【インサイド・ヘッド考察】なぜカナシミは必要なのか?悲しみが教える「大切なもの」
映画「インサイド・ヘッド」を見ていて、最も役に立っていないように見える感情が「カナシミ」である。
ヨロコビはライリーを楽しい気持ちにし、ビビリは危険から守り、ムカムカは嫌なものを避けさせ、イカリは理不尽なことに怒ってくれる。ところがカナシミだけは、自分でも何をすればいいのかよく分かっていない。それどころか、ライリーの大切な思い出に勝手に触り、それまで黄色だった記憶を青く変えてしまう。
ヨロコビからすれば迷惑な話である。ライリーを幸せにするために守ってきた楽しい思い出を、カナシミが次々と悲しいものに変えてしまうのだから、できるだけ何もさせないようにするのも当然に見える。
しかし映画を最後まで見ると、ライリーを救うために必要だったのは、その「何もしないほうがいい」と思われていたカナシミだった。
では、なぜ「インサイド・ヘッド」にはカナシミが必要だったのだろうか?
もちろん、「悲しいときには誰かに助けを求めることができる」「悲しみも人間に必要な感情である」という説明はできるし、映画の中でも実際にその機能は描かれている。ただ個人的には、それだけではカナシミが楽しい思い出に触りたがる理由や、最後に一つの思い出へ複数の感情が混ざるようになる理由まで十分には説明できないように思う。
私がこの映画で最も重要だと思うのは、「悲しみとは、自分にとって何が大切なのかを教えてくれる感情である」ということである。
そう考えると、カナシミが思い出を青くすることも、人格の島が崩壊することも、ライリーがミネソタへ逃げ帰ろうとすることも、ビンボンがカナシミによって立ち直ることも一つにつながってくる。
- カナシミが教える「大切なもの」: 人は何でも失えば悲しむわけではない。悲しみは、失ったものが自分にとって大切だったことを教えてくれる。
- 思い出が青くなる理由: 過去の出来事そのものが変わるのではなく、成長した現在の自分から見た「思い出の意味」が変わっていく。
- 悲しむことで前へ進める: ビンボンが立ち直れたように、悲しむことは失ったものを取り戻すことではなく、「大切だった」と認めて喪失を受け入れることでもある。
- 複数の色が示す成長: 最後に一つの思い出へ複数の色が混ざるのは、一つの出来事を一つの感情だけではなく、複数の側面から見られるようになったことを表している。
- 悲しみから生まれる自己理解: ライリーは悲しみを通して「自分は何を大切にする人間なのか」を知り、親とは別の価値判断を持つ一人の人間として成長し始める。
- カナシミが必要なのは、「自分にとって何が大切か」を知るため
- カナシミが楽しい思い出に触るのは、その思い出が「失った大切なもの」になったから
- 思い出が青くなるのは、記憶そのものではなく「その記憶の見え方」が変わったから
- 最後の思い出が複数の色になるのは、一つの経験に複数の側面があると分かったから
- 人格の島が崩壊するのは、ライリーが「自分は何者か」を作り直しているから
- ビンボンがカナシミによって立ち直れたのは、「失ったものが大切だった」と認められたから
- ライリーがミネソタへ戻ろうとしたのは、失った過去を「悲しむ」ことができなかったから
- ライリーが両親の前で泣けたのは、「自分にとって何が大切か」を言葉にできたから
- 「インサイド・ヘッド」が描く成長とは、「何を感じるか」ではなく「その感情の意味を知ること」
カナシミが必要なのは、「自分にとって何が大切か」を知るため
まず考えたいのは、そもそも人はなぜ悲しむのかということである。悲しみを単純に「嫌なことがあったときに生まれる感情」と考えるだけでは、カナシミがこの映画で果たしている役割は少し見えにくい。
悲しみは、失ったものが自分にとって大切だったと教えてくれる
悲しいという感情について考えるとき、最初に重要なのは、人は何でも失えば悲しむわけではないということである。自分とは何の関係もない物がどこかでなくなっても普通は悲しくない。しかし、自分が長く使っていた物や、大切な人からもらった物を失えば、値段とは関係なく悲しくなる。
つまり、失ったという事実だけで悲しみが発生しているわけではない。その対象が自分にとって「大切なもの」になっていたからこそ悲しいのである。
これはライリーにもそのまま当てはまる。彼女は引っ越しによってミネソタの家、友達、ホッケーチーム、学校、そしてそこで過ごしてきた時間を失った。しかし、引っ越しをした瞬間にそれらの意味をすべて理解できていたわけではない。
- ミネソタの家:幼い頃から家族と暮らしてきた場所
- 友達:これまで当たり前のようにそばにいた人間関係
- ホッケー:ライリーが好きで、自分らしさにもつながっていたもの
- 学校や日常:慣れ親しんだ生活そのもの
- そこで過ごした時間:もう同じ形では取り戻すことのできない過去
失ってみて初めて、「自分はあの生活を大切にしていたのだ」と分かる。
この意味で考えると、カナシミは単純にライリーを悲しい気持ちにするためだけに存在しているのではない。ライリー自身もまだ気づいていない「自分にとって大切なもの」を教える役割を持っているということになると思う。
ヨロコビだけでは、「何を大切にしていたのか」までは分からない
その一方で、ヨロコビは基本的に「何かを得たとき」に強く働く感情である。友達ができた、プレゼントをもらった、ホッケーで活躍した、家族と楽しい時間を過ごした。その瞬間に「嬉しい」ということはすぐに分かる。
ただ、その出来事が自分の人生にとってどれほど大切なものになるのかは、その時点では分からないことも多い。何年も経ってから思い返したときや、それを失ったときに初めて「あの時間は自分にとって特別だった」と気づくことがある。
そう考えると、ヨロコビとカナシミは完全に反対のことをしているようでいて、実は同じ「大切なもの」を別の時間から見ている。
- ヨロコビ:大切なものを手に入れたときに生まれる
- カナシミ:大切なものを失ったときに生まれる
だから映画の序盤でヨロコビがカナシミを理解できないことにも意味が出てくる。ヨロコビにとって、ライリーを幸せにするとは、最初に生まれた「楽しい」という感情をできるだけそのまま残すことである。楽しかった思い出なら、ずっと楽しいままでいてほしい。
しかし、人間は過去の出来事を最初に感じた感情だけで見続けるわけではない。
そのことをヨロコビが知っていくのが、この映画の物語でもある。
カナシミが楽しい思い出に触るのは、その思い出が「失った大切なもの」になったから
このカナシミの役割が最初に目に見える形で現れるのが、楽しい思い出に触れてしまう場面である。ヨロコビにとっては明らかな異常行動なのだが、映画全体を振り返ると、ここで起きていることにはきちんと意味があったように思う。
カナシミは思い出を壊しているのではなく、その意味を変えている
「インサイド・ヘッド」で最初に不思議なのは、カナシミがなぜライリーの楽しい思い出に触りたがるのかということである。
本人にも理由が分からないのだから、ヨロコビにはもっと分からない。カナシミが触れれば黄色かった思い出は青くなり、それまで楽しかった記憶が悲しい記憶へ変わってしまう。そのためヨロコビは、床に円を描いてカナシミをその中へ入れ、何も触らせないようにする。
ただ、本当にあの場面で「思い出そのもの」が変わっているのだろうか。
ミネソタで友達と遊んだことも、ホッケーを楽しんだことも、家族と一緒に笑ったことも変わってはいない。その出来事が存在したという過去までカナシミが書き換えているわけではない。
変わったのは、現在のライリーから見たその思い出の意味である。
ミネソタに住んでいた頃なら、友達と遊んだ記憶はただ楽しい。しかしサンフランシスコへ引っ越し、もう同じようには会えなくなったあとで思い出せば、その楽しさには「もう戻れない」という悲しさも加わる。
カナシミが思い出に触れたから大切な記憶が壊れたのではない。むしろ、大切な記憶だったからこそ、失ったあとには悲しみが加わったと考えるほうが自然なのだと思う。
楽しかった思い出が悲しくなるのは、その時間が大切だった証拠
この感覚は、映画の中だけの特殊なものでもない。昔の写真を見ていると、写っている出来事自体は楽しいものなのに、なぜか少し寂しくなることがある。
写真の中で嫌な出来事が起きているわけではない。むしろ幸せそうであればあるほど、同じ時間が二度と来ないことを知っている現在の自分には悲しく見えることもある。
その場合、「楽しかった」という昔の感情と、「もう戻れない」という現在の感情のどちらかが間違っているわけではない。両方とも本当なのである。
だからこそ、ヨロコビとカナシミは本来なら敵同士ではない。
楽しかったから大切になり、大切だったから失ったときには悲しい。
二人は最初から同じものについて語っていた。ただ、ヨロコビにはまだそのことが分からなかった。
思い出が青くなるのは、記憶そのものではなく「その記憶の見え方」が変わったから
では、カナシミが触れた思い出が青くなるという演出は、具体的に何を表しているのだろうか。ここでは「感情が記憶を塗り替える」というより、時間とともに過去の見え方が変化することとして考えたほうが分かりやすい。
同じ思い出でも、時間がたてば違う意味を持つ
ライリーの思い出が青くなる場面について、「楽しい記憶が悲しい記憶に書き換えられた」と考えると、カナシミは相変わらず少し危険な存在に見える。
ただ、人間の記憶を考えれば、これはそれほど不自然なことでもないと思う。
子どもの頃には腹が立って仕方がなかった出来事を、大人になってから思い返すと笑えることがある。その一方で、当時は何とも思っていなかった日常の一場面が、あとになって大切な記憶になることもある。
もちろん過去に起きた出来事そのものが変わったわけではない。
変わったのは、それを見る現在の自分である。
- 過去に起きた出来事そのものは変わらない
ミネソタで友達と遊んだことや、家族と過ごしたことはそのまま残っている。 - 変わるのは、現在の自分から見た意味
当時はただ楽しかった記憶に、「もう戻れない」という別の意味が加わる。 - だから思い出には複数の感情が入り込む
記憶が壊れたのではなく、その記憶を見るライリー自身が変わった。
そう考えれば、思い出の色が変わることも理解しやすい。黄色から青へ変わったというよりも、黄色だけでは説明できない記憶になったということなのではないだろうか。
過去の意味を変えられることが、ライリーの成長につながっている
もし人間が、最初に感じた感情だけで過去を見続けるのであれば、楽しかったことは永遠に楽しいだけで、嫌だったことは永遠に嫌なだけになる。
しかし、経験が増えれば過去の見え方も変わる。当時は分からなかった相手の事情が分かることもあれば、何でもないと思っていた出来事の価値に気づくこともある。
個人的には、この部分こそ「インサイド・ヘッド」における成長の重要なところだと思う。
一つの出来事には、最初に見えたもの以外の側面もある。
それを理解することで、過去そのものを消すことなく、その意味だけを変えていくことができる。カナシミはライリーから楽しい思い出を奪っているのではなく、ライリーが成長したことによって見えるようになった別の側面を付け加えているのである。
最後の思い出が複数の色になるのは、一つの経験に複数の側面があると分かったから
そして映画は最後に、それまで続いてきた「一つの思い出には一つの色」という仕組みそのものを変える。一つの記憶に複数の色が混ざるようになることは、ここまで描かれてきたライリーの変化を最も分かりやすく表した演出だと思う。
ライリーは一つの出来事を一つの感情だけで判断しなくなった
そのことが最も分かりやすく描かれるのが、映画の最後に生まれる複数の色を持った思い出である。
それまでの思い出は、黄色ならヨロコビ、青ならカナシミ、赤ならイカリというように、基本的には一つの感情によって色が決まっていた。しかし最後には、一つの記憶の中に複数の色が混ざるようになる。
この変化を「成長したことで感情が複雑になった」と説明することはできる。
ただ私としては、感情そのものが複雑になったというより、一つの出来事には一つの意味しかないわけではないとライリーが理解できるようになったと考えたほうが、この映画全体には合っているように思う。
- 楽しかったけれど、同時に悲しい
- 怖かったけれど、今では大切な経験だったと思える
- 腹が立ったけれど、あとから相手の気持ちも理解できる
一つの出来事に対して複数の感情を持てるということは、その出来事を複数の方向から見ることができるということである。
感情が複雑になったのではなく、物事の見方が複雑になった
考えてみれば、ヨロコビ、カナシミ、イカリ、ビビリ、ムカムカという感情自体は物語の最初から存在している。映画の最後になってライリーの中へ突然「複雑な感情」という新しい何かが追加されたわけではない。
変わったのは、それまで独立していた感情同士の関係である。
中でも最も大きく変わったのはヨロコビであろう。序盤では、カナシミを遠ざけることがライリーの幸せにつながると信じていた。しかし最後には、自分からカナシミに司令盤を譲る。
これは単純に「悲しいときは悲しんでもいい」と理解しただけではないと思う。
大切なものを得たときに生まれる喜びと、大切なものを失ったときに生まれる悲しみは、最初からつながっていた。
カナシミを理解することによって、ヨロコビ自身も初めて「喜びとは何なのか」を理解した。
だから映画の最後では、思い出を一つの感情だけが独占する必要もなくなったのである。
人格の島が崩壊するのは、ライリーが「自分は何者か」を作り直しているから
思い出の意味が変わることは、司令部の中だけで終わる話ではない。それまでの記憶によって支えられていた「人格の島」まで崩壊していくことを考えると、この変化はライリー自身の自己認識にも及んでいる。
ライリーは思い出を失ったのではなく、その意味を問い直している
物語の途中では、ライリーの人格を構成していた「人格の島」が次々と崩壊していく。家族、友情、ホッケーなど、それまで彼女を支えていたものが機能しなくなっていくので、ライリー自身が壊れていくようにも見える。
ただ、そこでライリーが家族や友達についての記憶をすべて失っているわけではない。ミネソタで家族と暮らしたことも、友達と遊んだことも、ホッケーをしたことも覚えている。
それでも人格の島は崩れる。
だとすれば、壊れているのは思い出そのものではなく、その思い出によって作られていた「私はこういう人間である」という自己理解のほうではないだろうか。
ミネソタにいた頃のライリーにとって、家族は楽しいものだった。友情もホッケーも同じである。それぞれの思い出がそのまま人格の島を支えることができた。
ところが引っ越しをすると、家族は大切なのに親に腹が立ち、友達は大切なのに離ればなれになり、好きだったホッケーもうまくいかない。
- 家族:大切な存在である一方、引っ越しを決めた両親には腹も立つ
- 友情:大切な友達なのに、離ればなれになり同じ関係ではいられない
- ホッケー:大好きなものなのに、新しい環境では思うようにいかない
それまでの単純な説明では、自分の感情を処理できなくなってしまう。
幼い頃の価値観だけでは、今の自分を説明できなくなった
映画の序盤までのライリーの世界は、嫌なことが存在しない「ユートピア」だったわけではない。イカリもビビリもムカムカも、生まれたときからきちんと仕事をしている。
それでも、一つの出来事には基本的に一つの感情を与えておけば理解することができた。
ところが成長すると、それでは足りなくなる。
大好きな両親に怒ることもある。大切な友達を羨ましく思うこともある。楽しかった記憶を思い出して泣くこともある。
そうなれば、それまでの「家族の島」「友情の島」「ホッケーの島」が同じ形で残り続けるほうがおかしい。
人格の島の崩壊は、ライリーの人格がなくなった場面ではなく、「私はこういう人間だ」という幼い頃の自己理解が作り直されている場面と見ることができると思う。
そして、その新しい自己を作るためにも、「自分は何を大切にしているのか」を知るカナシミが必要になる。
ビンボンがカナシミによって立ち直れたのは、「失ったものが大切だった」と認められたから
ここまで述べてきた悲しみの役割を、かなり分かりやすい形で実演しているのがビンボンの場面である。ヨロコビとカナシミが同じ相手にまったく違う方法で接するため、二つの感情の違いがはっきりと見えてくる。
ヨロコビはビンボンを元気にしようとし、カナシミは「なぜ悲しいのか」を聞いた
この映画におけるカナシミの役割が最も分かりやすく描かれているのが、ビンボンが落ち込む場面である。
思い出のロケットを失ったビンボンに対して、ヨロコビはいつものように明るく励まそうとする。楽しいことをして気分を変えさせようとするのだが、ビンボンはまったく立ち直らない。
そこでカナシミが隣に座り、ビンボンの話を聞く。
- ヨロコビ:悲しんでいる状態を終わらせようとする
- ヨロコビ:楽しいことへ気持ちを向け、元気にしようとする
- カナシミ:なぜ悲しいのかを聞く
- カナシミ:失ったものについて話をさせる
- カナシミ:「それほど大切なものだった」と認める
そしてビンボンが悲しんでいる理由は、単純にロケットという物体を失ったからではない。
あのロケットには、幼いライリーと一緒に遊んだ時間が詰まっている。つまりビンボンが悲しんでいたのは、ライリーとの大切な過去を失いつつあるからである。
カナシミは、その悲しみをなくそうとはしない。むしろ、ビンボンが何を失ったのかを一緒に確かめていく。
それは、「そんなことで悲しむな」と否定するのではなく、「それは悲しむだけの価値がある大切なものだった」と認めることでもある。
ビンボンはロケットを取り戻したからではなく、失ったことを受け入れたから前に進めた
この場面で重要なのは、ビンボンが立ち直ったにもかかわらず、失ったものは何一つ戻っていないということである。
ロケットは戻らないし、ライリーと一緒に遊んでいた幼い頃へ戻ることもできない。現実の状況だけを見れば、カナシミが来る前と来たあとで何も改善していない。
それでもビンボンは泣いたあとに自分から立ち上がる。
つまり、悲しむことによって「これは自分にとって大切なものだった。そして、それはもう失われた」という二つのことを受け入れることができたのである。
- ロケットは戻っていない
- ライリーとの過去にも戻れない
- それでも「大切だった」と認めることはできる
- その結果、失ったままでも前へ進める
悲しむという行為は、失ったものを取り戻すことではない。失ったものが自分にとって大切だったと認めることである。
だからビンボンは、過去を取り戻さなくても前へ進むことができた。
そして、この「悲しんだあとに前へ進む」という流れは、その後のライリーでは正反対の形で描かれる。
ライリーがミネソタへ戻ろうとしたのは、失った過去を「悲しむ」ことができなかったから
ビンボンの場面で「悲しむことで失ったものを受け入れる」という働きが描かれたあと、映画はそれができない場合に何が起こるのかをライリー自身で見せる。そこで選ばれるのが、ミネソタへ戻るという行動である。
ライリーが取り戻そうとしたのは、ミネソタではなく「引っ越す前の自分」
物語の終盤で、ライリーは両親のクレジットカードを持ち出し、バスに乗ってミネソタへ帰ろうとする。
もちろん表面的な理由は分かりやすい。サンフランシスコでの生活がうまくいかないので、楽しかったミネソタへ戻りたいのである。
ただ、ライリーが本当に取り戻そうとしているのは、地理上のミネソタという場所だけではないと思う。
友達がいて、ホッケーを楽しみ、家族とうまくいっていた頃の生活である。
つまりライリーは、ミネソタへ移動しようとしているというより、「引っ越しをする前の自分」に戻ろうとしている。
- 友達がそばにいる生活
- 好きなホッケーを楽しめる生活
- 家族とうまくいっていた生活
- 引っ越しによってすべてが変わる前の自分
しかし当然ながら、それはできない。
たとえミネソタへ戻ることができても、引っ越しが起きたという事実も、その間に経験したことも消えるわけではない。時間そのものを戻すことはできないからである。
カナシミがいないライリーには、「戻れないものを大切だったと認める」という選択肢がなかった
ここで、先ほどのビンボンとの違いが出てくる。
ビンボンはロケットを失ったあと、それが自分にとって大切なものだったと認めることで前へ進むことができた。
しかし、このときのライリーの司令部にはカナシミがいない。
そのため、ライリーには「ミネソタでの生活はもう戻らない。しかし、自分にとって大切なものだった」と受け入れるための感情が欠けている。
失ったものを「失った」と認めることができなければ、それを取り戻そうとするしかない。
だからミネソタへ戻ろうとする。
この意味では、ライリーの家出は単純にホームシックが強くなった結果というよりも、失った過去を悲しむことができないために、その過去そのものを復元しようとした行動と見ることができると思う。
そしてライリーが家出をやめることができたのも、「家出は悪いことだ」と理性を取り戻したからだけではない。
戻れないものを戻そうとするのではなく、自分が何を失い、なぜ悲しかったのかを認める方向へ動き始めたからなのである。
ライリーが両親の前で泣けたのは、「自分にとって何が大切か」を言葉にできたから
ミネソタへ戻ることをやめたライリーは、今度は失ったものを取り戻そうとするのではなく、その悲しみを両親に伝える。ここで悲しみは、ライリーの中だけにある感情から、初めて他人へ伝えられる「自分の価値」へと変わっていく。
怒りによる「嫌だ」から、価値に基づく「私はこれを大切にしている」へ変わった
家へ戻ったライリーは、両親の前でミネソタが恋しいと打ち明ける。
友達が恋しい。昔の家が恋しい。そして、お父さんとお母さんにも同じようにミネソタを恋しいと思ってほしい。
そこでようやくライリーは泣くことができる。
物語の序盤から、ライリーは引っ越しに対して不満を示している。食卓ではイカリが暴走し、父親と言い争いにもなる。だから「嫌だ」と表明すること自体が最後になって初めてできたわけではない。
ただ、序盤の怒りと最後の悲しみでは、「嫌だ」の中身が違う。
- 序盤の「嫌だ」:新しい家、新しい学校、引っ越しそのものへの反応
- 終盤の「嫌だ」:「私はミネソタで過ごした時間を大切にしていた」という価値判断
新しい家が嫌だ、新しい学校が嫌だ、引っ越しが面倒だという感情は、その出来事の最中にも持つことができる。
一方で、「私はミネソタで過ごした時間を大切にしていた」と知るためには、一度それを失う必要がある。
最後のライリーは、自分が嫌なことを主張しているだけではない。
「私はこれを大切にする人間なのだ」と、自分自身の価値を初めて言葉にしている。
悲しみを言葉にしたことで、ライリーは親とは別の価値判断を持ち始めた
この意味では、最後の場面は親子関係の変化としても見ることができると思う。
それまでのライリーは、基本的には親から与えられる側の子どもである。住む家も生活も学校も親によって用意され、その中で喜び、怒り、怖がり、嫌がってきた。
しかし最後には、その親が決めた引っ越しについて「私は悲しい」と伝える。
親に反抗したというだけなら食卓でもすでにやっている。しかし、自分にとって何が大切だったのかを理解したうえで、それを親に伝えることには別の意味がある。
ライリーの中に、親とは別の価値判断が生まれ始めているのである。
もちろん、まだ11歳のライリーがこの瞬間に完全に自立したという話ではない。それでも、両親が用意した世界をそのまま受け取るだけの子どもから、自分が何を大切にするのかを自分で知る人間へ少しだけ変わった。
そして両親も、そこで初めてライリーの「悲しみ」を知る。
親が子どもの成長に気づくとは、こういうことなのかもしれない。
「インサイド・ヘッド」が描く成長とは、「何を感じるか」ではなく「その感情の意味を知ること」
ここまで見てきたことをまとめると、ライリーの成長は単純に「感情が増えた」「感情が複雑になった」という話ではないと思う。自分がなぜ喜び、なぜ怒り、そしてなぜ悲しむのかを知ることで、自分自身について理解し始めたことのほうが重要である。
悲しみはライリーに「私は何を大切にする人間なのか」を教えた
ここまで考えると、「インサイド・ヘッド」におけるカナシミは単なる五つの感情の一つというだけではなく、ライリーが「自分は何者なのか」を知るためにも重要な役割を持っていることになる。
なぜ自分は悲しいのかと考えれば、その先には必ず「自分は何を失ったのか」という問題がある。
そして、なぜそれを失うと悲しいのかと考えていけば、「自分は何を大切にしているのか」というところへ行き着く。
- 家族:自分にとってどれほど大切な存在なのか
- 友達:一緒に過ごしてきた時間がどれほど大切だったのか
- ホッケー:自分が何を好きで、何を自分らしいと感じているのか
- ミネソタでの生活:自分がどのような時間を大切にしてきたのか
悲しみは、その答えを本人に突きつけてくる。
その意味では、カナシミはライリー本人よりも先に、ライリーが何を大切にしているのかを知っている感情とも言えると思う。
だから彼女は、本人にも理由が分からないまま大切な思い出に手を伸ばしていたのではないだろうか。
「何が大切か」を知ったライリーは成長したが、まだ大人になったわけではない
ただ、映画の最後でライリーがすべてを理解したわけではない。
彼女が知ったのは、とりあえず「ミネソタでの生活は自分にとって大切だった」ということだろう。それだけでも十分に大きな変化なのだが、「なぜあの時間が大切だったのか」というところまで考えるには、もう少し長い時間が必要になると思う。
ミネソタという場所だから大切だったのか。友達がいたからなのか。家族と過ごしたからなのか。それとも、もう二度と戻ることのできない子ども時代だったからなのか。
おそらく、ライリーが成長していけば、同じ記憶はこれからも何度も違う意味を持つ。
そして個人的には、その意味が大きく変わる一つの瞬間が、ライリー自身が親になったときなのではないかと思う。
自分の子どもが初めて何かを経験し、ただ無邪気に喜んでいる。その姿を見たとき、かつて自分が何を与えられていたのかを初めて理解することもあるだろう。
子どもの頃には、ただ嬉しかった。
しかし大人になれば、その喜びを与えてくれた誰かがいたことも、その時間が永遠には続かないことも分かる。
そのとき、昔の黄色い思い出には、また別の色が加わるのかもしれない。
だから、悲しみを知らなかった頃のヨロコビが幼稚で価値のない感情だったわけではない。むしろ反対である。
- 悲しみは、自分にとって何が大切だったのかを教える
- 思い出そのものではなく、成長した自分から見た「意味」が変わる
- 一つの経験を複数の感情から見られることが、ライリーの成長として描かれている
- 悲しむことで、失ったものを取り戻さなくても前へ進める
- その積み重ねが「私は何を大切にする人間なのか」という自己認識につながる
大切なものを持っていたから人は喜び、それを失うから悲しむ。そして悲しむことによって、初めて「あれは大切なものだった」と知る。
「インサイド・ヘッド」の最後でライリーができるようになったのは、悲しみを克服することではなかった。
悲しみもまた、自分が何者なのかを知るために必要な感情として受け入れることだった。
ヨロコビが必死になって守ろうとしていた「大切な思い出」は、カナシミが触れたくらいでは壊れない。
むしろ、それを失って悲しむことができるようになったときにこそ、ライリーは初めて、その思い出が本当に自分にとって大切なものだったことを知ったのだと思う。
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