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千と千尋の神隠し】千尋はなぜ豚の中に親がいないとわかったのか-苦団子の謎を添えて-

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「千と千尋の神隠し」は2001年に公開された宮崎駿監督による劇場用長編アニメーションである。公開当時は中学生くらいだったと思うが、何かしらの感想を持てずに終わった記憶がある。結果的に記録的なヒットを記録することになるのだが、私自身は一度しか劇場に足を運んではいない。

ではつまらなかったのかと言われるとそうでもなく、なんとも不可思議な作品だった。結局のところ色々なことが分かりやすく描かれていないので、自分なりのおもしろポイントを色々考えながら探さなくてはいけない作品なのだと思う。

そんな「千と千尋の神隠し」には多くの人がぶち当たった共通の謎があるのも事実であったのではないかと思う。今回はその1つ、「千尋はなぜ豚の中に親がいないと分かったのか問題」について考えていこうと思う。。私自身も所見の頃から疑問を抱き、ずいぶん長いこと理由を探し続けていた。最終的には「言葉遊び」をすることによって自分なりの納得を得たので、それについて書いていこうと思う(ただ、結論は一つではない)。また、不可解なのに見て見ぬ振りをしている謎の「苦団子」についても考えてみる。

もちろんこの作品は「千尋の成長物語」なので、千尋の成長について振り返りながら、最終的な結論にたどり着こう。


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千と千尋の神隠し」における千尋の「成長」と豚小屋の夢

ぶーたれる千尋とアクセルを踏む父

「千と千尋の神隠し」という作品の秀逸さの一つはオープニンにあると個人的には思っている。つまり、車の中でぶーたれている千尋である。

私は転校をした経験がない。そういう私にとって「転校」という現象は想像を絶する変化である(しかもそれは自分で選べるものではない)。何人もの転校生を自分のクラスメイトとして受け入れたが、新しい環境に適用していった彼には尊敬の念しかない。

そして、そういう私であるからこそ、車の中でぶーたれる千尋の姿を見たときに「そりゃそうだよな~」という不思議な「共感」を感じるのである。もちろん転校を経験したことがないので「共感」はおかしいのだが、自分ななりに「千尋の不満に寄り添おう!」という思いが生まれるのである。

しかしここで我々は、「ぶーたれている娘を背中に感じている両親」特に父親にも思いを馳せるべきである。

先述したように、我々は「ぶーたれている千尋」に感情移入をしているので、両親の言動がどうも鼻につく。しかし、両親だって転校が自分の子供に負担をかけることになることは百も承知である。転校までに千尋に何かしらの説明をしたはずなのである。千尋だってその時は「しょうがないね」と受け入れがたい現実を受け入れたに違いない。でもあの日、千尋はぶーたれたのである。

そのような状況下であの父親が何を考えただろうか。

あの父親が道を間違いながらも突っ走ったのは、彼が間抜けだからではなく、なんとかして空気を変えようとしたからに違いない(やはり罪悪感はあるからね)。

しかしながら、すでに「千尋側」に立っている我々は、「おい親父、何してんだよ」という思いに駆られるし、トンネルの先に突き進む両親の姿に「何やってんだよ」と不満を持ってしまうわけである。

こういった事実が一体何処に効いてくるのかというと、もちろん、両親が豚になってしまうシーンである。

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豚になった両親

「千と千尋の神隠し」を初めて見たときも、そして今に至っても、「店にある料理を勝手に食べる両親の姿」は見ていられない

「なんでそんなみっともないことができるんだ!」と見ていてい本当にしんどくなる。帰ろうと訴え続ける千尋の姿は本当に可愛そうだ。

しかしそのように思ってしまうのも、オープニングで巧妙に「千尋側」に「誘導」されているからだろう。そして結果的に我々は

「両親が豚になってしまうこと」を当然のこととして受け入れてしまう

実のところこのシーンで、映画を見ている我々と千尋との間に僅かなギャップが生まれている。豚を見た千尋がその事実をすぐに受け入れたかと言うとそうではなく、千尋は豚になった両親を見たあとに、両親を探すために走り出す

そりゃそうだ。

今まで自分の両親がいたところにどでかい豚がいれば、「両親が何処かへ行ってしまった」と考えるのが当然のことである。間違っても「あ、お父さんとお母さんが豚になっちゃった!」とは思うまい。つまり、

「2人の人間が豚になる」という現象を最初に否定したのは千尋

ということになる(その後にハクに対して「豚になんかなってないよね」と言ってしまうが)。でも我々には両親が豚になったように見えている。

我々がラストに納得できない理由の一端はこの辺にもあると思われる。

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戦利品「苦団子」

「両親が豚になる」というショッキングな事件の後、「自分が消えてしまう」というもっとショッキングな問題が発生するが、ハクの手助けでなんとか千尋は困難を乗り越えた。

このあと物語は「千尋がどうやってあの世界で生き抜くか」という方向にシフトするのだが、それは「我々の目線」であることを忘れてはいけない。千尋はまだ「両親を探す旅」の途中にいるのである。

何れにせよ、「両親豚化事件」のあと、「ハクの導き」、「釜爺の優しさ」、「リンの世話焼き」という奇跡を経て、千尋は湯婆婆に謁見し名前を奪われる。

名前を奪われたことによって晴れて油屋の一員となった千尋は、例の「腐れ神事件」と直面し、なんやかんやと頑張った結果として「苦団子」を手に入れることとなる。

もちろんあの「苦団子」は「人生の苦さ」の象徴であろう。千尋は、無意識であるが、「人生の苦さ」と「達成の喜び」を同時に得たのである。

しかし、以下のシーンによって、我々は「苦団子」が分からなくなる。

これは、銭婆のところに送り込まれたハクがボロボロになって帰ってきた後のシーンである。傷だらけのハクを見て、千尋は何故か苦団子をハクに食べさせる。

確かに川の神様からもらったものなのだから何かしらの効能があると「誤解」したのかもしれないのだが、結果的に効能があったように見える

それは千尋が望んだ効能ではなかったは思うが、なぜかわからないが湯婆婆がハクにかけていいた呪いが解けてしまったのである。

なぜこんなことが起こったのか?

これは完全に個人的な見解に過ぎないのだが、ハクの呪いが解けたのは「苦団子の効能」ではなくて「喉奥に腕を突っ込まれたから」だと思っている。つまりあのシーンは

何か効能があると信じて「苦団子」をハクに食べさせて、結果的にその効能によって何かが起こったように見えるのだが、実のところ喉奥に腕を突っ込まれて吐いただけ。

というシーンだったのではないだろうか。別の言葉でいうと「ハクが吐く」という「ユーモアシーン」だったのではなかろうかということである。

結局の所「自らの成長に無自覚な千尋」という存在をコミカルに描いたということになるだろう。このように考えれば「苦団子」を「人生の苦さの象徴」と思い続ける事ができるのではないだろうか。

さて、完全に話がずれてしまったのだが、ラストシーンとの関連という本筋に戻ると、重要なのは苦団子を手に入れた夜に見た夢である。

その夢の中で、千尋は豚小屋の中にいる大量の豚の中から親を見つけられずにいる。

あのシーンの布石は、「腐れがみ事件」の前に千尋がハクに連れられて豚小屋に連れて行ったときに遡る。そこでハクに目の前にいる豚が親であると告げられ、「もとに戻してあげるからね」と豚に伝えてその場を去る。

繰り返しになるが、苦団子を手に入れた跡に何故か千尋は豚の中にいるはずの両親を見つけられない夢を見る

さて、なぜだろうか。

長々と書いてきたが、次節で結論に辿り着こうと思う。

なぜ千尋は豚の中に親がいないと分かったのか

結論その壱:言葉遊び

では、最初の結論を述べると千尋が豚の中に親がいないと分かった理由は、親は豚ではないからである。

これが一番最初に述べた「言葉遊び」ということである。

数匹の豚の中から親を選べと言われているから問題が難しくなるのである。もしあのとき、世界中に存在しているすべての豚が千尋の目の前にいたとしたら、「この中から親を選べ」という質問は「お前の親は豚か?」という質問とも取れるだろう。数が多すぎて調べることなんてできないからね。

もちろんこの場合の「豚」は侮蔑用語としての「豚」である。したがって、もう1段質問を言い換えると「親の苦労も分からないくらいお前は子供かい?」と聞かれているということもできる。

しかし、苦団子という成功体験を経た千尋には、目の前の「豚」は親には見えないのである。

自分たちの都合で子供を転校させること、ブーたれている娘のためにアクセルを踏むこと、お腹が空いているであろう娘に何かを食べさせようとすること・・・

これらすべてのことが「親が子供を思うあまり」発生したことであることが分かるから、千尋は「この中に親はいない(私の親は『豚』じゃない)」という結論になるのである。

まり「親は『豚』ではない」という自明の理にたどり着くくらい成長した、ということである。しかしこれでは「最後の試練」の存在の理由付けにはならない。つまり。「千尋は何故最後の試練を受けなくてはならないのか」という疑問には答えられない。

これを理解するために重油なのは「契約」を結ぶことができるのはどう存在かということである。

もちろん、「契約」を結べるのは「大人」である。

現代社会は子供から人権を奪い、「契約の自由」を行使できないようにすることによって、頼まれてもいないのに「子供を保護」している。

逆に考えると「『子供』が誰かと『契約』すれば、それは『奴隷契約』になる」ということである。現代社会はそれを懸命に阻止しようとしている。

「千と千尋の神隠し」という作品で、千尋は「子供」として湯婆婆と「契約」をしているように見えるのだが、これは「契約」というよりは、向こうの言うことに従い続ける「奴隷契約」に近いということになる。

「契約」と「奴隷契約」の差は「契約解除かどうか」である。

「千と千尋の神隠し」の最後に、なぜ試練があるかといえば「『契約解除』できるのは『大人』だけなのだから、自分が『大人』であることを証明しなくてはならないから」ということになるだろう。

結果的に課された試練は先述の通り「親の苦労が分かるか?」であり、それに千尋は見事に答えた。だって親は「豚」ではないから。そういう結論そのものが、千尋が「大人」になった「証明」になり、結果的に「契約解除」を掴み取ったのである(「大人」だから)。

さて、個人的にはこのような考え方でラストを納得している。だが、別の見方があるのではないかとも思っている。

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結論その弐:社会の「幻惑」からの脱却

結論その弐も、その壱と決定的に変わるわけではないのだが、ニュアンスが少々ちがってくる。ただその弐のほうが長々書いてきた方向性に合致する。まず大事なのは、「千と千尋の神隠し」という作品中で「千尋の親が豚になった」と言い張っているのはハクと湯婆婆だけであるという事実である。

千尋は2人の証言をもとに親が豚になったと思い込んでいるに過ぎず、自分の目でその事実を確認したことはない。

ある意味では「素直」なのだけれども、「人に言われた事を鵜呑みにする」というのはまさに「子供」であることの証拠だろう。まだ「子供」である千尋は、あの不思議な世界で言葉匠に幻惑されている。

そしてラストで千尋はまた騙されそうになる。つまり、豚の中に親はいないのに、あたかも豚の中に親がいるかのように湯婆婆に思い込まされそうになっている。そして映画を見ている我々は見事に騙されるのだが、すでに「成長」した千尋は湯婆婆の「言葉」などには騙されず、「親は豚ではない」という自明に理にたどり着く。ある意味では千尋が初めて両親と思われる豚を見た瞬間に戻っているとも言える。あのとき千尋は両親が豚になったとは思わずに、両親を探しに走り出した。

「成長する」ということは自分の意思を明確に持てるよになることであり、物事を自分で判断できるようになるということであり、他人の言葉なんかに惑わされず事実に基づいて行動できるようになるということである。

したがってあの物語のメッセージがあるとすれば

「まだ未熟な子どもたちよ!君たちを取り巻く社会は言葉巧みに君たちを幻惑し、目の前にある事実から目を背けさせ、君たちから真の成長を奪う。結果的にカオナシみたいに体ばかり大きくなって自らの言葉で何かを語ることのできない気持ち悪い連中が量産されている。しかし君たちはそうなってはいけない!自ら動き、何かを経験し、苦い思いをしながらも少しずつ何かを達成し、社会の幻惑に打ち勝つ力を持とう!そのために何をすればいいかって?そんなもの決まってる・・・労働だ!」

ということだろうか。まったくもって労働礼賛映画である。

ここで終わりでも良いのだが、もう少しだけ考えてみよう。

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結論その参:騙されているのは我々見ている側

千尋は確かに周りの人間の「言葉」に翻弄されたのだけれども、実は映画を見ている側も同じである。俺たちは千尋の両親が豚になるシーンを見ていない。

宮崎駿の演出によって巧妙に「千尋側」に誘導され、「親が豚になる」という状況を簡単に受け入れられるようにさせられている。もちろんアニメだから受け入れられるのだけれども、宮崎監督の作り出した世界に迷い込み、見事に「幻惑」されたのではないだろうか。

そしてラストで千尋が湯婆婆の「幻惑」に打ち勝つということは、どういうことかと言うと

「皆様ご視聴ありがとうございます。今回私が作った不思議な世界はいかがだったでしょうか。面白かったと思っていただければ幸いですが、映画は映画でございます。千尋が湯婆婆に打ち勝ったように、皆様も延々と映画の世界にとらわれず、日常に復帰してください。映画は映画ですからね。」

ということになるだろう。不思議の世界に囚われていたのは千尋ではなく我々である。

ある意味では説教臭いが、これは「映画そのものが人々を幻惑する悪い側面をもっている」という事実の自己反省なのかもしれない。

そしてここでもう一度考えてみよう。本当に千尋の両親は豚になったのだろうか?

「千と千尋の神隠し」なのだから本来は千尋が一人で消えてしまわなくてはならない

あれでは「千と千尋とその両親の神隠し」である。

おそらく両親はあの世界に豚として存在していたのではなく、元の世界で千尋を探している。そして両親にとっては僅かな時間のうちに、千尋は帰ってきたのだ。

やはり我々はアニメーションという道具によって不思議の世界に囚われていたのである。ちょっと怖くてちょっと不思議な素晴らしい夏の映画だと私は思う

本編との整合性が取れていない部分おたくさんあったと思うが、ここで書いたことが、現状私がラストシーンについて考えていることの全てである。次は湯婆婆が名前を奪うことについて書こうかな。

この記事で使用した画像は「スタジオジブリ作品静止画」の画像です。


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北国出身横浜在住の30代独り身。日頃は教育関連の仕事をしていますが、暇な時間を使って好きな映画やアニメーションについての記事を書いています。利用したサービスや家電についても少し書いていますが・・・もう崖っぷちです。孤独で死にそうです。でもまだ生きてます。だからもう少しだけ生きてみます。
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