「トイ・ストーリー」から「トイ・ストーリー3」までの物語において、おもちゃたちは、子どもに必要とされることを何よりも望んでいる。

しかし、子どもは成長し、いつかおもちゃで遊ばなくなる。それでも、おもちゃの側は子どもを愛し続ける。

その献身は美しい。同時に、最後にはおもちゃを忘れてしまう人間にとって、あまりにも都合のよい関係でもある。

さらに、ウッディやバズ、ジェシーたちが抱える「必要とされなくなる恐怖」は、人間にとっても無関係なものではない。私たちもまた、社会やコミュニティの中で自分の役割を持ち、誰かに必要とされることを望んでいるからである。

今回は、「トイ・ストーリー4」へ至るまでのシリーズを振り返りながら、おもちゃたちの変わらない愛情が、なぜ私たちの心を動かし、同時に罪悪感まで抱かせるのかを考えていきたい。

以下ネタバレについては一切気にしない文章となっているので、未視聴の方は注意してください。

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  • 危うい「存在価値」の正体: おもちゃの価値は子どもに依存しており、彼らは常に「必要とされなくなる恐怖」と戦っている。
  • 人間社会の残酷なメタファー: 役割を奪われ、居場所を失うおもちゃたちの姿は、社会における私たち自身の葛藤そのものである。
  • 成長」という無自覚な暴力: 永遠の愛を捧げるおもちゃに対し、人間は悪意なく彼らを忘れ、不平等な関係を強いている。
  • 優しさに潜む自己欺瞞: おもちゃを次世代へ譲る感動的な行為は、人間が「見捨てた罪悪感」から逃れるための儀式でもある。
  • 必要とされたがる悲哀: 自由な生き方を選んだはずのウッディでさえ、「誰かのために生きる」という依存からは逃れられない。

誰かに握られてしまっている「存在価値」

夕暮れの子供部屋の床に座るカウボーイ人形とベッドに立つ宇宙飛行士のおもちゃ。文字内容:「「誰かに必要とされる」ということ」

ナンバーワンの座を奪われること以上の恐怖

第1作において、ウッディはアンディの一番のお気に入りだった。ベッドの上にはウッディが置かれ、おもちゃたちの中ではリーダーのような立場を与えられている。

ところが、新しい誕生日プレゼントとしてバズ・ライトイヤーが現れたことで、その立場は急速に失われていく。アンディはバズに夢中になり、部屋の飾りつけまで西部劇から宇宙を題材としたものへ変わってしまう。

ウッディはバズに激しい嫉妬を抱くわけだが、単に自分より人気のあるおもちゃが気に入らなかったというだけではないだろう。

ウッディが恐れていたのは、アンディの世界に自分が必要なくなることだった。

アンディに選ばれ、遊ばれ、必要とされている。だからこそウッディは、自分が価値あるおもちゃだと信じることができる。

逆に言えば、アンディが自分を選ばなくなった瞬間、ウッディは何を根拠に自分の価値を信じればよいのか分からなくなる。

バズが奪ったように見えたのは、ベッドの上の場所やリーダーとしての地位だけではない。ウッディがウッディであるための根拠そのものだった。

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自分がいなくても回る世界」を突きつけられる残酷さ

ウッディが抱いた恐怖の構造は、人間社会にも存在している。もちろん、人間は誰かに所有され遊ばれる対象ではない(と思いたい)のだが、類似の恐怖は確かに存在している。

職場や学校、家庭やコミュニティの中に新しい誰かが現れ、それまで自分が担っていた役割を簡単に果たしてしまう。周囲から必要とされていた人間が、「自分がいなくても何も困らないのではないか」と感じることは珍しくない。

特に、自分の価値を「何ができるか」「誰の役に立っているか」によって支えてきた人間にとって、役割を失うことは単なる環境の変化ではない。自分自身の価値を否定されたような出来事になる。

ウッディがバズに対して抱いた嫉妬も、それとよく似ている。

自分より新しく、目立ち、多くの機能を持つ存在が現れたことで、アンディの世界における自分の役割が失われることを恐れたのである。

ウッディが恐れていたのは、お気に入りの順位が下がることではなく、自分が役に立たない存在になることだった。

だからこそ、第1作におけるウッディの葛藤は、おもちゃだけの特殊な問題には見えない。

誰かに必要とされることで自分の価値を保ってきた人間が、その役割を奪われそうになったときに抱く不安が、ウッディというおもちゃを通して描かれているのである。

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アイデンティティを支えていた「虚構の物語」

一方、バズ・ライトイヤーは、自分の価値をアンディとの関係によって決めていない。

そもそもバズは、自分をおもちゃだと認識しておらず、本物のスペースレンジャーとして宇宙の平和を守るために派遣された特別な存在だと信じている。

大量生産された玩具が、自分だけは本物の英雄だと思い込んでいるのだから、その姿は随分と滑稽である。

しかし、その勘違いがバズに圧倒的な自信を与えていることも事実だった。自分には使命があり、目の前の困難を乗り越える力があると疑っていないからこそ、彼は迷うことなく行動できる。

ところがバズは、自分と同じ姿をした玩具がテレビで宣伝されている映像を目にする。自分だけのものだと思っていた装備も設定も、すべて同じ商品に備わっており、さらに自分が空を飛べないことまで知ってしまう。

このときバズが失ったのは、間違った知識だけではない。

自分には価値があると信じるために必要だった物語を失ってしまったのである。

バズは真実を知ったことで現実的になったのではない。自分が何者なのか分からなくなり、以前のように行動することさえできなくなる。

その後、足の裏に書かれたアンディの名前を見ることで、自分は宇宙を救う英雄ではないが、アンディにとっては大切なおもちゃであることを知る。

こうしてバズは、誇大な自己像を捨て、現実の自分を受け入れていく。

ただし、ここでバズが手に入れた価値もまた、アンディとの関係の中にある。

「自分は特別な存在だから価値がある」という物語を失い、「アンディに必要とされる自分には価値がある」という新しい物語を手に入れたのである。

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英雄の挫折と、等身大の自己受容という人間ドラマ

バズの物語もまた、おもちゃだけの話ではない。

人間も、自分には特別な才能や使命があると信じることで、困難へ立ち向かえることがある。その自信が事実に基づいているとは限らないが、行動するために必要な力となることはあるだろう。

しかし、現実の中で、自分が想像していたほど特別ではないと気づけば、それまでの自信を失い、自分の価値まで否定したくなる。

バズも、自分が本物の英雄ではないと知った瞬間、単なる玩具であるという事実だけではなく、「自分には何の価値もない」というところまで落ちてしまった。

しかし、本物のスペースレンジャーではないことと、価値がないことは同じではない。

飛ぶこともできず、大量に作られた玩具の一つであっても、アンディや仲間にとっては、他の何かに置き換えることのできない存在である。

誇大な自己像を失い、それでも自分にはできることがあると知る。

バズの変化は、自信を失ったおもちゃが立ち直る話であると同時に、理想化された自分を手放し、等身大の自分の価値を発見する人間の成長でもある。

ウッディは、新しい存在によって居場所を奪われる恐怖を経験した。

バズは、自分が特別ではないと知り、理想の自分を失った。

彼らが経験していることは、社会や周囲との関係の中で自分の価値を見つけようとする、人間自身の葛藤とほとんど変わらないのである。

永遠の愛を捧げるおもちゃと、いつか忘れる人間

夕日が入る子供部屋のラグの上に置かれた、おもちゃが詰まった段ボール箱。文字内容:「人間の愛情には終わりがある」

人間にとっての当たり前が、おもちゃを深く傷つける

「トイ・ストーリー2」では、子どもに必要とされる幸福と、その幸福が永遠には続かないという事実が描かれる。

ジェシーは、かつてエミリーという少女に大切にされていた。いつも一緒に遊び、どこへ行くにも連れて行ってもらった。

しかし、エミリーは成長し、興味の対象も変わっていく。

ジェシーはベッドの下へ落ち、長い間放置されることになった。そして久しぶりに箱から出されたとき、待っていたのは再び遊んでもらう時間ではなく、寄付箱へ入れられるという別れだった。

人間の側から見れば、特別に残酷な話ではない。

子どもが成長し、おもちゃで遊ばなくなるのは普通のことであり、エミリーがジェシーを憎んだわけでもなければ、過去の時間が嘘だったわけでもない。

それでも、ジェシーにとっては、自分を愛していた子どもに捨てられたことになる。

人間にとっての「成長」が、おもちゃにとっては「裏切り」になる。

このどうしようもない食い違いが、おもちゃと人間の関係には最初から存在している。

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いつか捨てられる結末を引き受ける「無償の愛」

「トイ・ストーリー2」においてウッディには、アンディのもとへ戻らないという選択肢があった。

博物館へ行けば、壊されることも、汚されることもない。アンディに飽きられることもなく、ウッディという貴重なおもちゃとして永遠に大切にされる。

しかも、ジェシーの過去を知ったウッディは、アンディとの関係にも必ず終わりが訪れることを理解している。

アンディも成長し、いつか自分で遊ばなくなり、ウッディを必要としなくなる。

それでもウッディは、博物館ではなくアンディのもとへ帰る。永遠に保存されることよりも、限りある時間の中で子どもに必要とされることを選ぶ。

これは間違いなく美しい選択である。

しかし、人間の側から見ると、あまりにも都合が良い。

人間は必ず成長し、おもちゃを忘れる。それでもおもちゃは、その結末を理解したうえで人間の側へ帰ってきてくれる。

人間の愛情には終わりがある。一方、おもちゃの愛情には終わりがない。

この不平等な関係を、おもちゃの側がすべて引き受けてくれているのである。

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普通に成長しただけ」という悪意のない裏切り

そして「トイ・ストーリー3」では、ついにアンディ自身が成長し、ウッディたちで遊ばなくなっている。かつてアンディの生活の中心にいたおもちゃたちは、屋根裏へしまわれるのか、ゴミとして捨てられるのかを待つ存在となった。

しかし、アンディは何も悪いことをしていない。ウッディたちを嫌いになったわけでもなければ、彼らと遊んだ時間を否定したわけでもない。ただ、成長し、遊ばなくなったのである。

だからこそ、この問題は厄介なのだと思う。

おもちゃを忘れる人間が悪人なら、簡単に責めることができる。しかし、アンディもエミリーも、普通に成長しただけだった。

人間が悪いわけではない。それでも、おもちゃの側から見れば、自分が必要とされなくなったという結果は変わらない。

悪人が存在しないにもかかわらず、おもちゃは傷つく。

そこに、「トイ・ストーリー」が描く人間の罪があるのではないだろうか。

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誰かに必要とされたいという人間社会の普遍的な欲求

ウッディやジェシーだけではない。「トイ・ストーリー」のおもちゃたちは、一貫して「必要とされなくなること」を恐れている。

遊ばれなくなること、箱の中へしまわれること、捨てられること。それは、おもちゃとしての役割を失い、子どもの世界から切り離されることを意味する。

この恐怖もまた、人間社会の中に存在している。

人間にも、誰かの役に立ちたいという欲求がある。家庭や職場、友人関係や地域社会の中で、自分には何らかの役割があり、自分がいることで誰かが助かっていると感じたい。

反対に、何の役にも立っていない、自分がいなくても誰も困らないと感じることは、自分の存在そのものを否定されたような苦しさにつながる。

仕事を失うことや、年齢によって以前の役割を果たせなくなることがつらいのも、収入や能力だけの問題ではないだろう。

自分が所属していた場所から、「もう必要ではない」と判断されたように感じるからである。

おもちゃが捨てられることを恐れる姿には、社会やコミュニティから役立たずと判断され、居場所を失う人間の恐怖が重なっている。

だからこそ、ウッディたちの葛藤は、現実には心を持たないおもちゃの話でありながら、私たちにとって他人事にはならない。

誰かに必要とされたい。自分の役割を持ちたい。自分がここにいてよい理由を知りたい。

おもちゃたちが子どもに求めているものは、人間自身が社会や周囲の人々に求めているものと、それほど大きく違わないのである。

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映画を観る者が直面させられる現実の罪悪感

トイ・ストーリーシリーズを見ている私たちは、当然のようにウッディたちへ感情移入する。忘れられたジェシーに同情し、捨てられそうになるおもちゃたちを心配し、子どものもとへ帰ろうとするウッディを応援する。

しかし、現実の私たちはウッディの側ではない。

アンディやエミリーの側にいる。

私たちも、新しいおもちゃに夢中になり、古いおもちゃで遊ばなくなった。箱にしまい、そのまま忘れ、引っ越しや片づけの際に捨てたこともあるだろう。

もちろん、現実のおもちゃに心があるわけではない。しかし、「トイ・ストーリー」は、おもちゃにも心がある世界を描いてしまった。

人間がいないときにも、おもちゃは持ち主を思い続けている。遊ばれなくなった理由に悩み、それでも再び必要とされることを願っている。

その姿を知ってしまった以上、私たちは自分がかつておもちゃにしたことを、おもちゃの側から考えずにはいられない。

これは現実には存在しない罪である。

しかし、映画を見ている間だけは、私たちは間違いなく、自分を愛し続ける存在を忘れてしまった人間なのである。

譲渡という美しい儀式に潜む「自己欺瞞」

夕日に照らされた床に置かれたおもちゃ入りの段ボール箱と伏せられた写真立て。文字内容:「善意とエゴの同居」

感動的な別れが本質的な問題を先送りしている事実

「トイ・ストーリー3」の最後で、アンディはウッディたちをボニーへ譲る。アンディは、おもちゃを一つひとつ紹介し、どのような性格で、どれほど大切な存在なのかをボニーに伝えていく。そして最後には、もう一度彼らと遊ぶ。

この場面が感動的であることは間違いない。

アンディはおもちゃをゴミとして捨てず、自分が遊べないのであれば、別の子どもに遊んでもらえる場所へ送り出した。

人間にできることとしては、最良に近い選択だったと思う。

しかし、だからといって、人間とおもちゃの間にあった問題が解決したわけではない。

ボニーもいつか成長し、ウッディたちは、もう一度必要とされなくなるかもしれない。

アンディからボニーへ持ち主が変わったことで、おもちゃの未来が救われたのではなく、同じ問題が先送りされたとも言える。

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罪悪感をきれいに消し去るための「儀式」

アンディがおもちゃをボニーへ譲ったのは、間違いなく優しさからである。ウッディたちに、これからも誰かと遊び続けてほしいと願っていた。

その一方で、おもちゃを誰かへ譲るという行為には、人間側の罪悪感を処理する働きもあるように思える。

自分はおもちゃを捨てていない。次の子どもへ大切に引き継いだ。だから、彼らを見捨てたわけではない。

そのように考えることで、人間は少しだけ安心することができる。

これは、アンディの優しさが嘘だったという話ではない。

おもちゃを救いたいという思いと、自分が罪悪感から救われたいという思いは、同時に存在できるという話である。

人間の行動は、それほどきれいに一つの理由へ分けられるものではない。善意には、自分を守る気持ちが混ざることがある。逆に、自分を守るために行ったことが、誰かを本当に救うこともある。

アンディの選択も、その両方だったのではないだろうか。

アンディはウッディたちを見捨てたわけではない。しかし、彼らを手放したことも事実である。

おもちゃを譲る行為は、美しい救済であると同時に、「自分は捨てていない」と人間が信じるための儀式でもある。

依存と自立の狭間で揺れるおもちゃたちの選択

半開きのドアから覗く、夕日が差し込む子供部屋と床に置かれたおもちゃ箱。文字内容:「「幸福のカタチ」とは?」

アンディから引き継がれた「いずれ遊ばれなくなる」宿命

「トイ・ストーリー4」では、ウッディはボニーからほとんど遊びに選ばれなくなっている。アンディが大切にしてほしいと頼んだにもかかわらず、ボニーはウッディをクローゼットへ置き去りにしているため、その扱いに納得できないという意見が出るのも当然だと思う。

しかし、ボニーを責めることはできない。ボニーだけが特別に薄情だったわけではないからである。

アンディも、エミリーも、そして私たちも、かつてはおもちゃを心から愛していた。そして成長や環境の変化によって、特定のおもちゃで遊ばなくなった。ボニーにも、まったく同じことが起こっただけである。

むしろボニーは、これまで描かれてきた人間とおもちゃの関係を、もう一度正確に繰り返している。

子どもはおもちゃを愛する。しかし、その愛情を永遠に維持することはできない。

ボニーは以前の世界観を壊したのではなく、そこに最初から存在していた人間の罪を、再び表面へ出したということになるだろう。

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人間の都合で作られ「存在価値」を決定されるいびつさ

そんなボニーが、先割れスプーンやモールを使って作ったのがフォーキーである。

フォーキーは、自分をおもちゃだとは思っていない。自分はゴミであり、ゴミ箱に入ることこそが自然な状態だと考えている。

しかし、ボニーはフォーキーを大切なおもちゃとして扱う。そしてウッディも、ボニーがフォーキーを必要としているという理由から、何度逃げ出しても彼を連れ戻す。

ここには、何やら奇妙な状況がある。

フォーキー自身は「自分はおもちゃではない」と主張している。それにもかかわらず、ボニーが必要としているからという理由で、ウッディは彼をおもちゃとして生きさせようとする。

人間が必要としているから、お前はおもちゃである。

少々乱暴に言えば、ウッディの主張はそういうことになる。

もちろん、ウッディはボニーのために行動している。フォーキーがいなくなればボニーが悲しむことを知っているから、何度でも危険を冒して連れ戻そうとする。その姿は、これまでと同じように献身的である。

しかし同時に、ウッディは自分が信じてきた「おもちゃの幸福」を、フォーキーにも強く求めているように見える。

子どもに必要とされ、子どものために生きることは素晴らしい。だから、お前もそのように生きるべきである。

ウッディの善意は本物だと思う。その一方で、善意であるからこそ、自分の価値観を押しつけていることに気づきにくい。

このあたりは、なかなかに残酷で面白いところである。

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必要とされたがるウッディ

さらに考えると、ウッディがフォーキーへ執着する理由は、ボニーのためだけではないようにも見える。ウッディ自身は、すでにボニーから必要とされなくなりつつある。

しかし、ボニーが必要としているフォーキーを守ることができれば、間接的にボニーの役に立つことができる。遊びに選ばれなくても、自分にはまだ役割がある。

フォーキーを守るウッディは、ボニーを助けると同時に、自分にはまだ価値があると確認しているようにも見える。

第1作で、ウッディはバズに自分の役割を奪われることを恐れた。「2」では、永遠に保存されることより、アンディに必要とされることを選び、「3」では、アンディに遊ばれなくなっても最後まで彼への忠誠を失わなかった。

そしてボニーに遊ばれなくなった後も、彼は誰かのために働く役割を探し続けている。

このように考えると、ウッディは単に献身的なのではない。

ひどく必要とされたがっている。

誰かの役に立つことによって、自分には価値があると信じたい。

これはウッディの美徳である。誰かが困っていれば、自分が傷つくことも恐れずに助けようとする。

その一方で、誰にも必要とされない自分を受け入れることができないという、ウッディ自身の弱さでもある。

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別の生き方をするボー・ピープ

ボー・ピープは、そんなウッディとは異なるおもちゃの生き方をしている。彼女は特定の子どもの所有物ではなく、一つの部屋で持ち主が遊んでくれる日を待ち続けるのではなく、自分で移動し、自分の意思で行動している。

ただし、子どもとの関係を完全に捨てたわけでもない。遊園地では、景品のおもちゃが子どもの手に渡るのを助けている。

子どもと遊ぶことを否定したのではなく、特定の一人に所有されることだけを、おもちゃの唯一の幸福とは考えていないのである。

この生き方には、間違いなく魅力がある。持ち主に選ばれなくなったからといって、自分には価値がないと思う必要はなく、次の子どもが現れるまで箱の中で待ち続ける必要もない。

ただし、ボーの生き方がすべてのおもちゃにとっての救いかというと、そうでもないと思う。

一人の子どもに必要とされることを幸福と感じるおもちゃもいれば、特定の持ち主を待ち続けたいおもちゃもいるだろう。

ここで示されたのは、救いではない。それまで絶対的だった生き方の隣に、別の可能性が置かれたということになる。

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誰かを助けることでしか自分の価値を保てない悲哀

物語の最後で、ウッディはボニーのもとへ帰らず、ボー・ピープとともに残る。結果だけを見れば、ウッディは一人の子どもに所有される生き方をやめ、自由を選んだようにも見える。

しかし、ウッディは、自分の幸福を優先してボニーのもとを離れたのではない。彼は、より過酷な状況にいる仲間のもとにいることを選んだのではないだろうか。

ボニーの部屋には、バズやジェシーをはじめとした多くの仲間がいる。ウッディがいなくても、ボニーを支えるおもちゃは残っている。

一方、遊園地には、子どもに出会う機会すら与えられないおもちゃたちがいる。

ウッディが選んだのは、「誰にも所有されない人生」ではない。

自分をより必要としている存在のそばにいることだった。

つまりウッディは、必要とされることから解放されたわけではない。一人の子どもに必要とされるおもちゃから、多くの迷子のおもちゃに必要とされるおもちゃへと、役割を変えたのである。

自己犠牲をやめたのではない。自己犠牲を続けることのできる、新しい場所を見つけた。

なかなかにシビアな結論だが、最後までウッディらしいとも言えるだろう。

身勝手な私たちをそれでも愛し続ける彼らへ

窓から差し込む夕日に照らされた、カウボーイハットなどのおもちゃが詰まった段ボール箱と散らばる本やクレヨン。

「トイ・ストーリー」のおもちゃたちは、子どもに必要とされることを幸福としている。その姿は美しいが、同時に自己犠牲的であり、人間にとって都合のよい価値観でもある。

子どもはおもちゃを愛する。しかし、成長すれば遊ばなくなり、最後には手放してしまう。それでも、おもちゃの側は子どもを愛し続ける。

だからこそ私たちは、ウッディたちの姿に感動する。そして同時に、自分たちが忘れてきたおもちゃのことを思い出し、罪悪感を抱く。

おもちゃを誰かへ譲れば、少しだけ安心できる。自分は捨てたのではない。次の子どもへ託したのだと考えることができる。

それは本当の優しさでもあり、同時に、人間が自分を許すための欺瞞でもある。どちらか一方だけではなく、優しさと欺瞞は同じ行為の中に存在できる。

そして、おもちゃたちの姿が私たちの心を動かすのは、かつて自分が持っていたおもちゃを思い出すからだけではない。

新しい存在に役割を奪われるウッディ、自分が特別ではないと知って自信を失うバズ、必要とされなくなることを恐れるジェシーたちは、そのまま人間社会の中で生きる私たちの姿でもある。

誰かの役に立つことによって自分の価値を確かめ、役割を失えば居場所まで失ったように感じる。

おもちゃたちが抱える葛藤は、人間が社会やコミュニティの中で抱えている葛藤を、より純粋な形で表している。

また、子どものために生きるおもちゃもいれば、特定の持ち主を持たずに生きるおもちゃもいる。どちらかだけが正しいわけでもない。

そしてウッディは、別の生き方へ進んだように見えながら、結局は誰かのために自分を差し出すことをやめていない。

彼の献身は美しい。しかし、誰かに必要とされなければ自分の価値を信じられないのだとすれば、それはひどく切ない。

おもちゃは子どもを愛し、子どもはおもちゃを忘れる。

その関係は、人間にとってひどく都合がよい。しかし、その都合のよさを理解してもなお、おもちゃたちの献身を美しいと思わずにはいられない。

「トイ・ストーリー」は、この矛盾をきれいに解決してくれない。人間を悪人として裁くこともなければ、おもちゃの自己犠牲を完全な正義として描くこともない。

子どもに必要とされる幸福を描きながら、その幸福が人間の都合によって決められていることも示す。別の生き方を提示しながら、それまでの献身を間違いとして捨てることもしない。

美しい愛情と、その愛情に甘える人間の身勝手さを、矛盾したまま同じ世界に置いている。

私たちは、おもちゃたちに愛されながら、その愛情に最後まで応えることができない。それでも彼らは、私たちを愛し続けてくれる。

さらに、おもちゃたちが必要とされることを求める姿の中に、社会の中で居場所と役割を求める自分自身の姿まで見つけてしまう。

その都合がよく、残酷で、どうしようもなく人間的な関係を描いているからこそ、「トイ・ストーリー」はおもしろいのである。

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