「トイ・ストーリー5」は、昔ながらのおもちゃが、タブレット型デバイスに居場所を奪われる物語として始まる。

ジェシーたちは、画面越しの交流を「本当の遊び」とは認めない。一方のリリーパッドは、ジェシーたちとの遊びにこだわることが、ボニーを同世代の子どもから孤立させていると考える。

しかし、最後まで見ると、両者はそれほど違わない。

ジェシーもリリーパッドも、ボニーを愛し、自分の力で幸せにしたいと願っている。子どもに必要とされることを望み、役に立てなくなることを恐れているのである。

今作で最も孤独だったのは、友達のいなかったボニーだけではない。

誰よりも人と人をつなぐことができながら、自分の失敗を相談できる相手を一人も持たなかったリリーパッドこそ、最も孤独な存在だった。

その一方で、「トイ・ストーリー5」は、シリーズの限界もはっきりと見せている。おもちゃと子どもの基本的な物語は、すでに「3」まででほとんど語り終えられているからである。

今回は、デバイス批判の裏側にあるリリーパッドの孤独と、年を取ったウッディに重なるシリーズ自身の加齢について考えていきたい。

ネタバレを避けて、作品の評価や見るべきかだけを確認したい方は、トイ・ストーリー5」のネタバレなしレビューをご覧ください。

以下ネタバレについては一切気にしない文章となっているので、未視聴の方は注意してください。

スポンサーリンク
  • デバイスの悪役化: ボニーが他人の視線を知り、自分の好みを恥じる過程を、リリーパッドが分かりやすく悪役として引き受けている。
  • おもちゃとデバイス: 子どもを愛し、役に立ちたいという点で、両者に本質的な違いはない。
  • 新参者の孤独: 第1作が居場所を奪われる旧勢力の恐怖なら、「5」は旧勢力から拒絶される新参者の苦しみを描く。
  • 人間に都合のよい救済: エミリーがジェシーを忘れていなかったという決着には、人間側の罪悪感も透けて見える。
  • シリーズの限界: 新しい題材を扱いながら、物語の中心はおもちゃそのものから、人間社会の問題へ移りつつある。

悪役」を引き受けさせられた「デバイス」

暗い部屋で光るタブレット画面に夢中になっている子どもたちを、手前に並んで背後から見つめるテディベアやロボットなどのおもちゃたち。文字内容:「話は分かりやすくなる」

ジェシーが守ろうとした「本当の遊び」

物語の冒頭で、ボニーは変わらずジェシーやバズたちと遊んでいる。しかし、同世代の子どもたちは、昔ながらのおもちゃよりも、パソコンやタブレットなどのデバイスへ関心を移していた。

そのため、想像力を使ったおもちゃ遊びを好むボニーは、クラスメートとの共通の話題を持てずにいる。

そんなボニーを心配した両親が与えたのが、タブレット型デバイスのリリーパッドである。ゲームやチャットを通じて、同世代の子どもと交流できる機器だった。

ジェシーたちは、この新しい存在へ強い危機感を抱く。

子どもが一つの場所に集まり、同じ物語を想像しながら遊ぶ。ジェシーたちにとって、それこそが本当の遊びである。

実際、チェルシーの家でのお泊まり会では、子どもたちが同じ部屋にいるにもかかわらず、それぞれのリリーパッドを見つめている。

この光景だけを切り取れば、今作は非常に分かりやすい文明批判に見える。

画面に夢中になる現代の子どもたちは、目の前にいる相手とも遊べなくなった。昔ながらのおもちゃは、失われた想像力や人間関係の象徴である。

いかにも正しそうな構図である。

スポンサーリンク

リリーパッドもボニーを助けたかった

しかし、リリーパッドにも言い分がある。

ジェシーたちは、ボニーと楽しく遊ぶことはできる。しかし、学校で同世代の友達を作ってあげることはできない。

ボニーが孤独なのは、昔ながらのおもちゃとの遊びだけを大切にし、同世代の子どもが共有している新しい遊び方から距離を置いているからではないか。

リリーパッドはそう考え、チェルシーへ友達申請を送る。

その行動によって、ボニーはクラスメートとの交流を始め、お泊まり会にも招待された。少なくとも、ボニーと同世代の子どもをつなぐという目的は果たしている。

ジェシーもリリーパッドも、ボニーを孤独から救いたかった。

違っていたのは愛情ではない。自分の知っている方法だけが、ボニーを幸せにできると信じていたことである。

スポンサーリンク

ボニーの「恥ずかしさ」はデバイスのせいだったのか?

チェルシーの家へ向かう車の中で、ボニーはジェシーとブルズアイをクラスメートに紹介する。

しかし、返ってきたのは「まだそんなもので遊んでいるのか」という冷たい反応だった。

ボニーは傷つき、ジェシーたちを車へ放り出す。さらに、ブレイズとおもちゃで遊んでいる写真がチャット上で共有されると、再び「子どもっぽい」と笑われてしまう。

その結果、ボニーは本心ではないにもかかわらず、ジェシーたちをブレイズへ譲ろうとする。

確かに、リリーパッドのチャット機能が、他人の嘲笑を広げたことは間違いない。ボニーは自宅に戻っても、クラスメートの視線から逃れられなかった。

しかし、好きなものを他人に笑われ、急に恥ずかしく感じる経験は、デバイスによって初めて生まれたものではない。

子どもが自分だけの世界を出て、社会や共同体へ入っていけば、必ず他人の価値観に触れる。自分にとって大切なものが、別の誰かにとっては幼稚に見えることも知る。

それは寂しい変化である。しかし、子どもが世界を広げるうえで、ある程度は避けられない成長でもある。

リリーパッドがボニーに羞恥心を与えたのではない。他者の視線を知るという成長を、デバイスが分かりやすく悪役として引き受けただけである。

いつかボニーも、昔ながらのおもちゃで遊んでいたことは、別に恥ずかしくなかったと振り返るだろう。

しかし、その地点へ進むためには、まず「自分と違う感覚を持つ他人がいる」と知らなければならない。

リリーパッドは、その少々残酷な入口として、実に都合よく使われているのである。

デバイスもまた、子どもを愛するおもちゃだった

蜘蛛の巣が張る薄暗い場所に置かれたテディベアやロボットなどの古いおもちゃたちとタブレット端末。文字内容:「結論は「よくある話」」

スマーティー・パンツたちが証明したこと

ジェシーは当初、リリーパッドをはじめとするデバイスを、自分たちとは異なる存在として扱っている。

画面を通じて人をつなぐリリーパッドはもちろん、トイレトレーニング用のスマーティー・パンツ、デジタル地図のアトラス、写真を撮影できるスナッピーも、昔ながらの人形やぬいぐるみとは異なる。

しかし、ブレイズの家で彼らと接するうちに、ジェシーはその認識を改めていく。

スマーティー・パンツたちも、かつてブレイズに必要とされていた。自分の機能で子どもを助け、共に過ごした時間を大切にし、遊ばれなくなった後も再会を待っている。

電池が切れ、物置に放置され、役割を失ったことを寂しく思っている。

それは、ジェシーたちが繰り返し経験してきた感情と同じである。

電池やバッテリーで動いているだけで、彼らもまた子どもを愛し、必要とされたいと願うおもちゃだった。

古いおもちゃと新しいデバイスの対立は、素材や機能の違いを、本質的な違いだと思い込んだことから生まれている。

スポンサーリンク

フォーキーの次に残されていた題材

「トイ・ストーリー4」では、先割れスプーンやモールから作られたフォーキーが登場した。

既製品として販売されたものだけがおもちゃなのではない。子どもが愛し、遊び相手として必要とすれば、ゴミとして捨てられるはずだったものもおもちゃになる。

「5」に登場するデバイスは、その発想の延長にある。

タブレットやデジタルカメラ、GPS機器のような存在も、子どもが遊び、思い出を作るのであれば、おもちゃになり得る。

「4」で手作りの工作物までおもちゃの範囲を広げた以上、次に残されていたのは、電子機器だったのかもしれない。

まだ描いていない種類のおもちゃを登場させれば、新しい物語になる。

身も蓋もない言い方をすれば、そのようなシリーズ運営上の発想も透けて見える

スポンサーリンク

結局は「使い方次第」という正しい結論

今作がデバイスについて出した結論は、極めて常識的である。

デバイスには悪い側面もある。しかし、人と人をつなぐ力もある。

リリーパッドのチャット機能はボニーを傷つけた。一方で、ボニーとブレイズが出会うために、リリーパッドやスマーティー・パンツたちの通信機能は欠かせなかった。

つまり、デバイス自体が善でも悪でもなく、使い方や関わり方に問題がある。

あまりにもよくある結論である。

しかし、実際にその通りなのだから仕方がない。正しすぎる結論は、ときに少々退屈なのである

第1作のバズと「5」のリリーパッド

月明かりと星型のランプが照らす夜の子供部屋で、円形ラグの上に集まるぬいぐるみやロボットなどのレトロなおもちゃたちと、それに向き合うように置かれたタブレット端末。文字内容:「同じ事件の二つの側面」

新参者に居場所を奪われるウッディ

第1作のバズ・ライトイヤーも、アンディの部屋へ突然現れた新参者だった。

最新型の宇宙玩具であるバズは、アンディの興味を一瞬で引きつける。それまで一番のお気に入りだったウッディは、自分の地位や役割を奪われることを恐れた。

第1作で描かれたのは、新しい存在によって、自分の居場所を奪われる旧勢力の恐怖である。

ただし、ウッディ以外のおもちゃたちは、バズを比較的早く受け入れている。

バズは自分をスペースレンジャーだと思い込んでいたが、外見や遊ばれ方は従来のおもちゃと大きく変わらない。アンディに手で持たれ、空想の物語の登場人物になる玩具である。

実のところウッディだけが「アンディの一番」という場所を奪われる恐怖を抱いていたとも言える

スポンサーリンク

旧勢力から拒絶されるリリーパッド

リリーパッドは、その反対側にいる。

彼女もボニーの部屋へ突然現れた新参者である。しかし、今回は旧来のおもちゃたちの側が、新しい存在を最初から仲間として認めない。

子どもに直接持たれ、空想の役を演じるのではない。画面とネットワークを通じて、人間同士の関係を作る。

ジェシーたちから見れば、その機能は自分たちの役割を補うものではなく、子どもとの関係そのものを奪うものに見える。

第1作が新勢力に居場所を奪われる恐怖を描いたのに対し、「5」は旧勢力から不当に敵視される新参者の苦しみを描いている。「5」も旧勢力の恐怖を描いてはいるのだが、物語全体を見ればこのようになると思う。

リリーパッドは、ボニーの役に立とうとしている。それでも、関わり方が違うという理由だけで、おもちゃたちの共同体へ入ることができない。

リリーパッド自身も仲間になろうとしなかった

もっとも、責任はジェシーたちだけにあるわけではない。

リリーパッドも、自分を古いおもちゃたちと同じ存在だとは考えていなかった。

自分にはネットワークがあり、ボニーへ新しい人間関係を与えられる。ジェシーたちの遊び方は古く、ボニーの孤独を解決できない。

その自負が、リリーパッドをジェシーたちから遠ざけていた

旧勢力は新参者を理解せず、新参者も旧勢力から学ぼうとしない。

新しい環境で関係を築く難しさは、常に双方の思い込みによって悪化するのである

忘れられていなかった」という事実は、誰を救ったのか

夕暮れの光が差し込む大きな木の根元に座る古い人形と、写真やテディベアが詰まった開かれた木箱。傍らには古い本が置かれ、奥には木に吊るされたブランコが見える。文字内容:「結局は罪悪感の解消?」

トイ・ストーリー2」から残っていたジェシーの傷

「トイ・ストーリー5」では、ジェシーがかつての持ち主であるエミリーの旧宅へ戻る。ジェシーにとって、エミリーとの別れは長い間消えることのなかった傷である。

かつては大切に遊ばれていた。しかし、エミリーの成長とともに忘れられ、最後には寄付品として手放された。その経験によって、ジェシーは子どもを愛しても、最後には捨てられるという恐怖を抱えるようになった。

今作では、ボニーから再び拒絶されたことで、その傷が開いてしまう。

しかし、エミリーとの思い出の木の下で、ジェシーは古い品々が収められた箱を見つける。そこに残された写真から、エミリーが娘にジェシーと同じ名前を与えていたことを知る。

自分は忘れられていなかった。

ジェシーはその事実によって、長年抱えてきた傷から救われる。

スポンサーリンク

それなら、もっと必死に探すべきではなかったか

感情的には、美しい場面である。

ジェシーは一方的に愛し、忘れられた存在ではなかった。エミリーの人生にも、ジェシーとの思い出が残り続けていたのである。

しかし、少々都合のよい決着にも見える。

娘に同じ名前を与えるほど大切だったのであれば、エミリーはもっと必死にジェシーを探すべきではなかったのか。もちろん、当時は子どもだったエミリーに、失われたおもちゃを探し続ける責任を負わせるのは酷である。

それでも、ジェシーが人間側の記憶によって救われる構図には、人間の願望が透けて見える。

おもちゃを捨てたり、失ったりしたけれど、本当は忘れていなかった。だから許してほしい。

エミリーがジェシーを愛し続けていたという事実は、ジェシーを救う。

同時に、おもちゃを手放した人間の罪悪感まで、きれいに救ってしまうのである。

穿った見方ではある。しかし、「トイ・ストーリー」が人間にとってあまりにも優しい物語であることも確かだろう。私たちはおもちゃに許してほしいのである

エミリーの記憶がジェシーだけでなく、おもちゃを手放した人間の罪悪感まで救ってしまう構造については、シリーズ考察①「依存、自己欺瞞、無償の愛」でシリーズ全体を通して考察している。

年を取ったウッディと、年を重ねたシリーズ

夕日が差し込む窓辺で外を見つめる古びた少年の人形と、背後の棚に並ぶロボットやタブレット端末などの新しいおもちゃ。文字内容:「「トイ・ストーリー」の限界」

薄くなった頭部の塗装と、膨らんだ腹

「トイ・ストーリー4」の時点で、ウッディはすでにアンディとの子育てを終えた祖父のような立場にいた。

一人の子どもの中心にいるのではなく、若いおもちゃたちへ経験を伝え、子どもとおもちゃの関係を支える側へ移っていたからである。

「5」では、その祖父らしさが外見にも表れている。

頭部の塗装は以前より薄くなり、人間で言えば薄毛のように見える。腹回りも膨らみ、作中では「メタボリック」と評されるほどである。

かつての保安官が、ついに頭髪と腹囲を気にされる年齢になった。

笑いとして処理される描写ではある。しかし、それは単なるキャラクターの老化ではない。

年を取ったウッディの姿は、そのまま長寿シリーズ自身の加齢と重なっている。

ウッディが「4」で親のような立場から祖父のような年長者へ変化し、「5」でもその役割を維持していることについては、親がなりたかった理想の親」と祖父になったウッディの考察で詳しく扱っている。

スポンサーリンク

基本的な「おもちゃの物語」は終わっている

「トイ・ストーリー5」においても、おもちゃと子どもの基本的な関係は変わっていない。

おもちゃは子どもを愛し、必要とされることを望む。一方で、子どもの成長によって遊ばれなくなることを恐れている。

それでも、子どもが困っていれば、自分が傷つく可能性を承知で行動せずにはいられない。

これは、第1作から繰り返し描かれてきた関係である。

リリーパッドやスマーティー・パンツたちが加わっても、その本質は変わらない。電子機器という新しい外見を与えられた存在が、古いおもちゃと同じ愛情と恐怖を持っていたというだけである。

その意味では、「5」が、おもちゃにとっての子どもというテーマへ新しい答えを提示したとは言いにくい。

「トイ・ストーリー3」までで、基本的な「おもちゃの物語」はほとんど語り終えられている。

スポンサーリンク

新しく描かれたのは人間社会の問題である

今作で新しく描かれたのは、むしろ人間側の問題である。

自分の好きなものを他人に笑われ、恥ずかしいと感じること。ネットワーク上の言葉によって、逃げ場なく傷つけられること。新しい集団の中で、自分の居場所や友達を見つけること。

ボニーの物語は、おもちゃとの関係以上に、他者の視線を知り、社会へ入っていく子どもの成長を描いている。

リリーパッドの物語も、新しい技術そのものより、共同体へ入れない新参者の孤独を描いたものだった。

どちらも普遍的で、意味のあるテーマである。

しかし、それは必ずしも、おもちゃでなければ描けない話ではない

シリーズを続けるために、「おもちゃとは何か」をデバイスまで広げ、人間社会の問題をおもちゃへ重ねる。

その工夫によって、今作も十分に面白い物語になっているが、それと同時に、そこまでしなければ新しい物語を作れないという限界も見えてしまうのである

本当に孤独だったのはリリーパッドだった

夜の屋外の寄付受付所で、段ボール箱の上にぽつんと座る手足の生えたタブレット端末と、奥の街灯の下で身を寄せ合う古いおもちゃたち。文字内容:「結論を一人でだしてはいけない」

愛すべき間抜けには仲間がいた

アンディのおもちゃたちは、これまで常に正しい行動を取ってきたわけではない。

第1作のウッディは、嫉妬からバズを排除しようとした。バズは自分が玩具だと知り、完全に自信を失った。

ほかのおもちゃたちも、誤解や恐怖から仲間を責め、何度も間違った判断をしている。

彼らは英雄である前に、失敗続きの愛すべき間抜けである。

私たちが映画として見てきたのは、その数多くの失敗の中で、最終的になんとか挽回できた事件にすぎないのかもしれない。

しかし、彼らには常に仲間がいた。

間違えれば誰かが止める。落ち込めば誰かが支える。一度失敗しても、一緒に別の方法を考えることができる。

失敗しないことが重要だったのではない。

失敗した後に、相談できる相手がいたことが重要だったのである。

スポンサーリンク

人をつなぐ機械は、自分自身をつなげなかった

リリーパッドは、ネットワークを通じて人間同士をつなぐことができる。

友達申請を送り、写真を共有し、離れた場所にいる人々のやり取りを可能にする。

しかし、彼女自身には仲間がいなかった。

ジェシーたちからは、自分たちの居場所を奪う敵として警戒されている。ボニーに対しては、自分が支える側であろうとするため、弱さや失敗を相談することができない。

ネットワーク上には無数の接続先がある。

それでも、自分の悩みを預けられる相手は一人もいなかった。

リリーパッドは他人を接続する機能を持ちながら、自分自身は誰ともつながっていなかった。

スポンサーリンク

一人で出した答えが「自分は消えるべきだ」だった

リリーパッドは、自分の機能によってボニーが傷ついたことを知る。

友達を作るためのチャットが、ボニーの好きなものを笑い、彼女を追い詰める場所になってしまった。

そこでリリーパッドは、誰かに相談するのではなく、自分はボニーのそばにいない方がよいと判断する。

そして、寄付品を運ぶトラックへ自ら飛び込む。

新しい持ち主を探したというより、自分の存在をボニーの生活から消そうとした、事実上の自決である。

彼女は一度失敗しただけだった。

ジェシーたちと同じように、失敗を認め、別の方法を考えればよかった。ボニーとブレイズをつなぐために、自分の機能を使い直すこともできた。

しかし、相談する相手がいなかったリリーパッドには、その可能性が見えなかった。

一人で悩み、一人で答えを決め、一人で行動してはいけない。

これこそが、「トイ・ストーリー5」の最も重要な主題だったのではないだろうか。

スポンサーリンク

同時に友達を見つけたボニーとリリーパッド

物語の最後で、ボニーはブレイズと出会う。

ブレイズもまた想像力豊かで、昔ながらのおもちゃとの遊びを心から楽しむ子どもだった。

ボニーは、自分の好きなものを恥じずに共有できる友達を見つける。

同時に、リリーパッドもジェシーやスマーティー・パンツたちと和解する。

古いおもちゃと新しいデバイスは、子どもを愛し、役に立ちたいという同じ願いを持つ仲間だったと理解する。

「トイ・ストーリー5」は、ボニーが友達を見つける物語である。

それと同時に、リリーパッドが自分の失敗を受け止め、一緒に挽回してくれる友達を初めて見つける物語でもある。

おもちゃの物語としては、シリーズの限界に近づいている。

新しい題材を加えながら、人間の成長や社会の問題へ軸足を移さなければ、物語を続けにくくなっていることも見えてしまった。

それでも、接続する機能と、誰かと本当につながっていることは別であるという指摘には、今作ならではの意味がある。

いい話ではあったのだが、同時に、このシリーズがどこまで「おもちゃの物語」であり続けられるのかという疑問も残る。

その面白さと限界を同時に見せてしまうところに、年を重ねた「トイ・ストーリー5」の誠実さがあるとう見方もできると思う。

「トイ・ストーリー」シリーズ全体の考察はこちら:

「トイ・ストーリー」シリーズ考察①|依存、自己欺瞞、無償の愛。名作が隠し持っていた残酷なパラドックス
「トイ・ストーリー」に描かれる、おもちゃと人間の非対称な愛情を考察。必要とされる喜び、捨てられる恐怖、アンディの優しさに潜む罪悪感、ウッ...
「トイ・ストーリー」シリーズ考察②|「親がなりたかった理想の親」と、祖父になったウッディ
『トイ・ストーリー』シリーズ4作の徹底考察。おもちゃの無償の愛は、人間には不可能な「理想の親」の姿だった。アンディの子育てを終え、『4』...
ジブリ愛を試すWEBクイズ
スタジオジブリ場面写真クイズゲーム ジブリ作品公開年月日クイズゲーム ジブリ作品ミックスアナグラムクイズゲーム ジブリ作品

あなたのジブリ愛、知識、観察力そして集中力を試す楽しいWEBクイズ。様々な種類の難問を素早く解いてランキングに登録!上の画像をクリックするとゲームページに飛びます。