映画『インサイド・ヘッド2』の終盤、シンパイの暴走によってパニックに陥ったライリーを救おうと、ヨロコビは以前の「私はいい人」という自分らしさを取り戻す。ところが、それでもライリーは落ち着かない。原因がシンパイなら、ヨロコビが主導権を取り戻した時点で一件落着になってもよさそうなものだが、そうはならないのである。

しかも、よく考えてみると、ヨロコビもシンパイとずいぶん似たことをしている。シンパイはライリーの未来のために古い感情たちを追い出したが、ヨロコビも都合の悪い記憶を遠ざけ、よい記憶ばかりを集めて「自分らしさ」を作ろうとしていた。二人ともライリーのためによかれと思っているのだが、ライリーにとって何が必要なのかを、自分たちで勝手に決めている点では同じである。

そして映画のラストでは、もう一つ奇妙なことが起きている。ヨロコビが操作盤から離れていると、カナシミが「ライリーがヨロコビを求めている」と伝えに来る。それを聞いたヨロコビが操作盤へ戻り、ライリーは笑顔でホッケーを始めるのである。

前作からずっと、頭の中の感情たちがライリーを動かしてきたはずだった。それなのに、最後にはライリーのほうがヨロコビを必要としている。

では、感情たちがライリーを動かしているのなら、その感情を必要とした「ライリー自身」は、いったいどこにいるのだろうか。

スポンサーリンク
  • 感情は「とりあえずの判断」:人はすべての出来事を分析できないため、まず感情によって意味を与える。その判断は、あとから変わることもある。
  • 思春期に感情が増える理由:未来を考え始めたライリーには、経験だけでは対応できない状況が増えた。大人は経験を積む分、細分化された感情の出番が少なくなる。
  • ヨロコビとシンパイの共通点:ヨロコビは「今」を、シンパイは「未来」を自分の判断に合わせようとして、どちらもライリーの現実を歪めてしまった。
  • ハズカシがカナシミをかばった意味:シンパイが主導権を握る中でも、ハズカシは違う判断をしていた。前作のカナシミに近い物語上の役割を担っている。
  • 最後にライリーを支えたもの:よい記憶だけでなく、嫌な経験も含めた積み重ねがライリーを形作っていた。最後はライリー自身がヨロコビを必要とし、感情がそれに応えた。

感情とは「とりあえずの判断」

前作『インサイド・ヘッド』では、頭の中にいる感情たちが操作盤を動かすことで、ライリーの行動が決まっていた。ヨロコビが操作すれば喜び、イカリが操作すれば怒り、ビビリが操作すれば怖がる。その仕組みをそのまま受け取れば、人間は感情にコントロールされて生きていることになる。

しかし、そもそも感情とは何なのだろうか。人間は日々さまざまな出来事に遭遇するが、そのすべてを十分に分析し、意味を理解してから行動することなどできない。情報が多すぎるし、何かが起こるたびに立ち止まって考えていたら、日常生活そのものが成り立たなくなってしまう。

そこで私たちは、とりあえず感情によって、目の前で起きた出来事に意味を与えているのではないだろうか。

うれしい、悲しい、腹が立つ、怖い。感情は、目の前の出来事が自分にとってどういう意味を持つのかについての「とりあえずの判断」である。もちろん、その判断がいつも正しいわけではない。最初は腹が立ったものの、事情を知ってみれば怒るようなことではなかったという経験もあるだろうし、怖いと思っていたことが、実際にやってみると何でもなかったという場合もある。

それでも、その時点で十分な情報が得られなかった以上、ひとまず何らかの判断を下す必要はあったのである。感情が間違えることもあるというのは、感情そのものが不要だという話ではない。

前作から続く、感情たちが記憶の玉に色を与えるという描写は、この仕組みを表しているように思う。ヨロコビが関われば黄色くなり、カナシミが関われば青くなる。経験した出来事に対して、その瞬間の感情が意味を与えているわけである。

ただし、ある出来事に対して最初に抱いた感情が、その出来事のすべてを説明しているわけではない。そのときは楽しかった思い出でも、時間がたってから悲しくなることはあるし、逆に嫌だった出来事について、後から別の側面が見えてくることもある。

前作のラストで複数の色が混ざり合った記憶の玉が登場したのは、一つの出来事を複数の感情から受け止められるようになったことを表していたのだろう。

では、今作で再び単色の記憶が数多く登場するのはなぜなのか。

おそらく、私たちは過去に起こったすべての出来事を、何度も振り返って考え直しているわけではないからだと思う。人生では新しい出来事が次々と起こってくるので、そのすべてを反芻することなどできない。最初に喜んだことは喜んだまま、悲しんだことは悲しんだまま、別の側面を考える機会もなく残っている記憶も多いはずである。

単色の記憶は、最初に下した「とりあえずの判断」のまま、顧みられることなく残っているものなのではないだろうか。前作で複数の色を持つ記憶が生まれたからといって、すべての記憶がそうなるわけではないのだから、今作で単色の記憶が登場しても特におかしくはないのである。

思春期になって、新しい感情が必要になった理由

感情を「とりあえずの判断」と考えると、今作で新しい感情が登場したことも、単に思春期になったからというだけではなく、もう少し具体的に説明できそうである。

ライリーはまだ13歳であり、大人と比べれば経験が少ない。初めて出会う状況も多く、そのたびに過去の経験を参考にできるとは限らない。「こんなことが前にもあったな」「あのときはこうすればよかった」という判断ができなければ、その状況に応じた別の判断をする必要がある。

そのために感情が細分化されていくのではないだろうか。

今作で登場したシンパイ、ハズカシ、イイナー、ダリィの4つは、いずれも思春期らしい感情である。しかし、もう一つ共通する特徴があるように思う。それは、どの感情にも未来を想定するという側面があることである。

新しい4つの感情が想定する「未来」
  • シンパイ: まだ起こっていない危険や失敗を予測する。ビビリが主に目の前の危険に反応するのとは異なる。
  • ハズカシ: 自分の行動が、このあと周囲にどう受け止められるかを意識する。
  • ダリィ: これから何かをすることの面倒くささを予想する。
  • イイナー: 憧れの先輩たちに、将来自分がなりたい姿を重ねる。

前作のライリーも、引っ越しという大きな変化に直面していた。ただ、あのとき彼女を苦しめていたのは、住み慣れた場所から離れたことや、新しい生活が気に入らないことだった。将来の人間関係についてあれこれ考えるというより、今、自分が置かれている状況そのものが不快だったのである。

ところが『インサイド・ヘッド2』では、まだ始まっていない高校生活や、その先の人間関係についてライリーが考えるようになっている。今の生活に大きな問題が起きているわけでもないのに、これから起こるかもしれないことが、今の行動を左右するのである。

もちろん、この4つが未来だけに関係する感情だと言いたいわけではない。しかし、前作の感情たちが主として目の前の出来事に反応していたのに対し、今作で新しく登場した感情たちは、まだ起きていないことまで判断の対象にしているように見える。

思春期になったライリーは、それまで経験したことのない未来を考え始めた。そのために必要になった新しい判断が、4つの感情として描かれているのではないだろうか。

そう考えると、これらをネガティブな感情と呼ぶことにも、あまり意味はないように思う。シンパイは危険を避けようとしているし、ハズカシは周囲との関係を意識させる。イイナーは自分がどうなりたいのかを考えることにつながるし、ダリィもこれから起こることを予想する働きを持っている。

また、愛情のような感情が新しいキャラクターとして登場しないからといって、ライリーに愛情が存在しないわけでもない。家族や友人への愛情は前作から描かれているし、今作でも失われていない。人間が持つ感情をすべてキャラクターにしたのではなく、思春期のライリーに新しく必要になった判断が、今回の4つとして選ばれたのだと思う。

スポンサーリンク

大人の頭の中では、新しい感情はどこへ行ったのか

ここで気になるのが、ライリーの両親の頭の中である。前作でも今作でも、両親の司令部では基本的に最初からいた5つの感情が働いている。もちろん、大人になったからといって、恥ずかしいと思わなくなったり、人を羨ましく思わなくなったりするわけではない。

感情が経験の不足を補うための判断だと考えるなら、大人の司令部に新しい感情があまり登場しない理由も説明できそうである。

大人は子供よりも多くの経験を積んでいるので、以前にも経験した状況なら、そのときの記憶を参考にして対応できる。子供の頃には初めての経験だったことも、大人になれば珍しいことではなくなる。わざわざ細分化された感情を働かせなくても、過去の経験をもとに判断できる場面が増えていくのである。

ただし、大人でもまったく経験したことのない出来事に遭遇することはある。そのときには、それまでの経験だけで判断できず、普段は必要としない感情が働くこともあるだろう。

実際、今作のエンドロール途中には、両親の頭の中にもシンパイが登場している。母親のシンパイはライリーの髪の色を心配し、父親のシンパイも合宿から帰ってきたライリーの素っ気ない返事を気にする。しかし、父親の司令部ではその心配が長く続くこともなく、すぐに普段の様子へ戻っていく。

新しい感情が大人の中に存在しないわけではなく、普段はそれほど出番がないのだと考えられる。

その意味では、ナツカシが普段は扉の向こうにいて、まだ出番ではないと戻されてしまう描写も面白い。存在している感情が、常に司令部で活躍している必要はないのである。

子供にとっては未知の状況に遭遇することが日常であり、大人にとっては、これまでの経験で対応できることのほうが多くなっている。その違いが、司令部に登場する感情たちの顔ぶれにも表れているのではないだろうか。

スポンサーリンク

さらに、両親の感情たちが本人によく似ているのに、ライリーの感情たちはバラバラの姿をしていることも、成長という観点から考えられる。

ライリーの肉体にはすでに固有の外見があるが、精神はまだ形成の途中にあり、一定の形を持っていない。だから、ライリーの感情たちもそれぞれ異なる姿をしているのだと思う。一方、両親には長年の経験によって作られた、その時点での精神の形がある。感情たちは、その姿に似ているのである。

もちろん、大人になれば精神が完成するということではない。人間は年齢を重ねても新しい経験を積み、少しずつ変わっていく。その変化はある瞬間に突然起こるというより、本人も気づかないうちに進んでいることのほうが多いだろう。

両親の感情たちも、今の持ち主に似ているだけであって、本人が変われば一緒に変わっていくのだと思う。

シンパイは、ヨロコビと同じことをしている

さて、こうして登場したシンパイは、ライリーの未来をよくしようとして、さまざまなことを考える。高校で孤立しないように、ホッケー部で認められるように、これから起こるかもしれない問題を予測し、先回りして対処しようとする。

しかし、その結果、ライリーはかえって苦しい状況に追い込まれてしまう。シンパイがいなければ眠れたはずの夜に眠れなくなり、昔からの友人たちとも距離を置くようになる。まだ起こっていない未来の問題を避けようとして、今のライリーが犠牲になっているのである。

ところが、シンパイの行動は、前作からヨロコビがやってきたことと非常によく似ている。

ヨロコビとシンパイは、何を変えようとしていたのか
  • ヨロコビ(今): 目の前の出来事をできるだけ喜ばしいものとして受け止め、嫌なことも前向きなものに変えようとする。
  • シンパイ(未来): まだ起きていない悪い結果を避けようとして、今のライリーまで苦しめてしまう。

そのことがはっきりするのが、ヨロコビがライリーにとって都合の悪い記憶を遠ざけていたという描写だろう。ヨロコビは、よい記憶を中心に「私はいい人」という自分らしさを作り、ライリーを幸せにしようとしていた。これは、シンパイが将来のために新しい「自分らしさ」を作ろうとしたことと、基本的には同じである。

ヨロコビもシンパイも、ライリーのために働いているのだが、自分の判断を優先するあまり、現実をそのまま受け止めることから遠ざかってしまっている。

新しい感情が古い感情を追い出した理由

シンパイは、新しい環境に対応するために、それまで司令部を動かしていたヨロコビたちを追放する。ライリーの未来をよくするためには、自分たちが主導権を握る必要があると考えたのである。

この行動は、ライリーが外の世界でしていたことと重なっている。

ライリーは新しい高校生活に適応しようとして、それまでの友人たちと距離を置き、憧れの先輩たちとの関係を優先するようになる。過去の自分を知る友人たちから離れて、新しい環境に合った自分になろうとしているわけである。

頭の中でも、同じことが起こっている。それまでライリーを支えてきた感情たちが、新しく登場した感情たちによって追放されてしまうのである。

思春期の子供が新しい自分になろうとして、それまでの自分を否定することは珍しくない。シンパイによるヨロコビたちの追放は、ライリーが外の世界で行っていることを、そのまま感情の物語として表現したものなのではないだろうか。

これまでの経験や判断では対応できない状況になったので、新しい感情が必要になった。しかし、その新しい感情が、以前の判断をすべて否定してしまったのである。

しかも、シンパイは自分がライリーのために正しいことをしていると信じている。ヨロコビたちを追い出したのも、ライリーを苦しめたかったからではない。むしろ、ライリーを守るために必要なことだと考えていたのである。

このあたりは前作のヨロコビともよく似ている。ヨロコビもライリーを幸せにするために、カナシミをできるだけ行動させないようにしていた。自分がよかれと思っている判断に従えば、ライリーは幸せになれると考えていたわけである。

ところが、ヨロコビにもシンパイにも、自分の判断では対応できないことがある。そのことを思い出させてくれるのが、今作ではハズカシだったように思う。

スポンサーリンク

ハズカシがカナシミを守ったことの意味

ヨロコビたちが司令部から追放されたあと、カナシミは仲間を助けるため、ひそかに司令部へ戻ってくる。しかし、その姿をハズカシに見つかってしまう。

ここでハズカシは、シンパイたちに知らせることなく、カナシミを隠してやるのである。

『インサイド・ヘッド2』の一場面。積み重なった本の陰から顔をのぞかせるハズカシと、手前にいるカナシミの後ろ姿。
引用:映画『インサイド・ヘッド2』(2024年)より。積み重なった本の向こうにハズカシ、手前にカナシミが映る場面。

しかも、その少し前には、ハズカシが、ライリーが昔からの友人たちに冷たい態度を取った記憶を見つめる場面もある。ハズカシがその記憶を見て何を考えたのかは説明されないのだが、直後にカナシミをかばったことを考えると、シンパイの方針にすべて従っていたわけではなかったことが分かる。

シンパイが作った新しい「自分らしさ」がライリーに自信を失わせたときにも、ハズカシはカナシミが行動できるように助けている。新しい感情たちの中では、ハズカシが一番冷静に状況を見ていたようにも感じられる。

というのも、シンパイはライリーの未来をよくすることに必死になり、目の前で何が起きているのかを十分に見られなくなっていた。それに対してハズカシは、カナシミを見つけたときにも、シンパイの判断にただ従うのではなく、別の行動を取っている。

考えてみると、前作ではカナシミが似たような役割を担っていた。

ヨロコビはライリーを幸せにするために必死だったが、そのためにカナシミを邪魔な存在として扱っていた。しかし最後には、ヨロコビだけではライリーを救うことができず、カナシミの働きが必要だったことが分かる。

今作ではシンパイが物語を動かす中心となり、ハズカシがその判断から外れた行動を取っている。ハズカシとカナシミが感情として似ているというよりも、物語の中で与えられた役割が似ているのである。

もちろん、ハズカシがシンパイの行動をどこまで理解していたのかは分からないし、ほかの新しい感情たちも同じように考えていたとは言えない。ただ、ハズカシがカナシミをかばったのは、シンパイの方針がすべての感情にとって当然のものではなかったことを示す場面だったのではないだろうか。

感情は、あくまでその状況に対応するための「とりあえずの判断」である。どれか一つの感情が正しいと決まっているわけではないし、同じ状況でも別の感情なら違う判断をすることがある。

シンパイがライリーを守ろうとしていたことは間違いない。しかし、シンパイだけでライリーの未来を決めようとしたことには、やはり無理があったのである。

ヨロコビが「私はいい人」を戻しても、ライリーが立ち直れなかった理由

映画の終盤、シンパイはホッケーの試合でライリーに得点を取らせようと必死になる。ライリーはそのために友人のグレイスを傷つけてしまい、反則によってペナルティーボックスへ送られることになる。

スポンサーリンク

そこまで来てもシンパイは何とかしようとするのだが、すでにライリーは自分をコントロールできなくなっている。将来のために失敗を防ごうとしていた感情が、目の前で起きた失敗に対応できず、さらに暴走してしまったのである。

そのときヨロコビが司令部へ戻り、シンパイを操作盤から離す。そして以前の「私はいい人」という自分らしさを元に戻そうとするのだが、それでもライリーのパニックは収まらなかった。

ここで考えたいのは、ヨロコビが作った自分らしさも、シンパイが作った自分らしさも、ライリーの記憶を選別して作られたものだったということである。

ヨロコビは、ライリーにとって都合のよい記憶を残し、都合の悪いものを遠ざけていた。一方のシンパイは、未来に失敗しないためには何が必要かを考え、そのための新しい自分らしさを作ろうとしていた。

しかし、どちらもライリーという人間の一部分を取り出しているにすぎない。

そもそも、今の自分が存在しているということを説明するために、都合のよい過去だけを理由にすることには無理がある。

人間は、よい出来事だけを経験して生きてきたわけではない。嫌な思い出もあるし、自分では選べなかった出来事もある。失敗したことも、後悔していることもあるだろう。しかし、残念ながら、それらもすべて現在の自分が存在するより前に起きた出来事なのである。

もし、その出来事が起きていなければ、現在の自分は違う人間になっていたかもしれない。場合によっては、今ここに存在していなかった可能性さえある。

だからといって、嫌な出来事にも価値があったとか、つらい経験も必要だったなどと言いたいわけではない。起きないほうがよかった出来事もあるだろうし、何も学べなかった失敗もあるだろう。

それでも、今の自分がどうして存在しているのかを考えるなら、都合の悪い過去だけを取り除くことはできない。どれほど嫌な経験だったとしても、それは現在の自分につながる過去に位置しているのである。

ヨロコビの「私はいい人」も、シンパイの「私はダメな人間だ」も、その一部分だけを取り出して作られたものだった。ライリーには、親切なところもあれば意地悪なところもある。勇敢なときもあれば、怖くなることもある。友人を大切にする一方で、その友人を傷つけてしまうこともある。

実際の人間とは、そういうものだろう。あるとき親切だったからといって、いつも親切でいられるわけではないし、一度意地悪をしたからといって、それまで積み重ねてきた親切な行動がすべてなくなるわけでもない。

そのどちらもライリーなのである。

記憶は、経験した出来事をそのまま保存しているわけではない

しかも、人間の記憶というものは、過去の出来事をそのまま保存しているわけではない。

映画の中には、ライリー自身が映っている記憶も登場する。自分の目で見た光景をそのまま記録しているのなら、自分自身が第三者の視点から映っているのは不思議なことだが、実際の人間の記憶を考えれば、それほどおかしなことではない。

私たちは過去の出来事を思い出すとき、その後に得た知識や現在の自分の考え方を重ね合わせる。自分では見ていなかったはずの姿を、後から客観的に思い浮かべることもあるし、何度も思い出しているうちに、記憶の内容そのものが変わってしまうことさえある。

残念ながら、人間の記憶は、過去の出来事をいつまでも正確に再生してくれるものではないのである。

しかし、記憶の内容が変わることと、過去に経験したという事実が消えることは違う。最初は黄色だった記憶が青くなったとしても、そこで経験したこと自体がなかったわけではない。

記憶が変質し、意味も変わっていくからといって、現在の自分が過去から自由に切り離されているわけではないのである。

ライリーを支えたのは、感情が選んだ記憶ではなかった

映画の終盤では、ヨロコビが遠ざけていた大量の記憶が戻り、ライリーの「自分らしさ」に変化が起こる。

ただし、嫌な記憶が流れ込んだからといって、すぐにライリーが落ち着くわけではない。むしろ、それらの記憶から新しい信念が生まれ、シンパイの暴走とともにライリーをさらに苦しめてしまう。

つまり、嫌な記憶を戻すだけで問題が解決するわけでもないのである。

ヨロコビは一度、以前の「私はいい人」という自分らしさを戻す。しかし、それでもパニックが収まらないことを知ると、今度は自分の手でその自分らしさを取り外す。そして、そこには新しい「自分らしさ」が生まれてくる。

その中には、親切な自分もいれば、意地悪な自分もいる。勇敢な自分もいれば、怖がる自分もいる。よい友人であると思う一方で、友人にひどいことをしてしまった自分もいる。そうした一見矛盾するものが、同じライリーの中に存在しているのである。

そして、新しく生まれた自分らしさは、以前のように一定の形へ落ち着こうとしない。ライリーはまだ成長の途中にあり、経験を重ねる中で変わっていく人間なのだから、そもそも一つの形に固定する必要などなかったのだろう。

ヨロコビはその新しい自分らしさを抱きしめ、ほかの感情たちもそこへ集まってくる。するとライリーの呼吸は少しずつ落ち着き、パニック状態から抜け出していく。

では、これはライリーが、自分の嫌な部分も受け入れると決心したということなのだろうか。

私は、そういう意識的な決断をしたというより、ライリーは感情による判断を重ねた結果、どうしようもない状況に追い込まれてしまったのだと思う。

シンパイは未来のために必死に考えた。しかし、その判断によって今のライリーが苦しめられている。ヨロコビが以前の自分らしさを戻そうとしても、状況は変わらなかった。これまでライリーを動かしてきた感情による「とりあえずの判断」が、もはや役に立たなくなったのである。

だからといって、そこでライリーがすべてを論理的に分析し、正しい答えを導き出したわけでもない。むしろ、感情による判断がどうしようもなくなったときに、ライリーにはそれまで積み重ねてきた経験が残されていた、ということなのだと思う。

ライリーは、それまで何度もホッケーの試合に出場してきたし、一生懸命練習を重ねてきた。実際に結果を残した経験もあるし、友人たちと過ごしてきた時間もある。それらは、シンパイがどれほど未来を心配しても、ヨロコビがどれほど前向きに考えようとしても、なくなるものではない。

ホッケーがうまくなりたくて練習を重ねてきたことも、試合で結果を出してきたことも、友人たちとの関係を築いてきたことも、すべてライリー自身が経験してきたことである。頭の中の感情たちが作った理想のライリーではなく、現実に生きてきたライリーには、そうした積み重ねがあった。

今作では、そうした記憶が単に過去の出来事として保存されているのではなく、信念を生み、その人の「自分らしさ」を形作っていることが描かれている。

そして、その自分らしさは、ヨロコビやシンパイが都合のよい記憶を選んで作るものではなかったのである。

もちろん、感情による判断が役に立たなくなったとき、誰もが自分を立て直せるとは限らない。そのまま感情が爆発し、どうにもならなくなってしまうこともあるだろう。

しかし、今回のライリーは立ち直ることができた。これまでの経験や記憶によって形作られた自分自身が、その土台になったのではないだろうか。

その後、ライリーは友人たちに自分がしたことを謝り、再び一緒にホッケーをすることになる。シンパイが心配していた未来がすべて解決したわけではないが、ライリーはもう一度、目の前の現実と向き合えるようになったのである。

ある意味では、『インサイド・ヘッド2』は「うまくいった話」を描いている。誰もが同じように立ち直れるわけではないのだが、ライリーの場合は、それまで積み重ねてきたものが彼女を支えたのである。

スポンサーリンク

最後にヨロコビを必要としたのは、ライリーだった

そして、ここでリード文に書いた、もう一つの奇妙な場面へ戻りたい。

友人たちと仲直りしたライリーが再びホッケーを始めようとするとき、ヨロコビは司令部の操作盤から離れている。するとカナシミが、ライリーがヨロコビを必要としていることを伝え、ヨロコビは操作盤へ戻る。そしてライリーは笑顔でホッケーを始めるのである。

前作からずっと、ヨロコビは自分がライリーを幸せにしようと考え、そのために司令部を操作していた。ライリーが置かれた状況をできるだけ喜ばしいものにしようとし、ときには都合の悪い記憶まで遠ざけていた。

しかし、この場面では順序が逆になっている。

ライリーがヨロコビを必要とし、ヨロコビがそれに応えているのである。

『インサイド・ヘッド2』の一場面。操作盤の前にカナシミやハズカシ、イカリたちが集まり、右手前にはヨロコビの後ろ姿が見える場面。
引用:映画『インサイド・ヘッド2』(2024年)より。司令部で感情たちがヨロコビのほうを見つめる場面。

頭の中にいる感情たちがライリーの行動を決めているというのが『インサイド・ヘッド』の世界観だったはずなのに、最後には、その感情たちとは別にライリー自身の意思が存在するかのような描写になっている。

では、そのライリー自身はどこにいたのか。

私は、それまでライリーが積み重ねてきた経験と記憶の中にいたのだと思う。

ヨロコビが作った「私はいい人」も、シンパイが作った「私はダメな人間だ」も、ライリーの一部分にすぎなかった。実際のライリーは、よいことも悪いことも経験し、成功も失敗も重ね、その中で少しずつ形作られてきた人間なのである。

しかも、その経験や記憶は、感情たちが自由に選び直してよいものではなかった。ヨロコビが嫌な記憶を遠ざけても、その経験がなかったことになるわけではないし、シンパイが新しい自分を作ろうとしても、それまでのライリーが消えるわけではない。

ライリーという人間は、感情たちが何を望むかとは別に、すでに長い時間をかけて形作られていたのである。

もちろん、だからといって、感情が必要なくなるわけではない。そもそも感情は、未知の状況に対応するために必要な「とりあえずの判断」だった。これからもライリーは新しい出来事に遭遇するだろうし、そのたびにシンパイが必要になることもあれば、ヨロコビやカナシミが必要になることもあるだろう。

また、ヨロコビもシンパイも、ライリーのためによかれと思って行動していたことを忘れてはならない。結果的に間違った判断をしたからといって、その感情が不要になるわけではないのである。

感情を否定することと、感情に支配されないことは違う。

さらに言えば、ライリーという人間も、映画のラストで完成したわけではない。これから新しいことを経験し、記憶を積み重ね、そのたびに少しずつ変わっていく。その変化はある瞬間に突然起きるというより、本人も気づかないうちに進んでいくものなのだと思う。

大人になっても同じである。経験が増えれば、それまで必要だった感情の出番が少なくなることもあるだろう。しかし、また新しい状況に出会えば、別の感情が必要になるかもしれない。そうして経験を重ねながら、人間は少しずつ変わっていくのである。

前作『インサイド・ヘッド』を見ていると、人間は頭の中の感情たちによってコントロールされているように見える。ヨロコビが操作盤を動かせばライリーは喜び、カナシミが操作すれば悲しむ。その仕組みそのものが、前作の面白さだった。

しかし、その世界観をそのまま受け取ってしまうと、ライリー自身はどこにいるのかという疑問が残る。感情が人間の行動を決め、その感情によって個性まで決まるのであれば、人間とは感情を入れるための容れ物にすぎなくなってしまう。

『インサイド・ヘッド2』は、前作の設定を引き継ぎながら、その見方をある程度否定した映画だったのではないだろうか。

人間は感情によってさまざまな判断を下す。しかし、その判断が人間を作っているわけではない。人間を形作っているのは、それまで積み重ねてきた経験と記憶である。

しかも、その中には喜ばしいものだけでなく、嫌なものも、自分では選べなかったものも含まれている。それらを都合よく選別して、自分を作り直すことはできない。そして、忘れてはならないのは、感情もまた自分の一部だということである。

ヨロコビもシンパイも、自分の判断でライリーを動かそうとしていた。しかし、どちらもライリーのためによかれと思って行動していたのだ。感情が間違った判断をしたからといって、その感情を否定する必要はない。むしろ、その間違いも含めて、ライリーが生きてきた経験の一部となっていく。

感情に支配されるのでもなく、感情を捨てて理性的な人間になるのでもない。感情も含めて、それまで経験してきたすべてが自分なのである。

前作では、感情たちがライリーを動かしていた。しかし今作の最後では、ライリーがヨロコビを必要としていた。

感情がライリーを作るのではなく、これまでの経験と記憶によって形作られてきたライリーが、感情とともに生きていく。

『インサイド・ヘッド2』は、最後にその関係を描くことで、前作とは少し違う人間の姿にたどり着いたのだと思う。

この記事を書いた人

最新記事

管理人アバター
Sifr(シフル)
映画・アニメを中心に、見終わったあとに気になったことを、自分なりに考察して記事にしています。妄想に近いものもありますが、「そんな見方もあるのか」と作品をもう一度楽しむきっかけになれば幸いです。