「トイ・ストーリー」シリーズ考察②|「親がなりたかった理想の親」と、祖父になったウッディ
「トイ・ストーリー」のおもちゃたちは、子どもに遊ばれることを待つだけの存在ではない。子どもが部屋にいないときにも、その安全や幸福を願い、再び一緒に遊べることを望んでいる。
彼らは疲れず、子どもの世界を否定せず、見返りも求めない。子どもが必要とする限り、何度でも同じ遊びに付き合い、必要とされなくなった後も愛情を失わない。
その姿は、子どもが望んだ親であり、現実の親がなりたかった完璧な親のようにも見える。
この性質は「トイ・ストーリー5」でも変わっていない。ジェシーとリリーパッドは、ボニーとの関わり方をめぐって対立するが、どちらも彼女の孤独を心配し、自分の力で幸せにしようとしている。
さらにシリーズを通して見ると、ウッディの立場も変化している。アンディを見守る親のような存在から、「トイ・ストーリー3」で子育てを終え、「トイ・ストーリー4」では自らの経験を次の世代へ伝える祖父のような存在へ移っていくのである。
そして「5」では、ボニーの一番のおもちゃへ戻ろうとするのではなく、ジェシーたちが現在の役割を果たせるように支える。そこには、「4」で生まれた変化が一時的なものではなかったことが表れている。
今回は、おもちゃたちが体現する理想的な親の愛情と、ウッディが親から祖父へ成熟していく過程について考えていきたい。
「トイ・ストーリー5」をまだ見ておらず、ネタバレなしで評価や見るべきかを確認したい方は、「トイ・ストーリー5」のネタバレなしレビューをご覧ください。
以下ネタバレについては一切気にしない文章となっているので、未視聴の方は注意してください。
- 理想の親としてのおもちゃ: 子どもの世界を否定せず、疲れず、見返りを求めずに寄り添い続ける。
- 子どもへの無償の愛: 人形もデバイスも、自ら子どもの幸福を願い、役に立とうとしている。
- 子育ての終わり: 子どもの成長は、おもちゃにとって子離れであり、養育者としての役割の完了でもある。
- 祖父としてのウッディ: 「4」以降は、経験をもとに子どもや若いおもちゃたちを支える年長者となる。
- 次世代を見守る存在: 最後には一人の子どもではなく、より多くの子どもとおもちゃの関係を支える立場へ移る。
「親がなりたかった完璧な親」としてのおもちゃ
現実の親には応えられない瞬間がある
子どもが親と遊びたいと思ったとき、親が必ず応えられるとは限らない。仕事から帰った直後で疲れていることもあれば、食事や洗濯をしなければならないこともある。翌朝が早ければ、遊びを終わらせて眠るように促さなければならない。
これは親が子どもを愛していないからではない。人間には体力と時間の限界があり、家族を維持するためには、子どもの目の前にいる以外の仕事も必要になる。
しかし、小さな子どもにとって、その事情を完全に理解することは難しい。
遊んでほしいのに遊んでくれない。話を聞いてほしいのに、今は待ちなさいと言われる。親の現実的な都合は、ときに自分が拒絶されたような感覚として子どもに伝わる。
親は子どもを愛している。それでも、子どもが望んだ瞬間に、望んだ形で愛情を示せるとは限らないのである。
おもちゃは子どもの世界を否定しない
一方、おもちゃは子どもが作った世界を否定しない。
今日は保安官だった人形が、明日には宇宙船の船長になるかもしれない。恐竜のおもちゃが悪役を演じることもあれば、困っている仲間を助ける医者になることもある。
子どもは、おもちゃ本来の商品設定に従って遊んでいるわけではない。自分の想像の中で、何度でも新しい役を与える。
人間の大人であれば、同じ遊びを繰り返すことに疲れることもある。子どもの突飛な設定についていけず、話を現実へ戻そうとすることもあるだろう。
しかし、おもちゃは子どもの世界に入り込み、その世界の規則に従い続ける。
子どもにとっておもちゃは、自分の世界を一度も否定しない親のような存在なのである。
「トイ・ストーリー5」のボニーとブレイズも、既製品として与えられた設定へ縛られず、ジェシーやブルズアイ、スマーティー・パンツたちへ自由な役を与えて遊ぶ。
それまでそのような想像遊びを経験したことのなかったスマーティー・パンツたちは、子どもの世界へ迎え入れられたことに感激する。新しいデバイスであっても、子どもの想像力によって別の存在になれる喜びは、昔ながらのおもちゃと変わらない。
見返りを求めずに子どもを愛し続ける
「トイ・ストーリー」の世界では、おもちゃが子どもを愛していることが暗黙の前提となっている。
ウッディたちは、アンディが見ていない場所でも、彼の誕生日や引っ越しを気にかけ、仲間が置き去りにならないように行動する。危険から救っても褒められることはなく、その努力を知られることすらない。
それでも、アンディが安心して暮らせるように動き続ける。
現実の親は疲れるし、感情的になることもある。自分の努力を分かってほしいと思うこともあるだろう。しかし、おもちゃにはその揺らぎがほとんどない。
疲れず、怒らず、見返りを求めず、子どもが必要とする限りそばに居続ける。
それは人間には実現できない、完璧な親の姿なのである。
「5」に登場するリリーパッドも、基本的には同じである。友達ができずにいるボニーを心配し、自分の通信機能を使って同世代の子どもとつなげようとする。
ジェシーとは方法が異なり、その判断は結果的にボニーを傷つける。しかし、子どもの幸福を願い、自分が役に立とうとする点では、ほかのおもちゃと何も変わらない。
スマーティー・パンツ、アトラス、スナッピーも、ブレイズに遊ばれなくなった後まで、彼女と過ごした思い出を大切にしている。電池やバッテリーで動くデバイスであっても、子どもへ向ける愛情は同じなのである。
ただし、疲れず、見返りを求めないことと、常に正しい判断ができることは同じではない。
ジェシーは、直接一緒に遊ぶことだけがボニーに必要だと考える。リリーパッドは、ネットワーク上の交流こそがボニーを孤独から救うと考える。
どちらも子どもを愛しているからこそ、自分の知っている幸福を先回りして与えようとする。
その姿は、理想的な愛情を持ちながらも、「あなたのため」という理由で自分の価値観を押しつけてしまう親の姿にも重なる。
子どもの成長とは「親」としての役割の終わりである
ジェシーが傷ついたのは、深く愛していたからである
「トイ・ストーリー2」に登場するジェシーは、再び子どもと関係を結ぶことを恐れている。
彼女は、かつてエミリーという少女に深く愛されていた。いつも一緒に遊び、どこへ行くにも連れて行ってもらった。
しかし、エミリーは成長する。興味の対象は変わり、ジェシーはベッドの下に置かれ、長い間忘れられた。そして久しぶりに外へ連れ出されたとき、待っていたのは再び遊んでもらう時間ではなく、寄付箱へ入れられるという別れだった。
ジェシーが傷ついたのは、単に所有者から捨てられたからではない。
自分が親のように深く愛した子どもが、自分のいない人生へ進んでしまったからである。
子どもに無関心であれば、忘れられても傷つくことはない。ジェシーの恐怖は、それだけエミリーを愛していたことの裏返しでもある。
「5」で、ジェシーはエミリーがかつて暮らしていた家へ戻る。そして、思い出の木の下に残された品々から、エミリーが自分の娘にジェシーと同じ名前を与えていたことを知る。
エミリーは成長し、ジェシーのいない人生へ進んだ。しかし、ジェシーと過ごした時間まで消えたわけではなかった。
親のような存在から受け取った愛情は、その役割が終わった後も、子どもの中に残り続ける。
エミリーが娘へジェシーの名を与えたことは、ジェシーから受け取ったものが、形を変えて次の世代へ受け継がれたことを示している。
安全に保存されるより、再び子どもを愛する
博物館へ行けば、ジェシーたちは大切に保存される。壊されることも、汚されることもなく、子どもに飽きられることもない。
しかし、そこでは子どもに抱かれ、遊ばれることもない。
博物館は安全な場所であると同時に、もう子どもを愛さずに済む場所でもある。関係を結ばなければ、再び忘れられて傷つくこともない。
それでもジェシーとブルズアイは、最終的にアンディのもとへ向かう。
彼らは、安全に保存されることより、再び子どもと遊び、愛する可能性を選んだのである。
「トイ・ストーリー2」で描かれるのは、博物館と子ども部屋のどちらが楽しいかという選択ではない。
いつか別れが来ると知りながら、それでも再び子どもを愛することができるかという選択なのである。
そして「5」で、ジェシーは再び同じ試練へ直面する。
クラスメートの目を気にしたボニーは、本心ではないにもかかわらず、ジェシーとブルズアイをブレイズへ譲ろうとする。ジェシーは、エミリーに続いて、もう一度自分の愛した子どもから拒絶されたと感じる。
それでも最後には、ボニーとブレイズの双方が幸せになれる方法を考える。
再び傷ついた後でも、子どもを恨むのではなく、その子に必要な関係を作ろうとする。ジェシーもまた、別れの可能性を引き受けながら子どもを愛し続ける、親のような存在なのである。
アンディとの別れはウッディにとっての子離れである
親の役割は、子どもを永遠に自分のそばへ置くことではない。
子どもが成長し、自分で考え、自分の生活を持てるようにすることが、養育の一つの目的である。つまり、正しく役割を果たせば、いつか子どもは親を必要としなくなる。
「トイ・ストーリー3」で、アンディは大学へ進学する年齢になっている。かつて生活の中心にいたウッディたちは、すでに日常的に遊ばれる存在ではない。
アンディの成長は喜ばしい。しかし、その成長によって、おもちゃたちの役割は終わる。
物語の最後で、アンディはウッディたちをボニーへ譲る。子どもの側から見れば、おもちゃから卒業する場面である。
一方、おもちゃの側から見れば、自分たちが長い間愛し、守り、見届けてきた子どもを送り出す場面でもある。
ウッディたちは、アンディがこれから出会う人や経験を、そばで見守ることはできない。それでも、彼が自分たちのいない人生へ進むことを受け入れなければならない。
アンディとの別れは、ウッディにとって一度目の子育ての完了であり、子離れだったのである。
子離れとは、愛情が消えることではない。子どもが自分を必要としなくなった後も、その成長を受け入れることである。
アンディの中にはウッディと過ごした時間が残り、エミリーの中にもジェシーとの思い出が残った。親のような役割は終わっても、その愛情が子どもの人生へ与えた影響まで終わるわけではない。
「5」のボニーも、同世代の子どもとの関係を意識することで、自分の好きなおもちゃを恥ずかしいと感じるようになる。
ジェシーを嫌いになったわけではない。それでも、自分の世界を広げる過程で、おもちゃとの関係を切り離そうとしてしまう。
子どもにとっては、人間社会へ入っていくための成長である。しかし、おもちゃにとっては、再び親としての役割を終える瞬間になるのである。
「トイ・ストーリー4」で祖父になったウッディ
ボニーのおもちゃたちより一世代上の経験を持っている
「トイ・ストーリー4」におけるウッディは、ボニーの部屋にいるほかのおもちゃたちとは、少し異なる立場にいる。
ジェシーやバズたちもボニーを大切に思っている。しかし、彼らの多くが考えているのは、現在のボニーに必要なことである。
一方、ウッディはアンディが幼い頃から成長し、自分たちを必要としなくなるまでを見届けている。
子どもが新しい環境に不安を感じること、成長によって必要とするものが変わること、そしていつかおもちゃから離れていくことを、ウッディはすでに経験として知っている。
ボニーのおもちゃたちが、現在の子どもを支える親のような存在であるなら、ウッディは一度子育てを終えた祖父のような存在になっている。
ほかのおもちゃたちがまだ知らない子どもの苦しみを知り、その経験から先回りして行動しようとするのである。
「5」におけるウッディも、この立場を変えていない。
彼はジェシーからの連絡を受け、仲間が助けを求めていると考えたため、ボニーの家へ戻ってくる。しかし、もう一度ボニーの一番のおもちゃになろうとするわけではない。
物語の中心にいるのはジェシーであり、ウッディはバズとともに彼女を支える側へ回る。
かつてのウッディであれば、自分が中心に立つことへこだわったかもしれない。しかし現在の彼は、自分の経験が必要とされたときに現れ、現在子どもを支えているおもちゃたちを助ける。
その位置は、親というよりも、すでに子育てを終えた祖父や年長の助言者に近い。
ボニーの苦しみを先回りして理解する
ボニーの幼稚園初日、ウッディは彼女に選ばれていないにもかかわらず、バッグへ忍び込む。
ほかのおもちゃたちから見れば、持ち主が自分を連れて行かなかった以上、部屋で待つのが自然である。ウッディの行動は、おもちゃとして与えられた立場を越えているようにも見える。
しかし、ウッディはアンディとの経験から、子どもが新しい環境へ入るとき、どれほど不安を感じるかを知っている。
親と離れ、知らない子どもたちの中へ入り、自分の居場所を見つけなければならない。その苦しみを、ウッディはほかのおもちゃたちより早く想像している。
だからこそ、ボニーが一人で工作をしなければならなくなったとき、捨てられた材料を差し出して助ける。その介入によって生まれたのがフォーキーである。
ウッディは、フォーキーが単なる工作物ではなく、幼稚園で孤独を感じたボニーの心を支える存在であることを、誰よりも早く理解する。
それは、子どもが何に傷つき、何を心の支えにするのかを、長い経験から知っている年長者の行動に近い。
「5」では、ジェシーとリリーパッドが、異なる方法でボニーの孤独を解決しようとする。
ウッディは、そのどちらか一方の正しさを押しつけるのではなく、リリーパッドの機能も利用しながら、ボニーとブレイズが出会える方法を支える。
直接一緒に遊ぶことも、ネットワークで人をつなぐことも、使い方によっては子どもを助けられる。複数の方法を結びつける立場に回るところにも、ウッディが積み重ねてきた経験が表れている。
ジェシーとリリーパッドの対立が、単純な「おもちゃ対デバイス」ではない理由については、リリーパッドの孤独を中心にした「トイ・ストーリー5」考察で詳しく扱っている。
フォーキーへ「必要とされる喜び」を教える
フォーキーは、自分をおもちゃだとは考えていない。自分はゴミであり、ゴミ箱へ戻ることが自然だと信じている。
それに対してウッディは、ボニーに必要とされていることを繰り返し説明する。
ウッディには、アンディを長い間支えてきた経験がある。子どもが不安なとき、おもちゃがそばにいることにどれほど大きな意味があるのかを知っている。
フォーキー自身が何を望んでいるかよりも、ボニーにとって彼がどれほど重要かを優先するのは、そのためである。
ウッディはフォーキーに、おもちゃとして生きる義務だけを教えているのではない。
誰かに必要とされ、その存在を支えることが、自分自身の喜びにもなると伝えようとしているのである。
「5」では、その価値観を受け継いだ側としてジェシーが物語の中心に立つ。
ジェシーは、ボニーから再び拒絶されたことで深く傷つく。それでも、自分が必要とされる場所を奪い返すのではなく、ボニーとブレイズが友達になれる方法を考える。
子どもに必要とされる喜びを知りながら、その子ども自身にとって何が幸福なのかを優先する。その行動には、ウッディが長い時間をかけて示してきた生き方が受け継がれている。
愛情深い祖父が抱える価値観の押しつけ
ただし、ウッディの行動が、フォーキーへの価値観の押しつけに見えることも事実である。
子どもに必要とされることは幸福である。子どものために生きることがおもちゃの役割である。ウッディは、自分が長い間信じてきた生き方を、フォーキーにも受け入れさせようとしている。
経験を持つ年長者は、自分が得た知恵を若い世代へ伝えようとする。それは、同じ失敗をしてほしくない、困難から守りたいという愛情から生まれる。
その一方で、自分の経験を普遍的な正解だと考え、若い世代の異なる価値観を理解できなくなることもある。
ウッディもまた、フォーキーを助けたいからこそ、自分の知る幸福を押しつけてしまう。
ウッディの優しさと価値観の押しつけは、どちらもアンディを育てた経験から生まれている。
その二面性は、彼が単なる世話好きなおもちゃではなく、愛情深いが少々頑固な祖父のような存在へ変化したことを示しているのではないだろうか。
「5」のジェシーとリリーパッドの対立にも、同じ問題が現れている。
ジェシーは直接一緒に遊ぶことこそが、ボニーのためになると考える。リリーパッドは、ネットワーク上で同世代の子どもとつなぐことが、ボニーを救うと考える。
両者とも愛情深い。しかし、愛情が深いからこそ、自分の知っている幸福を子どもへ与えようとしすぎる。
「子どものため」という思いが、必ずしも子どもの本当の気持ちを理解することにはつながらない。この危うさもまた、親や祖父母の愛情が抱える問題なのである。
また「5」では、ウッディの頭部の塗装が以前より薄くなり、腹回りにも年齢を思わせる変化が現れている。
笑いとして描かれているが、かつての若い保安官が、外見からも年長者になったことを示す表現である。ウッディの祖父らしさは、役割だけでなく、その姿にも現れるようになった。
ボー・ピープも異なる答えを伝える年長者である
ボー・ピープもまた、長い経験を持つ年長のおもちゃである。
ただし、ウッディとボーが経験から導き出した答えは異なっている。
ウッディは、アンディとの時間から、特定の子どもに必要とされ、その子を最後まで支えることの価値を学んだ。
一方、ボーは持ち主を失った経験から、特定の子どもとの関係が終わっても、おもちゃとしての生き方は終わらないことを学んでいる。
しかし、ボーは子どもと遊ぶこと自体を捨ててはいない。
遊園地では、持ち主のいないおもちゃが子どもに見つけてもらえるように手助けしている。彼女が手放したのは子どもへの愛情ではなく、特定の一人に所有されることだけを、おもちゃの唯一の幸福とする考え方である。
ウッディとボーは、どちらも次の世代を導く年長者である。ただし、一方は一人の子どもを支える価値を伝え、もう一方は関係の形を変えても子どもを愛せることを示している。
「5」でウッディがボニーの家へ戻っても、彼が再び特定の一人に所有される生き方へ戻らなかったことは重要である。
ボーとともに選んだ生き方を維持しながら、助けを必要とする仲間のもとへ一時的に戻る。特定の持ち主から離れることと、子どもや仲間を愛さなくなることは別なのである。
特定の「一人の子」から、次の世代全体を見守る存在へ
ウッディが選んだのは自由ではない
物語の最後で、ウッディはボニーのもとへ戻らず、ボー・ピープとともに遊園地へ残る。
結果だけを見れば、特定の子どもに所有される生き方をやめ、自分の自由を選んだようにも見える。
しかし、ウッディが選んだのは、誰にも必要とされない自由ではない。
ボニーの部屋には、ジェシーやバズをはじめとした多くのおもちゃがいる。ウッディがいなくても、彼らはボニーを支えることができる。
一方、遊園地には、子どもと出会う機会すら与えられないおもちゃたちがいる。
ウッディは、一人の子どもに直接愛される役割を終え、ほかのおもちゃが子どもと関係を結ぶのを支える側へ回ったのである。
自分が子どもの中心になるのではなく、次の世代が子どもを支えられるように助ける。
それは親としての役割を捨てたのではなく、祖父のような支援者へ役割を変えたということになる。
「5」でウッディがボニーの家へ戻ったのも、もう一度ボニーのおもちゃになるためではない。
彼が助けようとしたのは、現在ボニーを支えているジェシーやバズ、孤立していたリリーパッドやスマーティー・パンツたち、そしてその先にいるボニーとブレイズである。
ウッディは、ボニーにもう一度自分を選ばせようとはしない。ジェシーとリリーパッドが和解し、ボニーとブレイズが出会えるように手を貸す。
自分が子どもとの関係の中心になるのではなく、ほかの誰かと子どもの関係を支える。
それは、「4」で選んだ生き方が一時的なものではなく、ウッディの新しい役割として定着していることを示している。
養育者の人生を最後まで描いた物語
ウッディはアンディを愛し、成長を支え、最後には彼を送り出した。
「4」では、その経験によってボニーの苦しみを先回りして理解し、フォーキーへ自分の知る価値を伝えようとする。
そして最後には、一人の子どもだけを支える立場から、より多くの子どもとおもちゃの縁を結ぶ立場へ移っていく。
そこには、親から祖父へと変化する養育者のライフサイクルがある。
子どものそばで直接世話をする時期があり、成長した子どもを送り出す時期があり、その後は自分の経験を次の世代へ渡していく。
「5」は、この変化へまったく新しい答えを加えたわけではない。
むしろ、「4」で親から祖父のような存在へ移ったウッディが、その立場を変えずに仲間を支えていることを確認した作品である。
ジェシーが物語の中心となり、ボニーとブレイズの関係を作ろうとする中で、ウッディは自分が主役へ戻ることを求めない。
必要なときに現れ、経験を渡し、現在の世代が子どもを支えられるように助ける。ウッディはすでに、特定の一人の子どもを育てる親ではないのである。
「トイ・ストーリー」は、おもちゃを理想的な親として描くだけではない。
必要とされる喜び、子どもが離れていく寂しさ、経験を伝える優しさ、そして価値観を押しつけてしまう年長者の危うさまで描いている。
現実の親は、決して疲れず、決して怒らず、いつでも子どもの要求に応えることはできない。しかし、おもちゃは子どもの世界を否定せず、遊びが終わった後も愛情を失わず、子どもが自分を必要としなくなる日までそばにいる。
「トイ・ストーリー」は、人間には不可能な理想の愛を描きながら、その愛を与える養育者が、一人の子どもを育てる親から、経験を次の世代へ渡す祖父へ成熟していく過程まで描いている。
だからこそ、「トイ・ストーリー」は子どものための冒険物語であると同時に、かつて子どもだった大人や、親や祖父母になった人間の心まで動かすのではないだろうか。
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