や、掃海索によって機雷の係維索を切断する方式が図入りで記録されている。映画に登場する、2隻で索を引き、機雷を浮上させるという作業の基本的な仕組みは、当時の掃海技術と共通する。
浮上した機雷を銃撃することも、実際に認められていた。『航路啓開史』97頁によれば、1945年12月8日、米国第5艦隊司令長官は日本の掃海船艇に対し、機雷処分用として機銃または小銃を2挺搭載し、各銃につき500発の弾薬を備えることを許可した。同書は、1946年8月に係維機雷の掃海が完了するまで、日本側が銃撃による処分を続けたと記している。映画の舞台である1946年3月にも、係維索を切って浮上させた機雷を銃撃処分する方法が存在していたのである。

この工程を実際に体験した人の証言もある。神戸新聞の2016年12月16日の記事「前方の米軍艇触雷、沈没」で、元掃海隊員の嶋田好孝さんは、1950年10月の元山沖で米軍の掃海艇が係維索を切り、海面に浮かんだ機雷を後続の日本側が自動小銃で撃っていたと振り返っている。1946年の事例ではないが、映画と同じ処理工程が現実に行われていたことを伝える具体的な証言である。
一方、神戸新聞の2016年12月11日の記事「終戦、機雷捜索の日々」で嶋田さんが語っているのは、海底に沈められた磁気機雷の掃海である。木造船2~3隻で電線を引き、電流を流して磁場を発生させ、機雷を海中で作動・爆発させていた。こちらは係維索を切断して機雷を浮上させる方法ではない。
『航路啓開史』の「感応機雷の掃海」(第8節)にも、五式掃海具(通電式)などを用いた磁気機雷の掃海が記録されている。また、米軍が日本近海に敷設した感応機雷には、磁気機雷のほか、音響機雷や磁気・水圧を組み合わせた機雷もあった。映画の作業と比較する際には、接触型の係維機雷を浮上させる方法と、海底の磁気機雷をその場で作動させる方法を分けて考える必要がある。
こうして比べると、映画の掃海方法が単にそれらしく作られたものではなく、実際の技術を踏まえていることが分かる。
旧海軍の船だけでなく、徴用漁船も使用された
戦後の掃海には、海防艦、駆潜特務艇、哨戒特務艇などが使われた。さらに補助船艇として徴用漁船や大発動艇も使用されている。
『航路啓開史』によると、1946年4月11日付の連合国軍側の指示では、328隻の掃海船艇が指定された。1946年3月とまったく同じ隻数ではないものの、当時の掃海が多様な船を用いて行われていたことが分かる。
映画の「新生丸」が木造船として描かれることにも、当時の掃海事情が反映されている。磁気機雷は、鉄製の船体が周囲の地磁気を乱すことなどに反応して爆発する。そこで、船体の鉄分を少なくして磁気的な影響を小さくするために、木造船が使われた。もっとも、木造なら機雷に対して絶対に安全というわけではない。
旧海軍出身で戦後の掃海にも従事した能勢省吾は、「朝鮮戦争に出動した日本特別掃海隊」で、戦争末期に木造の哨戒特務艇(約230トン)や駆潜特務艇(約130トン)を磁気掃海用に改造したと記している。また、姫野修による「航路啓開業務について」には、1944年8月に木造船3隻で曳航する通電式の五式掃海具を実用化したことが記録されている。『航路啓開史』の30頁と57頁にも、戦後の磁気掃海で駆潜特務艇・哨戒特務艇を主体とし、徴用漁船なども使用したことが記されている。
さらに、新潟市の『戦場としての新潟』15頁には、1945年に新潟港で現地の木造漁船を徴用し、掃海に使用した記録がある。これは映画の舞台となる1946年3月の東京湾の事例ではないものの、軍の木造艇に限らず、民間の木造漁船も機雷除去に使われたことが分かる。映画で磁気機雷の危険を避けるために木造船を使うという説明には、こうした技術上の背景があったのである。
機雷を処分し、航路の安全を確かめる「試航」
掃海に関連する仕事のなかでも、危険を伴ったのが「試航」である。『航路啓開史』73頁によれば、当初の目的は、実際に船を走らせ、水圧の変化に反応する機雷を作動させて処分することだった。1946年末には水圧機雷の大部分が機能を失っていると判明し、その後は磁気掃海の結果を確認することが主目的となった。映画と同時期の試航は、単に安全を確認するだけでなく、船を航行させて機雷を作動させる役割も担っていたのである。
1946年初頭には東亜丸、桑栄丸などが試航船として整備され、米海軍の指導を受けながら試航に従事した。『航路啓開史』には、触雷の衝撃を軽減するため船内に寝具用のマットや蒲団を取り付け、乗員を守ろうとした様子も記されている。危険を完全に取り除いたうえで航行するのではなく、危険を承知して機雷の処分に取り組む仕事だった。
この試航が、当時の報酬を考えるうえでも重要になる。
機雷除去の仕事は本当に高収入だったのか
映画では、危険な機雷除去は稼ぎのよい仕事として説明される。では実際の掃海員は、いくら受け取っていたのだろう。調べてみると、基本給の総額までは判明しなかったものの、作業時間に応じた手当の額を定めた当時の規則が見つかった。
掃海手当は、作業1時間につき2円と定められていた
1945年12月17日付『第二復員省公報』第5号(印刷1906~1907頁)には、「第二復員部内掃海手当支給規則」が掲載されている。
第2条には「掃海手當ハ一時間ニ付二圓トス」とあり、掃海手当は1時間につき2円と定められていた。船長については、2割増額して支給できる規定もある。
- 基本額:危険海面での掃海作業1時間につき2円
- 船長:2割増額して支給できる
- 計算対象:危険海面で実際に機雷の掃海作業に従事した時間
- 端数:1時間未満は1時間として計算
- 支給:原則として俸給・給料の支給日に支払う
- 適用:1945年12月1日以降の給与
出典:『第二復員省公報』第5号、1945年12月17日、「第二復員部内掃海手当支給規則」第1~5条・附則。アジア歴史資料センター資料 C12070535300、PDFの28~29ページ(公報1906~1907頁)。同センターの検索サイトでレファレンスコードを指定して参照できる。
仮に対象となる掃海作業が月100時間あれば、規則の基本額による手当は200円になる。ただし、単に船に乗っていた時間がすべて対象となるわけではない。また、1946年3月時点まで単価の変更がなかったことを示す改正履歴は未確認である。ここで確実に言えるのは、少なくとも1945年12月に、こうした時間制の手当が規定されていたということだ。
基本給と実際の月収は確認できていない
掃海手当は基本給に代わるものではなく、通常の俸給・給料とは別の支給である。したがって、当時の掃海員の月収を知るには、基本給と実際の作業時間、その他の支給を確認する必要がある。
残念ながら、1946年3月の一般の掃海員について、基本給や手当を合計した月収の実額は今回の調査では分からなかった。手当1時間2円という規定だけで、高給だったかどうかを決めることはできない。
敷島の前金3,000円は、史実として確認できるのか
映画の敷島は仕事を始める際、前金3,000円を受け取ったと説明する。では掃海員がそのような前金を受け取っていたのだろうか。
今回確認できた掃海手当の規則には、映画と同じ3,000円の前金制度は載っていない。別の契約や一時金の可能性まで否定するものではないが、敷島の前金を史実に直接対応させられる資料は見つかっていない。前金は月給とも限らないため、「掃海員の月給が3,000円だった」と読むこともできない。
一方、危険な試航任務には1人1万円の慰労金が約束された
興味深いことに、掃海に関連する特別な任務では、もっと大きな金額が史料に現れる。『航路啓開史』34~35頁によると、1946年3月末まで試航船の危険作業に従事する船員には、募集時に1人1万円の慰労金が口頭で約束されていた。
しかし第二復員省側には、試航は当初考えていたほど危険ではなく、試航船が就役して約2か月で1人1万円を渡すのは、他の関係業務との均衡から不合理ではないかという見方が生じた。これに船員たちが抗議し、1946年3月初旬には船内会議や呉地方復員局への申し入れにまで発展した。最終的に慰労金は当初の予定どおり渡すこととなったが、東亜丸と桑栄丸の船員は同月末に退船したという。
ここでの1万円は、通常の掃海艇乗組員の月給ではなく、試航船の乗員に約束された特別な一時金である。実際に各人へ支払われたことを示す個別の支払証憑までは今回確認していない。それでも、敗戦から間もない1946年に、危険な試航任務に1万円もの報酬が約束された例があったことは、映画の「危険だが報酬がよい」という描写を考える材料になる。
なお、1946年6月には別途「掃海慰労金支給規則」も制定されているが、これは同年4月以降に適用する規定であり、3月の一般掃海員の月給をそのまま示す資料ではない。
1946年の3,000円は、どれほど大きなお金だったのか
掃海員の月収が分からないとしても、映画の前金3,000円が当時どの程度の金額だったかは検討できる。ただし1946年の日本では賃金も物価も急速に変化していたため、異なる月の数字を同じ基準のように並べることには注意が必要だ。
工場労働者や炭鉱労働者の賃金と比べる
GHQが当時の日本の新聞記事を英訳して保存した資料には、具体的な賃金の数字が残っている。米ダートマス大学が公開する1946年1月の新聞翻訳資料では、愛知県の男性工場労働者の月給が100~150円と報告されている。
また、北海道の炭鉱労働争議に関する1945年12月の記録には、坑内労働者の日給18円、坑外労働者の日給10円という妥結例がある。1946年2月の別の新聞翻訳資料では、厚生省が30~50歳の男性世帯主について月450円という標準賃金の案を検討していたとされる。
| 時期 | 対象 | 金額 |
|---|---|---|
| 1945年末~1946年1月の報道 | 愛知県の男性工場労働者の月給 | 100~150円 |
| 1945年12月の妥結例 | 炭鉱労働者の日給(坑内/坑外) | 18円/10円 |
| 1946年2月の報道 | 厚生省が検討した男性世帯主の標準賃金 | 月450円 |
| 1946年3月の政策基準 | 標準世帯生活費 | 月500円 |
※地域・職種・時点・金額の意味がそれぞれ異なる。450円は検討中の賃金案、500円は政策上の生活費であり、実際の平均給与ではない。これらを一つの全国平均賃金として扱うことはできない。
工場労働者の月給100~150円と映画の前金3,000円には大きな開きがあるが、比較対象は数か月前の地域的な賃金例であり、3,000円は月給ではなく前金である。この二つから「掃海員は工員の20倍以上稼いだ」といった計算はできない。
政府が定めた標準世帯生活費は月500円だった
法政大学大原社会問題研究所の解説によれば、政府は1946年3月の物価統制で、標準世帯生活費を月500円とした。映画の3,000円は、この政策上の数字の6倍に相当する。
しかし、この500円は当時の人々が実際に支払っていた生活費の平均ではない。闇市場での購入を考慮せず、現実に必要な生活費の7割程度に抑えられた額だったと同研究所は説明している。
したがって、前金3,000円を受け取れば「家族が6か月安心して暮らせた」ということにはならない。金額の規模を知る目安にはなるが、当時の物不足を考えれば、それだけで生活の余裕を判断できないのである。
1946年3月は預金封鎖と新円切替の直後だった
さらに重要なのが、映画の仕事開始の少し前に行われた金融政策である。1946年2月17日、政府は金融緊急措置令などを公布・施行し、預金封鎖と新円切替を実施した。国立公文書館と日本銀行の説明によれば、旧円は強制的に預金させられ、生活費などに使える新円の引き出しにも制限が設けられた。
制度開始当初、給与として現金で支払えるのは月500円までで、それを超える部分は封鎖預金に入れる仕組みだった。国立国会図書館のレファレンス協同データベースに収録された調査事例でも、この制限が説明されている。
統制価格と闇市の価格には大きな差があった
預金から現金を引き出せたとしても、物が買えるとは限らなかった。終戦直後は深刻な物資不足が続き、政府が決めた統制価格と露店などの実際の価格に大きな差が生じていた。
1946年1月21日に東京財務局が実施した露店価格調査を紹介する当時の新聞の英訳資料では、木綿ズボンの統制価格7円50銭に対し、露店価格は200円だった。セーターは統制価格6円に対し、露店価格800円という例も載っている。
もちろん一部の衣類の価格を、そのまま平均生活費として使うことはできない。それでも、表向きの金額と実際に買うときの金額が大きく違っていたことは分かる。1946年3月の生活は、給料だけでなく、何を手に入れられるか、現金をどれだけ使えるかによって左右されていた。
機雷除去以外の復員兵は、どんな仕事をしていたのか
掃海の仕事が存在したことは分かった。では、ほかの復員兵たちはどうやって暮らしていたのだろう。戦争が終わって故郷に帰ったとしても、すぐに働けるとは限らなかったし、働いていても生活を維持するだけの収入が得られるとは限らなかった。
多くの復員軍人には、入隊前に別の仕事があった
1945年12月12日の帝国議会で、厚生省勤労局長の佐伯敏男は、国内部隊から復員した約396万人の入隊前の職業を説明している。当日の議事録に示された内訳は次のとおりである。
| 職業 | 人数 |
|---|---|
| 工業 | 約153万人 |
| 農林業 | 約104万人 |
| 公務・自由業 | 約54万人 |
| 商業 | 約29万人 |
| 交通業 | 約28万人 |
| 鉱業 | 約13万人 |
| 水産業 | 約7万人 |
※人数は政府答弁の概数。各項目の合計は約396万人と一致しない。復員後の就職先別人数ではなく、入隊前の職業である。
この数字から、工場や農業に従事していた人が多く軍隊に入っていたことが分かる。ところが戦争が終わると、軍需工場の閉鎖や生産の停滞によって、元の仕事に戻りたくても戻れない人が出ていた。
同じ議会で佐伯は、復員後に誰がどの仕事へ戻ったかについては、その時点で政府も正確な全国統計を持っていないと答えている。この答弁だけから、1946年3月の復員軍人の就職先について「第1位は農業、第2位は工場」というような全国ランキングを作ることはできない。
長野市の調査には、実際の就職先が記録されている
復員後の具体的な就職先は、地域の記録に残っている。『長野市誌 第七巻 歴史編 現代』によれば、1946年4月19日、長野市の上高田地区で復員軍人43人の就職・就業状況が調査された。
| 就業先・状況 | 人数 |
|---|---|
| 工場 | 15人 |
| 農業 | 10人 |
| 鉄道 | 3人 |
| 郵便 | 3人 |
| その他の就業先 | 10人 |
| 家にいて就業していない | 2人 |
※『長野市誌』の記載にある「工場15・農業10・鉄道3・郵便3ほか」と家居2人から整理した。「その他」10人は差し引きであり、職種の内訳は不明。調査は映画の1946年3月から約1か月後の、一地区の事例である。
43人のうち41人は復職などで就業先が決まっていたという。工場や農業に限らず、鉄道や郵便に就いた人もいる。もっとも、同じ長野市誌は、以前の職場がない引揚者の場合は就業先を新たに探す必要があり、より大きな困難が伴ったと記している。
農業・炭鉱・土木工事も、生活を立て直すための選択肢だった
農家の出身者が故郷で農業を再開することは、一つの現実的な道だった。ただし、農業に従事しても、その家に十分な農地や現金収入があるとは限らない。戦後には新たな土地へ入植する人もいた。
『長野市誌』には、1946年11月末に長野県内の9開拓地へ入植した154世帯のうち、58世帯が軍人・軍属関係者だったという記録がある。これは3月より後の状況だが、復員した人々が農地の開拓によって生活基盤を作ろうとした例である。
炭鉱も復興に欠かせない仕事だった。石炭がなければ工場や鉄道などの活動を立て直せない。ところが、炭鉱では人員確保が難航していた。1945年12月12日の議会でも、政府は元炭鉱労働者の復職を求めているものの、十分に戻ってきていない状況を説明している。
さらに政府は、道路や河川の修復、港湾整備、土木・建設事業、土地の開拓・干拓などで仕事を増やそうとしていた。ただし、1945年12月の段階では計画中の事業も多く、1946年3月にすべてが実現していたわけではない。この点は1945年12月4日の芦田均厚生大臣の答弁から読み取れる。
仕事がない人だけでなく、仕事があっても暮らせない人がいた
芦田は同じ1945年12月4日の議会で、失業者が増える一方、石炭などの分野では求人を出しても働き手が集まらないという矛盾した状況を説明している。
その背景には賃金の低さと食糧不足があった。重い労働をしても十分な食料が手に入らない一方、農村へ買い出しに行き、余った食料を闇市場で売る方が収入になる場合もある。芦田は、そのような事情が工場や港湾の仕事に人が集まらない理由の一つになっていると述べていた。
もっとも、買い出しや売買に従事した人のうち何人が復員兵だったのかは分からない。映画では敷島が以前に米を運んでいたことが会話に出てくるが、これも一つの生活手段として当時の状況と重なる場面といえる。
さらに、1947年に公表された政府経済報告の雇用・労働に関する章は、1946年4月26日の人口調査に基づき、仕事を求めても職がない人が159万人、働いていても月に1週間以内しか働いていない人が196万人、月に8日以上20日未満しか働いていない人が432万人いたと説明している。
この数字は復員兵だけのものではなく、1946年3月から約1か月後の社会全体の状況である。それでも、失業だけでなく不十分な就業も大きな問題だったことが分かる。職に就いているかどうかだけでは、その人が生活していけるかどうかを判断できない時代だった。
敷島が機雷除去の仕事を選んだ時代とは
最初の疑問に戻ろう。『ゴジラ-1.0』で敷島が始めた機雷除去は、本当に存在した仕事だった。しかも、1946年3月には第二復員省の管理下で旧海軍関係者を中心とする掃海が続き、復員後に新たに応募して掃海艇へ乗った人の証言も残っている。
危険な作業に対して1時間2円の掃海手当を定めた規則も見つかった。試航船では、3月末まで任務を続けた乗員へ1人1万円の慰労金が約束された例もある。ただし、一般の掃海員の基本給や実際の月収総額は確認できず、映画の前金3,000円と直接対応する支給記録も見つかっていない。実際に存在した制度と、映画の具体的な金額の設定は分けて考えたい。
そして、機雷除去という仕事の背景を調べるほど、当時の復員兵の生活の難しさも浮かび上がってきた。戦前の工場に戻れない人、農業を再開する人、炭鉱や公共事業に活路を求める人、定職だけでは暮らせず買い出しや物品の売買をする人。仕事があっても、物価の高騰や食糧不足、預金封鎖によって生活の見通しが立つとは限らなかった。
敷島にとって機雷除去は、典子や明子との生活を支えるための仕事として登場する。しかしその仕事は、戦争が残した兵器と再び向き合う危険なものでもあった。終戦から7か月たっても、海には機雷があり、そこには働く人が必要だった。戦争が終わった後も、戦争の後始末をする仕事で生きていかなければならない人々がいた。その事実を知ると、敷島が掃海艇に乗り込む場面も、少し違って見えてくる。
調査に使用した主な史料
掃海業務の人数・船舶・採用、試航の目的とその変遷、試航船の慰労金については、『航路啓開史』(防衛庁海上幕僚監部防衛部編、1961年刊/「掃海OB等の集い 世話人会」2012年改訂版PDF)を中心に参照した。掃海手当については、アジア歴史資料センター所収『第二復員省公報』第5号(1945年12月17日、レファレンスコード C12070535300)の原本画像を確認した。
復員兵の仕事については、1945年12月12日の帝国議会会議録、同年12月4日の会議録、『長野市誌 第七巻 歴史編 現代』、1947年の政府経済報告を用いた。賃金・物価については、当時の日本の新聞を翻訳したGHQ関連の新聞翻訳資料、法政大学大原社会問題研究所の解説、日本銀行・国立公文書館の資料などを参照した。
敷島にとって機雷除去は、典子や明子との生活を支えるための仕事である。そうして築いた暮らしをゴジラに壊された彼が、最後に自分自身も生きることを選ぶ。その結末には、戦争を生き延びた敷島が、ようやく自分の人生を取り戻す喜びがある。

戦争が終わっても、その傷を抱えて生きる人々がいるという点では、敷島と初代『ゴジラ』の芹沢は重なっている。しかし、ゴジラとともに海へ去った芹沢と、生きて帰ってきた敷島の結末は異なる。その違いには、芹沢にも帰ってきてほしかったという思いが重なる。
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