「室井慎次 敗れざる者」「室井慎次 生き続ける者」を見ていて、私はずっと奇妙なことを考えていた。これは室井慎次を主人公にした映画なのだけれども、やっていることはむしろ、我々が長いあいだ知ってきた「室井慎次」を少しずつ壊していくことなのではないだろうか。

警察を辞め、故郷で農作業をし、犬と暮らし、子どもたちの食事を作り、地域の人々と付き合っていく。「踊る大捜査線」の室井慎次を思い浮かべたとき、真っ先に出てくるようなものはほとんどない。それなのに、この二部作はそこへかなりの時間を使っている。

なぜ室井慎次は警察を辞めたのか。警察改革に失敗した男が、なぜ「敗れざる者」なのか。「生き続ける者」というタイトルなのに、なぜ最後には死んでしまうのか。私はこれらを別々の問題だとは考えていない。

この二部作は、長いあいだ「室井慎次」というキャラクターであり続けた男を、最後に一人の人間へ戻すための物語だった。そう考えてみると、警察を辞めたことも、子どもたちとの生活も、最後に死んだことも、一つの流れとして見えてくる。

  • この二部作の意味: 「踊る大捜査線」のために強烈なキャラクターであり続けた室井慎次へ、これまで描かれなかった日常を返し、一人の人間へ戻すための物語だったと考えている。
  • 「敗れざる者」と「生き続ける者」: 室井は警察改革には明確に敗北している。それでも自分の生き方を捨てず、その生き方が別の人間の中へ残っていくという点で、二つのタイトルはほとんど同じ意味を持つ。
  • 室井が最後に死んだ理由: 生き残れば、今度は「秋田で子どもを育てる元警察官・室井慎次」という新しいキャラクターが完成してしまう。一人の人間へ戻したまま物語を終えるためは、死という結論しかなかった。
  • 映画としての評価: 室井慎次を人間へ戻すという試みには意味を感じる。ただ、その意味と映画としての面白さは別であり、私はこの二部作を特に面白いとは感じなかった。
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室井慎次を「室井慎次」から解放する物語

そもそも室井慎次という人物は、「踊る大捜査線」という作品の中であまりにもキャラクターとして完成されている。寡黙で、表情を崩さず、現場の青島とは違って警察組織の中枢に身を置き、それでも現場が正しいことをできるように警察を上から変えようとする。

一方で、室井本人の生活となると急に何も見えなくなる。結婚もしていないし、子どももいないし、仕事を終えて家に帰った室井が何をしているのかを我々はほとんど知らない。この「何も見えなさ」まで含めて、室井慎次というキャラクターだったのだと思う。

室井慎次は、あまりにも完成されたキャラクターだった

考えてみれば、これは「踊る大捜査線」という作品にとって非常に都合がよい。室井には、一人の人間として生きてもらう以上に、作品の中で一定の役割を果たし続けてもらう必要があった。

「踊る大捜査線」が室井に求めてきたもの
  • 青島が現場を走る: 室井は警察組織の上にいる。
  • 青島が感情で動く: 室井は感情を抑え、組織の論理を背負う。
  • 所轄と本庁が対立する: 室井は「いつか上から警察を変える男」であり続ける。

室井慎次は一人の人間であると同時に、「踊る大捜査線」という作品を成立させるための役割を長く背負わされた人物でもある。少し乱暴な言い方をすれば、その強烈なキャラクター性を守るために、普通の生活を捨てさせられてきたのである。

家庭を持たず、子どもを持たず、警察改革という巨大な目標を背負ったまま働き続ける。その姿は確かに格好いいのだが、格好いい「室井慎次」であり続けてもらうためには、室井本人には随分と不自由な人生を送ってもらわなければならなかったとも言える。

今回の映画は、その「室井慎次らしさ」を見た目からも外している。これまでの室井を思い浮かべれば、まず出てくるのはスーツ姿で警察組織の中に立つ姿だろう。しかし今回の室井は、作業着姿で畑の中に立っている。肩書きを外しただけではなく、我々が長年見慣れてきた「室井慎次の姿」まで脱がせているのである。

畑の中に作業着姿で立つ室井慎次
引用:映画『室井慎次 敗れざる者』(2024年)より。畑の中に作業着姿で立つ室井慎次。
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「容疑者 室井慎次」は、むしろ室井というキャラクターを強くした

もちろん、これまで室井の個人的な部分がまったく描かれなかったわけではない。「容疑者 室井慎次」では、それまで明かされていなかった彼の過去にも踏み込んでいる。ただ、私はあの映画によって室井が「普通の人間」に近づいたとはあまり思っていない。

むしろ暗い過去を知ったことで、「なるほど、だからこの人はこんな室井慎次になったのか」と、それまでの人物像への納得度が上がった。私生活を見せたはずなのに、その結果として寡黙さや孤独、仕事へ自分を投じる姿に説得力が生まれたのである。

「容疑者 室井慎次」は室井を人間に戻したというより、「室井慎次」というキャラクターをさらに完成させた作品だったのだと思う。その意味では、今回の二部作は「容疑者 室井慎次」と構造的に反対のことをしている。

あちらが「なぜ室井慎次という人物になったのか」を補強する映画だったとすれば、「敗れざる者」「生き続ける者」は、その完成された室井慎次を最後にほどいていく映画である。私にとって、この二部作の価値はほとんどそこにある。

なぜ室井慎次は警察を辞めたのか

そう考えると、今回まず室井が警察を辞めていることには大きな意味がある。警察官である限り、室井はどうしても「警察改革を目指す室井慎次」であり続けてしまうし、その役割から降りることができない。

そして、ここは妙に救済する必要はないと思うのだが、室井の警察改革は完成していない。巨大な警察機構を変えることはできず、青島との約束も果たせなかった。室井慎次は、警察改革という目的において明確に敗北している。

もちろん、そのまま警察に残ることもできただろう。しかし改革を完成させる前に、いずれ定年はやってくる。その時点で警察を去らせるという物語にもできたはずなのだが、私はそれでは今回の映画にならなかったと思う。

「定年退職」と「自ら辞めること」の違い
  • 定年退職: 警察という制度によって、室井の警察官人生が終わる。
  • 自主退職: 室井自身が、それまで続いてきた自分の人生を自分の意思で変える。

定年退職では、室井の人生を最後まで警察組織の側が決めることになる。「年齢が来たので辞めました」では、それまで続いてきた室井慎次という人生を本人が変えたことにはならない。自分から警察を辞めることで初めて、室井はそれまで自分を規定してきた流れを、自分の意思で逆転させることができる。

警察を辞めたことは、単なる引退ではない。「室井慎次」というキャラクターから降りるために、最初に必要だった行為なのである。

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子どもたちとの生活は、室井が自分で選んだ人生

そして警察を辞めた室井に与えられたのが、これまでほとんど描かれなかった日常だった。農作業をし、犬と暮らし、食事を作り、子どもたちと生活し、地域の人々と付き合っていく。

この中のどれか一つが特別な象徴なのではないと思う。描かれているもの全部が「日常」であることそのものに意味がある。これまで室井慎次というキャラクターを成立させるために描かれなかったものを、この二部作はまとめて返しているのである。

とりわけ重要なのは、室井とタカ、リクが「事件に関わる刑事と子ども」としてではなく、同じ家の中で同じ時間を過ごす人間として画面に収められていることである。食事をする、家事をする、同じ場所へ帰ってくる。室井は彼らを助けているだけではなく、自分の日常そのものの中へ入れている。

室井家で同じ食卓を囲む室井慎次と子どもたち
引用:映画『室井慎次 敗れざる者』(2024年)より。室井家で生活を共にする室井慎次と子どもたち。

しかも、子どもたちとの生活は警察官時代の仕事をそのまま続けているわけではない。警察官として事件に関わっていた頃には、犯罪被害者や犯罪者、その家族と接することはできても、事件が終わったあとの人生まで引き受けることは難しかった。

その点、子どもであれば里親として生活を共にし、成長を支えるという具体的な方法がある。警察を辞めたからこそできることであり、室井はそこで初めて「事件」ではなく、その後を生きる人間そのものと付き合うことになる。

そして私は、室井がこの生活によって救われていると思う。警察は、どれほど本人が人生を懸けたとしても「仕事」である。一方、子どもたちとの生活は上司に命じられたものでも、組織の中で与えられた役割でもない。

あれは室井自身が、自分の意思で選んだ生活である。警察改革に成功した未来を見ることはできなかったが、最後に「自分がこう生きたい」と思った生活を持つことはできた。その意味で、室井は十分に救われていると思う。

「敗れざる者」と「生き続ける者」は何を意味するのか

ここまで考えてくると、二つのタイトルについても少し見え方が変わってくる。私は「敗れざる者」と「生き続ける者」を、前編と後編で別々の主題を表した言葉だとは考えていない。

細かく見れば「敗れざる者」という言葉をタカなど別の人物に重ねることもできるのだろうが、二部作全体を考えるうえでは小さな話である。私には、この二つのタイトルはほとんど同じ意味に見える。

室井慎次は、きちんと敗北している

まず大前提として、室井は「実は敗北していなかった」のではない。警察改革は完成せず、警察を辞めた以上、その方法で再挑戦することもできない。結果だけを見れば、「敗れざる者」どころか明確に敗れている。

だから、このタイトルの面白さはそこにあるのだと思う。一度きちんと敗れた人間に、あえて「敗れざる者」と名付けている。勝ったから敗れざる者なのではない。

室井が失ったものと、それでも残ったもの
  • 失ったもの: 警察改革を自分の手で完成させる可能性、青島との約束を果たす機会。
  • 残ったもの: 警察官として培った誇り、自分が正しいと思うことを続ける姿勢。

警察を辞めても、室井は警察官として生きた自分まで捨てなかった。犯罪被害者の子どもや犯罪者の子どもと暮らし、警察官だった頃には「事件」としてしか関われなかった人々の、その後の人生へ関わろうとする。

警察の中にいた頃と同じことをしているわけではない。しかし、「自分が正しいと思うことを続ける」という生き方そのものは変わっていない。敗れざるとは、敗北しないことではなく、敗北したあとも自分の生き方を捨てないことなのではないだろうか。

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敗北しても、室井の生き方までは終わらなかった

この点で、青島との約束も無理に救済する必要はない。現場の刑事が正しいことをできるように警察組織を変えるという約束は、残念ながら果たせなかったのであり、子どもたちとの生活を持ち出して「別の形で約束を果たした」とするのは少し話がきれいになりすぎる。

しかし、一つの目標に失敗したからといって、そこで室井の人生まで終わるわけではない。むしろ今回描かれているのは、失敗したものを失敗したまま抱えて、そのあとをどう生きるかということなのだと思う。

警察改革に失敗した室井は、警察を辞めたあとも自分の中に残ったものを使って生きている。警察官という肩書きはなくなっても、人をどう見るのか、何を正しいと思うのかという部分までなくなるわけではない。

その意味で「敗れざる者」という言葉は、室井の勝敗ではなく、敗北したあとの生き方を指している。そして、敗北したあともその生き方を続けることを、そのまま言い換えれば「生き続ける者」になる。

警察改革と子どもたちとの生活は、同じところから生まれている

ここで面白いのは、警察を辞める前と後で室井がまったく別の人間になったわけではないことである。警察官だった頃には、「現場の人間が正しいことをできる組織にしたい」という形で室井の生き方が現れた。警察を辞めたあとには、それが犯罪に関わった子どもたちの人生に付き合うという形へ変わった。

同じ生き様が、場所によって形を変える
  • 警察組織の中: 現場が正しいことをできる組織にするため、警察改革を目指す。
  • 警察組織の外: 事件に関係した子どもたちの、その後の人生と生活を共にする。

警察改革と里親としての生活は、一見すると何の関係もない。しかし、どちらも室井が「自分が正しいと思うことを、自分にできる形で続ける」ことから生まれている。警察の中にいたときには改革になり、警察の外へ出たあとには子どもたちとの生活になったのである。

そして室井が警察の中で生きた時間は、本人が去ったあとにも消えていない。長いあいだ室井と仕事をしてきた新城賢太郎が、自分にも定年が見えてきたところで警察改革へ動き始める。室井が「後は頼んだ」と新城へ託したわけではなく、室井を見続けてきた新城の側に、いつの間にか同じ問題意識が残っていたのである。

一方、子どもたちの中に残るものは「警察を改革しよう」という具体的な目標ではないだろう。それでも、自分が正しいと思うことを続けた室井の姿は残る。警察の中にも外にも、形を変えて同じものが残っていく。

「敗れざる者」と「生き続ける者」は、結局このことを言っているのだと思う。敗れたあとも生き方を捨てず、その生き方によって生まれたものが、自分のいなくなったあとにも残っていくのである。

ただし、新城が室井の改革を続ければ必ずより良い警察になるとまで考える必要はない。「踊る大捜査線」は基本的に所轄や現場の側から描かれる作品なので、室井の改革は作品内では肯定的に見える。しかし、それが制度として絶対的に正しいことまで保証されているわけではないだろう。

なぜ室井慎次は最後に死ななければならなかったのか

この二部作が室井慎次を一人の人間へ戻すための物語だったと考えるなら、最後の死はかなり重要である。私は、室井の死を単に「意志を次世代へつなぐための悲劇」とは見ていない。

もちろん、死後に新城や子どもたちへ何かが残ることには意味がある。しかしそれ以前に、室井慎次本人の物語をどう終えるのかという問題がある。

死によって、ようやく「室井慎次」が終わる

仮に室井が最後まで生きていたらどうなるだろうか。警察を辞め、秋田で農業をしながら子どもたちを育てる生活はそのまま続き、今度は「秋田で里親をする元警察官・室井慎次」という新しい室井像が完成する。

それは決して悪いことではない。ただ、この二部作がやろうとしていたこととは少し違うように思う。警察官として固定されていた室井をそこから降ろしたのに、最後にまた別の「室井慎次」へ固定してしまえば、結局キャラクターを着替えさせただけになってしまうからである。

室井を「人間に戻す」ために必要だったこと
  • 警察を辞める: 「警察改革を目指す室井慎次」という役割から降りる。
  • 日常を生きる: 作品のためではなく、自分が選んだ生活を持つ。
  • 最後に死ぬ: 「秋田で里親をする室井慎次」という新しい役割へ固定されることなく、その人生自体を閉じる。

室井を一人の人間へ戻したまま終えるには、「この先も室井慎次はこう生きます」という新しい設定を残さず、本人の人生そのものを閉じる必要があった。私はあの死を、そういうものとして見ている。

しかも室井は、事件を解決して殉職するわけでも、誰かを救うために英雄的に死ぬわけでもない。そんな最期にしてしまえば、最後の最後でもう一度「格好いい室井慎次」へ戻ってしまう。

その点、日常の中で静かに死ぬという終わり方は、この二部作が彼に与えた生活の延長としてよくできている。警察官として死ぬのではなく、ようやく取り戻した一人の人間としての生活の中で、その人生を終えるのである。

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最後に残ったのは、室井慎次ではなく室井の生き方だった

そして室井本人がいなくなったあとにも、新城は警察の中に残り、子どもたちはそれぞれの人生を続けていく。そこに残るのは「室井慎次」という人物そのものではなく、彼と一緒にいたことで生まれた何かである。

そのことを映画は、かなり分かりやすい一枚の画面にもしている。室井が座っていた椅子に本人の姿はなく、そこへ新城が「室井モデル」を置く。室井慎次という人間が消えた場所に、室井が警察の中で生きたことによって生まれたものだけが残される。この構図は、「生き続ける者」というタイトルを考えるうえでも象徴的に見える。

室井慎次が使っていたロッキングチェアに置かれた室井モデル
引用:映画『室井慎次 生き続ける者』(2024年)より。室井が使っていた椅子に置かれる「室井モデル」。

警察の中では、それが改革への問題意識として残る。子どもたちの中では、もっと具体的な言葉にしにくい形で、室井と過ごした時間や、室井がどう生きたのかという記憶として残っていく。

一人の人間は死ぬ。しかし、その人間が生きたことで別の人間の中に生まれたものまでは消えない。この映画が最後に描いている「生き続ける」は、室井慎次本人ではなく、そうやって残っていく生き様や意志のことなのではないだろうか。

意味のある映画と、面白い映画は同じではない

ここまで書くと、私がこの二部作をかなり高く評価しているように見えるかもしれない。しかし実際の感想はもう少し単純で、この映画には意味があると思うが、特に面白かったとは思っていない。

室井慎次を人間へ戻すという試みには価値がある。しかし、その意義がそのまま映画としての面白さになるわけではなく、私には本来かなりシンプルだったはずの室井の物語に、別の映画が少しずつ継ぎ足されているように見えた。

室井の日常に、別の映画が継ぎ足されている

今回の二部作で私が最も見たかったものは、警察を辞めた室井がどんな生活を選び、子どもたちとどう暮らしているのかという部分である。そこだけでも、これまでの「踊る大捜査線」では決して見ることのできなかった室井慎次がいる。

ところが映画には、杏が現れ、日向真奈美がつながり、殺人事件が起こり、再び警察が大きく物語へ入ってくる。もちろん、一つ一つには役割があるのだが、私にはそれらが室井の日常から自然に生まれたというより、映画を動かすために外から持ち込まれた物語のように見えてしまった。

そのため、作品全体が少しパッチワークのように見える。室井を人間へ戻す静かな映画と、「踊る大捜査線」らしい事件を扱う映画が、完全には溶け合わないまま一緒に存在しているのである。

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杏までは分かる。事件が入ると話が変わる

最初に映画を見たとき、私は日向杏も日向真奈美を登場させるために用意された人物なのではないかと思っていた。しかし制作過程を調べると、これは私の誤解だった。

亀山千広プロデューサーの説明によれば、杏は初期のプロットから「犯罪者の娘」として存在しており、当初その親は日向真奈美ではなく架空の犯罪者だったという。つまり、杏そのものは日向真奈美や殺人事件を出すためだけに後から作られた人物ではない。

そう考えると、杏がいる理由も分かりやすい。タカとリクはそれぞれ問題を抱えているが、すでに室井との生活に安らぎや愛情を持っている。その中へ、室井が救おうとしているにもかかわらず、その家族を壊そうとする人物を入れる。

杏は、室井が作った「家族」が本当に家族なのかを試し、その家族が本物であることを証明するための存在だったのだと思う。室井に従順な子どもだけを受け入れているのではなく、自分を拒絶し、関係を壊そうとする子どもに対しても室井は向き合おうとする。

作劇としては非常に分かりやすい。ただ、理想を言えば、私は杏すらいなくてもよかったと思っている。タカとリクとの生活だけで一本の映画として成立させることができたなら、その方が今回の二部作が持つ「室井に日常を返す」という部分は、もっと純粋に見えただろう。

そして、日向真奈美と殺人事件まで必要だったのかと聞かれれば、私は本質的には必要なかったと思う。制作側の証言を見ると、企画初期には室井が故郷で農業をしながら里子を育てる物語がすでに存在し、殺人事件はなかった。また、杏の親も当初は日向真奈美ではなく架空の犯罪者だったという。

本広克行監督も、最初に読んだ脚本について、室井が「ずっと農業をやっている」話だったと振り返っている。その後、よりアクティブな作品へ変わっていく中で事件などの要素が増えていった。完成した映画に私が感じた継ぎ足し感と、実際の制作過程がどこまで直接つながっているのかは分からないが、少なくとも「なるほど」と思うところはある。

参考:東宝「『室井慎次 敗れざる者』初日舞台挨拶」
参考:anan web 本広克行監督インタビュー

とはいえ、全国公開する「踊る大捜査線」の商業映画として、室井が農業をし、子どもたちとご飯を食べていますというだけで成立させることが難しいのもよく分かる。「踊る」を見に来た観客であれば、事件も警察も見たいだろうし、本広監督がそうした要素のない作品を自分が演出することに難しさを感じたことも理解できる。

だから私は、事件を入れた制作判断そのものを否定したいわけではない。ただ、映画として成立させるために必要だったものと、私がこの二部作で最も意味を感じる「室井を人間へ戻す」という部分が、最後まで一つにはならなかったように感じた。

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結局、私の中に残る「一場面」がなかった

ただ、私がこの映画を特に面白いと思わなかった最大の理由は、事件の作り方でも物語の凡庸さでもない。私にとって、心に強く残る一場面がなかった。

例えば、「ここで室井は人間に戻った」と言える決定的な場面があるわけではない。農作業も、食卓も、犬も、子どもたちとのやり取りも、それら全部を合わせた作品全体が室井を人間へ戻しているので、構造としてはそれで正しい。

しかし映画を見終えたあとに長く残るものは、必ずしも構造やテーマだけではない。一つの表情、一つの台詞、一つの風景のような、「この瞬間を見るためにこの映画があった」と思える何かが残ることがある。

私にとって映画の大きな価値はそこにあるのだが、残念ながらこの二部作にはそれがなかった。だから、意味を考えれば興味深いし、なぜこの映画を作ったのかも理解できる。しかし映画そのものを振り返って「面白かったか」と聞かれれば、私は特にそうは思わないのである。

ちなみに、ラストで青島俊作が姿を見せることについても、私は今回の考察を大きく変えるほどの意味は感じていない。長くシリーズを見てきた観客へのファンサービスであり、その後の「踊る大捜査線」へ橋を架ける場面として見るくらいで、私には十分である。

室井慎次、人間に戻れてよかったね

今回の二部作で、室井慎次というキャラクターが以前より魅力的になったとは思わない。むしろ私生活が見えず、警察組織の中で何かを背負い続け、完全には本心を見せないところにあった「室井慎次らしさ」は、かなり薄くなった。

しかし、「室井慎次」を魅力的なキャラクターのまま保存することと、室井という人間に人生を返すことは、おそらく両立しない。いつまでも我々が見たい室井慎次でいてもらうなら、彼にはいつまでも警察組織の中で格好よく悩み続けてもらうことになる。

「踊る大捜査線」の中で、室井は長いあいだその役割を果たしてきた。現場に青島がいれば本庁には室井がいて、警察組織の問題があればそれを背負い、いつか改革を実現する人物として立ち続けた。我々は、そういう室井慎次を長いあいだ見てきたのである。

今回の二部作では、その室井が役割から降りる。改革には失敗したままで、青島との約束も果たせていない。それでも警察を辞め、自分で選んだ場所で、自分がやりたいと思ったことを始める。

私はこの二部作を見ても、室井慎次という人物を以前より好きになったわけではないし、映画そのものにも特別な面白さは感じなかった。ただ、長いあいだ作品のために「室井慎次」であり続けた男が、最後くらいはその役を降りて、自分の人生を生きることができた。そのことには、かなり意味があったと思う。

室井慎次、人間に戻れてよかったね。少なくとも私は、「敗れざる者」「生き続ける者」をみて、そんなふうに思ったのです。