『ALWAYS 三丁目の夕日』六子はなぜ青森から東京へ? 集団就職の実情と時代背景

映画『ALWAYS 三丁目の夕日』で、青森から集団就職によって上京した星野六子は、自動車会社の秘書になるつもりでやってきたものの、実際の就職先は小さな自動車修理工場「鈴木オート」だった。期待していた仕事との落差も、鈴木家で過ごす日々も、映画の大切な物語になっている。JR西日本の撮影レポートでも、六子が青森から上野へ集団就職で到着する場面が紹介されている。
しかし、映画を見ていると、そもそも疑問が生まれる。なぜ中学校を卒業したばかりの若者が、親元を離れて東京まで働きに来たのだろう。東京の人手が足りなかったのか、それとも地方に仕事がなかったのか。そして、今では高校へ進むことが一般的になったのに、なぜ当時は15歳で就職することが珍しくなかったのか。
六子の上京を理解するために、集団就職という仕組みがどのように生まれ、広がり、やがて姿を消していったのかを調べてみたい。その背景をたどると、戦前からの農村と都市の関係、戦争による人口移動、戦後の産業発展、そして人々の教育に対する考え方の変化まで、さまざまな問題がつながってくる。
『ALWAYS 三丁目の夕日』に登場する集団就職とは、どのようなものだったのか
映画では、上野駅へ到着した六子が東京での新しい生活を始める。地方の中学校を卒業した若者たちが、学校や公共職業安定所の紹介を受け、列車などでまとまって都市へ向かう集団就職は、戦後日本の労働力を支えた仕組みの一つだった。まずは当時、中学校を卒業して働く若者がどれほどいたのか、また集団就職がどのような地域で行われていたのかを見てみよう。
中学校を卒業して働く若者は珍しくなかった
文部省『学校基本調査』に基づくくにたち郷土文化館の統計表によれば、1955年の全国の中学校卒業者の就職率は42.0%、1957年は43.3%、1958年は40.9%だった。1958年には全国で77万4,975人が中学校卒業後に就職しており、卒業生のおよそ4割がそのまま社会へ出て働いていたことになる。
現在では高校進学が一般的だが、昭和30年代には中学校を卒業して働き始めることが、社会の中で大きな比重を占めていた。ただし、これらの数字は地元で就職した人も含む全国の中卒就職者数であり、集団就職によって故郷を離れた人の人数ではない。

出典:くにたち郷土文化館「中学校卒業者の就職状況」(文部省「学校基本調査」)。出典の数値・記述を基に作成。
当時の就職状況を理解するうえでは、中卒就職者、県外就職者、集団就職者、就職列車の利用者という、それぞれ異なる範囲の数字を区別することも大切になる。集団就職は地方から都市へ働きに出る動きを象徴する存在だが、中卒就職者の全員が列車に乗って上京したわけではない。
- 中卒就職者:中学校卒業後に就職した人。地元での就職も含む。
- 県外就職者:住んでいた都道府県の外で就職した人。移動方法は問わない。
- 集団就職者:学校や職業安定所などが組織的に紹介・送り出しを行う仕組みで就職した人。統計ごとに集計対象の確認が必要。
- 就職列車の利用者:就職専用列車などで移動した人。集団就職者全体と同じ人数ではない。
青森だけでなく、全国の地方から都市へ向かった若者たち
六子の出身地は青森だが、集団就職は東北だけで行われたものではない。地方の若者を都市へ送り出す動きは九州や中国・四国などにも広がり、東京や横浜を中心とする京浜地区、名古屋を中心とする中京地区、大阪・神戸を中心とする阪神地区などが主な受け入れ地域となっていた。
『青森県史』に収録された1963年の『東奥日報』の記事では、集団就職の送り出し地域として、青森・秋田だけでなく、鹿児島・熊本・長崎などの県が挙げられている。同記事によれば、宮崎県では県外への就職が中卒就職者の96%に達し、鹿児島県でも約1万4千人が県外へ就職していたという。
このように、地域によって程度の差はあったものの、地方の若者が故郷を離れて働くことは全国的な現象だった。また、記事には、企業が地方に駐在員を置こうとしたり、採用する若者の家庭を訪問したりする様子も記録されている。仕事を求める若者が一方的に都市へ押し寄せたのではなく、企業の側も地方へ積極的に働きかけていたのである。
集団就職の仕組みそのものには戦前からの歴史がある。くにたち郷土文化館の解説では、1930年代にも組織的な就職移動が行われ、1939年には秋田から上野へ向かう「少年就職列車」が運行された記録が紹介されている。戦後の集団就職は、それまでにも存在していた地方から都市への労働移動が、新しい経済状況の中で拡大したものだった。
学校・職業安定所・就職列車が結んだ地方と都市
集団就職を可能にしたのは、若者本人の希望と企業の求人だけではない。地方の学校や職業安定所が都市の求人情報を集め、就職先との間を取り持ち、採用された若者をまとめて送り出す仕組みがあった。出発する若者と見送る家族の姿が重なる就職列車は、こうした組織的な就職移動を象徴するものとなった。
1958年3月13日の参議院社会労働委員会の会議録には、福島県から東京へ向かう集団就職者や、商店街がまとまって地方から若者を採用する例が登場する。国立町でも、くにたち郷土文化館が紹介する地域資料によれば、1958年に集団雇用を希望する店主の会が開かれ、1960年には秋田から迎えた19人の店員の入店式が行われている。
つまり、集団就職の受け入れ先は大きな工場ばかりではなかった。商店街の小さな店舗や町工場も、学校や職業安定所の仲介を通じて遠方から若者を採用していた。映画の鈴木オートのような小さな事業所にも、地方から働き手がやってくる社会的な仕組みが存在していたのである。
なぜ地方の若者は、故郷を離れて働かなければならなかったのか
集団就職を理解するうえで気になるのは、地方の側の事情である。都市に仕事があったとしても、地元で十分に働けるのであれば、わざわざ15歳で親元を離れる必要はなかったかもしれない。この疑問を考えるには、戦後の就職事情だけでなく、戦前から続く農村と都市の関係、そして戦争によって農村に生じた変化までさかのぼる必要がある。とくに注目したいのは、都市へ人を送り出していた農村が、戦争によって逆に多くの人を受け入れる側になったことである。
戦前から農村は、都市へ働き手を送り出していた
地方から都市へ働きに出ることは、戦後になって初めて生まれた現象ではない。戦前の農村でも、農業だけですべての人の働き口や所得を確保できるわけではなく、農家の子どもや若者が都市の工場や商店へ働きに出ていた。こうした人口移動は、農村の人口と仕事の釣り合いを保つ役割も果たしていた。
1954年の経済白書には、戦前の農村から都市へ年間約20万人の人口が供給されていたという記述がある。白書は農村の低い生活水準と都市への労働力供給の関係を分析しており、農村が都市の産業を支える働き手の供給源となっていたことが分かる。
したがって、集団就職が広がった背景を、戦後になって突然地方に仕事がなくなったからだと考えるのは適切ではない。もともと存在していた農村から都市への労働移動が、戦争とその後の復興によって大きく変化し、さらに拡大していったと考えるほうが自然だろう。
戦争で都市から農村へ人が流入し、働き手が増えた
ところが、戦争末期から終戦直後にかけて、人口移動の方向は大きく変わる。都市は空襲などで大きな被害を受け、都市から農村へ多くの人が移り住むようになった。1955年の経済白書によれば、戦前におおむね1,400万人だった農業人口は、1947年には1,662万人、1950年にも1,616万人となっていた。
戦争によって都市の産業活動が大きく縮小する一方、農村には人が増えた。しかも耕地面積は減少しており、農業人口が増えたからといって、それに見合う仕事が新たに生まれたわけではなかった。同じ白書は、増えた人々が不完全な就業状態にありながらも、何らかの形で農業生産に参加していたと分析している。農村は新たに流入した人々の暮らしを支えたが、その人々が農業に加わったことで、十分な仕事を得られない状態も広がっていたのである。

出典:1955年「年次経済報告」農業/戦後農業の推移と変貌。出典の数値・記述を基に作成。
この人口移動には、疎開や終戦後の帰農政策も関わっていた。1945年3月30日に閣議決定された「都市疎開者ノ就農ニ関スル緊急措置要綱」では、京浜地区から約100万人、名古屋から約20万人、阪神地区から約60万人、合わせて約180万人を対象とする就農・帰農の計画が示されている。疎開者に耕地を提供し、農業訓練を行い、農作業へ参加させることまで想定されていた。
この180万人は実際に就農した人数ではなく、あくまで政府が立てた計画の規模である。しかし、戦争末期に都市から農村へ移った人々を農業に従事させようとしていたことは、こうした政策からも確認できる。
さらに終戦後の1945年11月には、「緊急開拓事業実施要領」が決定された。復員者や引揚者、失業者、戦災者などの就農・開拓を促す政策である。戦後の開拓事業では、1957年の国会答弁によると入植農家が累計約23万戸に達し、約8万戸が離脱した後も約15万5千戸が残っていた。
疎開した人、戦後に農村へ戻った人、新たに開拓地へ入った人の経路はさまざまだったが、戦争を挟んで農村が従来より多くの働き手を抱えるようになったことは、集団就職の背景を考えるうえで重要である。戦前は働き手を都市へ送り出していた農村が、戦争末期から終戦後には人を受け入れる側となり、その後も農業人口はすぐには戦前の水準に戻らなかった。そこに毎年、新しく働き始める若者たちが加わっていくことになる。
農村は、新しく働き始める世代を受け入れられたのか
戦争によって増えた農村の働き手は、その後に中学校を卒業する若者たちの進路にも影響したのではないだろうか。すでに農業に従事している人々だけでも十分な仕事がないのであれば、新しい世代を地元で受け入れる余地は小さくなる。戦争中や終戦直後の人口移動と、その後の中卒者の就職難は、こうした形でつながっていた可能性がある。
実際、1954年の経済白書は、1953年3月時点の農家の「余剰従業員」を約100万~150万人とする政府の推計を紹介している。これは仕事をしていない人の人数ではなく、農業部門の中に潜在的に存在していた過剰な働き手の推計である。白書は、農家が新たな人口を受け入れる力がかなり弱まっていることも指摘していた。
中学校を卒業した若者の就職難も、戦後早くから問題となっていた。1949年4月の政府答弁では、職業安定所が扱う新制中卒者について、男子の求職約12万人に対して求人約5万人という不均衡が示され、約10万人の未就職者が生じる可能性が指摘されている。また、1955年の国会審議では、4月末時点の職業安定所登録中卒求職者約26万5千人のうち、約24万2千人が就職し、約2万3千人が未就職だったと報告されている。
これらは職業安定所が把握した求職者についての数字であり、農家の家業を手伝っていた若者や、職業安定所に登録していなかった人まで含めたものではない。つまり、統計上の未就職者数だけを見ても、農村に潜在していた働き手の問題をすべて捉えることはできないのである。
戦前は都市へ働き手を送り出していた農村が、戦争によって多くの人を受け入れ、農業だけでは新しい働き手を吸収しにくい状態になっていた。そこへ毎年中学校を卒業する若者たちが加わり、一方では復興した都市の企業が地方へ求人を広げていく。集団就職の拡大を考えるとき、都市の人手不足と並んで、戦争によって農村の就業構造が変わったことも大きな背景だったのではないだろうか。
参考資料:1949年の国会会議録(新制中卒者の就職難) / 1955年の国会会議録(中卒者の求職・就職状況)
なぜ都市は地方の若者を必要としていたのか
地方の事情が分かってくると、今度は都市の側にも疑問が生まれる。農村で働き口が不足していても、都市に求人がなければ集団就職は成立しない。東京や名古屋、大阪の企業は、なぜ遠く離れた地方から若者を採用するようになったのだろう。鈴木オートのような小さな事業所まで地方へ求人を広げた背景には、都市の産業発展と労働市場の変化があった。
戦後復興から高度経済成長へ――拡大する若い働き手への需要
戦後、日本の工業生産は急速に回復していった。1955年の経済白書によれば、製造工業の生産指数は戦前を100とすると1946年には28.9まで落ち込んでいたが、1949~50年ごろから鉱工業生産は急速に回復・発展していった。
その後の経済成長によって、製造業や建設業などを中心に雇用が増えていく。1960年の経済白書によると、1959年度には職業安定所を通じた新規中卒求職者が前年度比6%減少した一方、求人数は45%増加し、求人倍率は1.92倍となっていた。都市の企業が若い働き手を求める勢いが、次第に強まっていったことが分かる。
需要が拡大したのは大企業だけではなかった。機械工業や自動車関連産業が発展すれば、それを支える下請工場や部品メーカーにも仕事が増える。さらに商店やサービス業でも若い働き手が必要となり、企業はそれまでより広い範囲から人を採用するようになった。
都市の産業が復興・成長する一方、地方には仕事を求める若者がいた。この二つの動きが結びついたことが、集団就職を大きく広げたのである。
地方と都市では、働き手の数や仕事の量に偏りがあった
地方から若者を採用した背景には、地域による人口構成の違いもあったのだろうか。国立社会保障・人口問題研究所の都道府県別人口統計(表12-12)によると、1955年の0~14歳人口の割合は、青森県37.9%、全国33.4%、東京都28.1%だった。青森のほうが東京よりも、総人口に占める子どもの割合が高かったことになる。

出典:国立社会保障・人口問題研究所「人口統計資料集2025」表12-12(国勢調査等)。出典の数値・記述を基に作成。
ただし、子どもの割合が高いことと、就職を希望する若者の人数が多いことは同じではない。より重要なのは、各地域に存在する働き手の数と、そこで必要とされる労働力の量が一致していなかったことである。
1960年の経済白書は、京浜・中京・阪神などの大工業地帯で求人が急増する一方、東北や山陰、南九州などでは労働需給の改善が比較的弱かったと記している。地域による求人と求職の不均衡が、地方から都市への就職移動を促す背景となっていた。
こうした状況では、地元に働きたい若者がいても、その地域の産業だけでは十分な仕事を用意できない。他方、都市では企業が成長し、人手を求めている。集団就職は、離れた地域の間に存在した労働力の需要と供給を結びつける仕組みでもあった。
大企業と中小企業では、若者の集め方が違っていた
ただし、都市の企業ならどこでも同じように地方から採用していたわけではない。1961年の経済白書には、企業の規模による採用地域の違いが記録されている。1960年度の大工業地区における新規学卒者の採用を見ると、従業員5,000人以上の大企業では採用者の90%以上が同一地域内の出身者だったのに対し、従業員30~99人の小企業や100~999人の中企業では、同一地域出身者は約5割にとどまっていた。
白書は、大企業が採用条件や住宅事情などで有利だったため、まず地元の卒業生を採用できた一方、中小企業は地元だけでは十分な人材を集められず、農村地域にまで求人を広げる必要があったと分析している。

出典:1961年「年次経済報告」雇用/地域間移動の問題。出典の数値・記述を基に作成。
これは、六子が鈴木オートのような小規模事業所へ迎えられたことを考えるうえで興味深い。地方には仕事を求める若者がいて、都市の中小企業は地元だけでは働き手を十分に集められなかった。そうした事情があったからこそ、学校や職業安定所による紹介と集団輸送が大きな意味を持ったのだろう。
六子の上京は、単に地方から都会へ向かう人の流れを描いたものではない。故郷を離れて働こうとする若者と、その若者を必要とする都市の小さな企業が、集団就職という仕組みを通じて結びつく様子を描いた場面でもある。
集団就職で都市へやってきた若者たちは、どのように暮らしていたのか
就職先が決まっても、親元を離れた若者には、働くことだけでなく生活そのものの問題があった。映画では六子が鈴木家と暮らしながら仕事を覚えていくが、住み込みで働く少年少女の生活は実際にはどのようなものだったのだろう。当時の国会会議録には、給料や労働条件をめぐる具体的な問題が残されている。
初任給はいくらで、自由に使えるお金はどれほどあったのか
1958年3月13日の参議院社会労働委員会で、山下義信議員は、世田谷区池尻の商店連合会が中卒の新入社員に提示していた給与の例を取り上げている。月額の初任給は6,200円だったが、その全額が本人の自由に使えるお金になるわけではなかった。
提示された条件では、給料から食費や社会保険料が差し引かれ、小遣いとして本人に渡す金額と、雇い主が預かる積立金が定められていた。
| 項目 | 金額 | 扱い |
|---|---|---|
| 初任給 | 6,200円 | 月額給与 |
| 食費 | 4,000円 | 給与から差し引く |
| 社会保険料 | 130円 | 給与から差し引く |
| 小遣い | 700円 | 本人に渡す |
| 積立金 | 1,370円 | 雇い主が預かる |
※特定の商店連合会について議員が紹介した事例であり、全国平均や映画の六子の給与を示すものではない。
この事例で問題になったのが、1,370円の積立金だった。雇い主は、長く働いた後に退職金のように受け取れると説明していたが、山下議員は、もともと労働者自身の給料だったお金を預かって返すだけでは、本来の退職金とは言えないと批判した。
働き始めたばかりの若者にとって、住み込みは住居や食事を確保できる一方、給料の管理を雇い主に委ねる場合もあった。こうした事情を見ると、当時の初任給について考える際には、月額の数字だけでは見えない生活の実情があったことが分かる。
「家族のように暮らす」住み込み就職の難しさ
同じ国会審議では、求人時に提示された条件と実際の仕事内容の違い、長時間労働、休日、住居などの問題も取り上げられていた。石田博英労働大臣自身が、住み込みでは労働時間が際限なくなり、十分な休息を取りにくい場合があると述べている。一方で、若い就職者を一人で生活させることへの親の不安や、都市で独立した住居を確保することの難しさも議論されていた。
仕事場と生活の場が一つになっていることは、安心につながる場合もあれば、仕事と私生活の境目を曖昧にすることもある。映画の鈴木家は、六子を温かく迎える存在として描かれているが、実際の集団就職者たちの暮らしが、すべて同じようなものだったわけではなかっただろう。
また、地方から送り出された若者には、仕事だけでなく、同世代の仲間と知り合い、都市での新しい生活になじむことも必要だった。くにたち郷土文化館が紹介する1964年の『くにたち公民館だより』には、故郷を離れて住み込みで働く若者たちが、社会について学び、同じ境遇の仲間と交流するための「商工青年学級」が紹介されている。
集団就職によって都市へ向かった若者たちは、単なる労働力ではなく、それぞれに家族や故郷があり、新しい土地で人間関係を築いていく存在でもあった。そう考えると、鈴木オートで仕事を覚え、鈴木家の人々との関係を深めていく六子の姿にも、より具体的な時代背景が見えてくる。
参考資料:参議院社会労働委員会会議録(1958年3月13日)
なぜ集団就職は衰退し、高校進学が一般的になったのか
集団就職は、戦後の地方と都市の雇用を結びつける重要な仕組みとして広がった。しかし、その後は中学校を卒業してすぐに働く若者が減少し、集団就職も次第に姿を消していく。そこには、家庭の経済状況や教育に対する考え方、さらに企業が求める人材の変化が関わっていた。
急速に上昇していった高校進学率
国立社会保障・人口問題研究所の進学率統計によれば、高校進学率は1950年の42.5%から、1960年には57.7%、1965年には70.7%、1970年には82.1%、1975年には91.9%まで上昇した。中学校を卒業して働くことが珍しくなかった社会から、高校へ進むことが一般的な社会へと、大きな変化が起きたのである。

出典:国立社会保障・人口問題研究所「人口統計資料集2026」表11-3(文部科学省「学校基本調査」)。出典の数値・記述を基に作成。
高校進学が増えた背景としては、戦後の経済成長によって進学を選べる家庭が増えたことが考えられる。学校の側でも受け入れ態勢の整備が進み、文部科学省『学制百年史』によれば、昭和30年代には高校教育の拡大に対応した制度の整備や、職業教育の充実が図られていた。
しかし、経済的に高校へ行けるようになったことだけでは、この変化を十分に説明できないように思う。進学が可能になったという条件の変化と、親たちが子どもを高校へ行かせたいと考えるようになったことは、必ずしも同じではないからだ。
では、「高校へ行かせたい」という気持ちは、どのように広がっていったのだろうか。
親たちは、なぜ子どもを高校へ行かせたいと思うようになったのか
この問題を考えるとき、戦前からの学歴と社会的地位との関係が気になる。「末は博士か大臣か」という言葉もあるが、実際に社会の中で高い地位に就いていた人々は、どのような教育を受けていたのだろう。政治家や官僚、企業の経営者、軍の幹部などの学歴が、人々の教育に対する考え方に影響を与えていた可能性はないだろうか。
政治家については、早稲田大学の福元真が1936~1942年の衆議院議員1,086人の経歴を分析した研究がある。2026年に発表されたこの論文によれば、議員の約69%に大学在学経験があったという。大学卒業者の割合ではないものの、当時の衆議院議員には大学で教育を受けた経験を持つ人物が多かったことが分かる。
官僚の世界でも、アジア歴史資料センターの解説が示すように、帝国大学と高等文官試験には深い関係があった。明治時代には帝国大学卒業者の無試験任用が認められた時期もあり、その後は高等文官試験を原則とする制度へ改められている。軍隊にも、参謀などの要職に進むための教育機関として陸軍大学校が存在した。同校の入学者は陸軍士官学校卒業者の1割程度で、卒業者は進級や要職への登用で有利な扱いを受けていたという。
企業の経営者についても、興味深い研究がある。高橋久一「戦時期日本経済連盟会の役割」は、戦前から戦中にかけて有力な財界団体である日本経済連盟会の役員を務めた160人の学歴を調査している。それによると、東京帝国大学出身者は60人(37.5%)、東京高等商業学校出身者は25人(15.6%)だった。全国の企業経営者全体を調べたものではないが、有力な財界人の中にも高等教育を受けた人物が多く、特に後の時期に役員となった人々では大学出身者が中心になっていたことが報告されている。
こうした教育歴と社会的地位の結びつきは、戦後にすべて消えたわけではない。1978年の国会答弁では、外務省本省の幹部と主要在外公館長の計145人のうち111人が東大出身だったと報告されている。政治や行政、経済界などの指導的な立場に高い教育を受けた人々が目立つ状況は、人々が学歴をどう評価するかにも関係していたのかもしれない。
もっとも、こうした人々の学歴が、一般家庭の親たちの進学希望にどの程度影響したのかについて、本当のところは分からない。戦前からの学歴に対する評価が、その後の教育への期待に影響したというのは、一つの仮説にすぎない。
ただ、進学率の上昇を考えるうえでは、経済的に高校へ行かせられるようになったという条件だけでなく、親たちが子どもの教育に何を期待するようになったのかという意識の変化も、重要な問題ではないだろうか。教育を受けることが将来の仕事や社会的な地位と結びついて見えること、そして高校進学が次第に身近な選択肢になっていくこと。そうした変化が重なり合って、「子どもを高校へ行かせたい」という気持ちが広がっていった可能性も考えられる。
企業が高卒者を求めたのか、それとも進学者が増えたのか
高校進学が一般的になった背景には、企業の採用方針も関係している。ここで考えたいのは、企業が高卒者を求めるようになったから進学者が増えたのか、それとも進学する人が増えて中卒者を採用しにくくなったため、企業が高卒者へ採用を切り替えたのかという問題である。
1970年の経済白書によれば、1969年の就職者数は中卒約32万人、高卒約78万人となっており、企業には中卒者の不足を受けて高卒者へ採用を切り替える動きが見られた。これは、企業が最初から高卒者だけを必要としていたわけではなく、中卒で就職する若者が減ったことによって採用方針を変えた側面があったことを示している。
一方で、企業がより長い教育を受けた人材を積極的に必要とする理由も生まれていた。1961年の経済白書は、技術革新によって企業が求める労働力が変化し、新しい技術に対応する技術者や技能労働者として、高卒者への需要が生じていたことを指摘している。
つまり、進学率が上がったために企業が高卒採用へ切り替えた側面と、企業が新しい技術を担う人材として高卒者を必要とした側面の両方があったと考えられる。
- 中卒者不足による採用の切り替え:高校進学が増え、中卒の求職者が減少したため、従来の仕事を高卒者に任せるようになった。
- 新しい技術に対応する人材への需要:産業の高度化に伴い、より長い教育や専門的な訓練を受けた人材が求められるようになった。
こうした変化は、どちらか一方がすべての原因だったというより、進学する若者の増加と企業の採用方針の変化が、互いに影響し合いながら進んでいったものではないだろうか。
工業高校の拡充と高専の誕生
企業が新しい技術を担う人材を求めるようになったことは、教育制度の変化からも見ることができる。文部科学省『学制百年史』によれば、昭和30年代には産業界の要請に応じて工業関係の高校や学科の新設・増設が進められた。工業高校は、専門的な職業教育を受けた人材を育てる場として重要な役割を担っていった。
さらに1961年には高等専門学校の制度が成立し、1962年度から中学校卒業後5年間の一貫教育を行う高専が発足した。文部科学省『学制百年史』によれば、その背景には産業構造の高度化や科学技術の進歩に伴う技術者不足があり、専門的な教育を通じて技術者を育成することが強く求められていた。
高専の創設に至る構想は1950年代から議論されており、1961年の国会答弁では、将来の科学技術者約17万人、工業高校卒程度の技能者約44万人の不足が予測されていた。高専は主として前者の技術者を養成するための制度として位置づけられ、工業高校の拡充とあわせて技術教育を充実させる方針が示された。
1962年度の国立高専の入学競争率は17.5倍に達したという。新しい産業を担う技術者の育成が、それほど重要な課題になっていたのである。
高専の誕生だけで一般家庭の高校進学希望を説明することはできないが、企業が必要とする人材と、その人材を育てる教育制度が変わっていったことはよく分かる。集団就職によって中卒の若者を大量に採用していた社会は、教育と産業の両面から少しずつ姿を変えていったのである。
『ALWAYS 三丁目の夕日』の六子から見えてくる集団就職の時代
六子が青森から東京へやってきた背景には、単に地方の若者が都会に憧れていたというだけでは説明できない、社会の大きな変化があった。
戦前の農村は都市へ働き手を送り出す側だったが、戦争末期には疎開などによって逆に都市から人が流入し、終戦後も帰農や開拓が進められた。農業人口が増え、耕地も限られる中で、新たに中学校を卒業する若者たちを地元で受け入れることは難しかったのではないだろうか。一方、復興し成長する都市の企業は若い労働力を求めていた。学校や職業安定所、就職列車は、この地方と都市を結びつける役割を果たした。
そして、企業の中でも特に中小規模の事業所は、地元だけでは人を集めにくく、地方へ採用先を広げていた。こうした事情を知ると、六子が東京の小さな自動車修理工場に迎えられるという設定も、当時の社会の中に位置づけて理解できるようになる。
もっとも、集団就職によって都市へやってきた若者たちの暮らしが、すべて映画のように温かなものだったわけではない。住み込みの生活には安心できる面もあった一方で、給料の管理や労働時間、休日などをめぐる問題もあり、当時の国会で議論されるほどだった。鈴木家で働きながら家族の一員のようになっていく六子の姿も、そうした実情を知ることで、また違った印象を持つかもしれない。
その後、日本では高校進学が一般的になり、中学校を卒業してすぐに働く若者は減少していった。企業も高卒者へ採用を切り替え、新しい技術に対応する人材を育てる教育制度も整えられていく。集団就職は、そうした変化の中で次第に役割を終えていった。
『ALWAYS 三丁目の夕日』で六子がやってきたのは、戦争の影響を残しながら、復興と経済成長によって社会が大きく変わろうとしていた時代だった。故郷を離れて東京で働き始める六子の姿には、当時の多くの若者たちが経験した出来事と、日本社会の変化が重なっているのである。
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