【シン・エヴァンゲリオン劇場版】あらすじ(ネタバレ)と考察 -「分身」が織りなす物語と虚構の解体
2021年に公開された庵野秀明総監督による「エヴァンゲリオン」シリーズの完結編、「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇(公式)」。
四半世紀にわたる物語に見事な幕を下ろした本作は、一体どのような構造で「エヴァの終焉」を描き切ったのだろうか。
本記事では、結末までの詳細なあらすじを振り返りつつ、登場人物たちを創造主の投影と捉える「分身の作劇としての物語」、『もののけ姫』と通底する「タタラ場としての第3村」、そして閉じた円環を破壊した「真希波マリという『外部』」という3つの独自の観点から考察を行っていく。
まずは、本作の基本情報から確認しよう。
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「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の作品基本情報
作品概要
| 作品名 | シン・エヴァンゲリオン劇場版 |
|---|---|
| 公開日 | 2021年3月8日 |
| 総監督・脚本 | 庵野秀明 |
| 制作 | スタジオカラー |
| 主題歌 | 宇多田ヒカル「One Last Kiss」 |
| 上映時間 | 155分 |
主要な登場人物とキャスト一覧
| 登場人物 | キャスト | 役割・解説 |
|---|---|---|
| 碇シンジ | 緒方恵美 | 本作の主人公。前作での出来事から心を閉ざし抜け殻となっていたが、第3村での生活や人々との交流を経て、再び自身の運命と向き合う決意をする。 |
| アヤナミレイ(仮称) | 林原めぐみ | ネルフ所属のパイロット。シンジらと共に第3村に辿り着き、農作業や村人との触れ合いを通して人間らしい感情や言葉を学んでいく。 |
| 式波・アスカ・ラングレー | 宮村優子 | ヴィレに所属するエヴァ搭乗員。心を閉ざしたシンジを厳しくも放っておけず第3村へと導き、自身もネルフとの最終決戦へと身を投じる。 |
| 葛城ミサト | 三石琴乃 | 反ネルフ組織「ヴィレ」の旗艦AAAヴンダーの艦長。世界を救うという大義のため、私情を押し殺してネルフの計画阻止に挑む。 |
| 碇ゲンドウ | 立木文彦 | シンジの父親でありネルフ最高司令官。自身の悲願である妻・ユイとの再会を果たすため、人類補完計画の完遂を推し進める。 |
| 渚カヲル | 石田彰 | これまでの物語でシンジの前に姿を現してきた少年。本作ではマイナス宇宙において、自身の真の目的とシンジへの想いを語る。 |
| 真希波・マリ・イラストリアス | 坂本真綾 | ヴィレに所属するエヴァ搭乗員。アスカをサポートしながら過酷な戦いを生き抜き、最終局面においてシンジを迎えに行く役割を担う。 |
人物相関図
「シン・エヴァンゲリオン劇場版」のあらすじ(ネタバレなし)
物語の幕開けは、赤く染まったパリ市街地。葛城大佐率いる反ネルフ組織「ヴィレ」のクルーたちは、エヴァ改8号機を駆る真希波・マリ・イラストリアスらと共に、無人となったネルフヨーロッパ支部を再稼働させるための切迫した作戦に従事していた。迫り来るネルフのエヴァ群による執拗な妨害を退け、彼らは辛くも補給物資の確保と街の浄化に成功する。
一方、前作「Q」での絶望的な惨劇を経て、文字通り「抜け殻」となってしまった碇シンジは、式波・アスカ・ラングレーに手を引かれ、アヤナミレイ(仮称)と共に赤い大地をあてどなく放浪していた。やがて彼らがたどり着いたのは、ニア・サードインパクトの生き残りたちが身を寄せ合って暮らす避難民の集落「第3村」であった。
そこには、かつての同級生である鈴原トウジや相田ケンスケ、洞木ヒカリたちの、すっかり大人になった姿があった。村での食料は厳格な配給制であり、決して豊かとは言えないギリギリの生活環境である。ただ、人々は互いに助け合い、新たな命を育みながら懸命に日常を紡いでいたのである。
ネルフの施設外で初めて「人間の営み」に触れたレイ(仮称)は、村人たちから「そっくりさん」と呼ばれながらも、農作業や赤ん坊との触れ合いを通じて、スポンジのように人間的な感情を獲得していく。対照的に、シンジは凄惨な過去(渚カヲルの死)から一切立ち直ることができず、アスカの首に巻かれたDSSチョーカーを見てはパニックを起こし、誰とのコミュニケーションも拒絶し続けていた。
かつての級友たちが向ける無条件の優しさすらも、今の彼にとっては己の罪をえぐるものに過ぎなかった。そんな殻に閉じこもって何もしようとしないシンジに対し、過酷な現実を生き抜いてきたアスカは苛立ちを募らせ、ひどく叱責する。
村の人々が綱渡りのような状況下で懸命に「生」を繋ぐ中、あえて孤独な廃墟へと逃げ込むシンジ。前を向いて生きようとする者たちと、過去の罪に縛られて呼吸を止めた少年。残酷なまでに温かく美しい第3村の風景の中で、シンジの閉ざされた魂は、果たして再び顔を上げることができるのだろうか。
「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の結末までの詳細あらすじ(ネタバレあり)
(※警告:ここから先は、映画の結末を含むすべての重大なネタバレが記載されているため、未視聴の方はご注意いただきたい。)
起:パリ防衛戦から第3村への漂着と、レイの人間化
葛城大佐率いるヴィレ(ネルフの壊滅を目的とする組織)は、補給物資確保のためパリ市街地を訪れ、今や無人となったネルフヨーロッパ支部を再稼働させることを試みる。現在のNERVのEVAによる妨害を受けながらも、ヴィレは補給物資の確保に成功する。
一方、碇シンジとアヤナミレイ(仮称)はアスカに連れられ「第3村」にたどり着く。そこにはトウジ、ヒカリ(委員長)夫妻やケンスケなど懐かしい面々がいた。「第3村」では食料は配給制であり、必ずしも豊かとは言えない生活ではあったが、そこにいる人々がお互いに助け合いながら懸命に生きていた。
レイは周りの人から「そっくりさん」と呼ばれながら、そこでの生活を通じて人間的な感情をその中に醸成していく。一方のシンジは、アスカとともにケンスケの家で世話になるのだが、カヲルの死から立ち直ることができておらず、心を閉ざし誰ともコミュニケーションを取ろうとしなかった。それでも、アスカの首に装着されたDSSチョーカーにだけは反応し、カヲルのフラッシュバックに苦しんでいた。しかし、アスカは自分の殻に閉じこもって何もしようとしないシンジに苛立ちをつのらせていく。
自分の状況をアスカにひどく叱責されたシンジはケンスケの家を出て、ネルフ第二支部の廃墟で一人の生活を始める。シンジが孤独の中にある中、レイは毎日のようにシンジのところへ行き食料を届けるとともに、シンジとの意思疎通を図っていた。アスカもそんなシンジの様子を遠くから見守っていた。
そんなある日、シンジはついにその内面に溜め込んだ思いをレイに吐露する。「全部自分が悪いのに、放っておいてほしいのに、なんでみんなは優しいのか」。レイはそんなシンジに「みんな碇君を好きだから」と答える。泣くだけ泣いたシンジはケンスケの家に帰ることにした。帰宅したシンジにアスカはぶっきらぼうな態度を取っていたが、それでもシンジを受け入れ「動けるようになったのならケンケンの役に立て」と声をかけるのだった。
シンジはケンスケの「何でも屋」としての仕事を手伝いながら、「第3村」が綱渡りの中でその状況をギリギリ維持していることを知っていく。
承:ミサトの業と、レイの消滅
一方のレイは、「第3村」に対する愛着を覚え、そこにい続けたいと思うようになっていた。そのためには「そっくりさん」ではなく名前がなければならないと考え、シンジに名前をつけてもらおうとするのだが、シンジは困惑するばかりであった。そんな中、NERVの管理下でなければ生きていくことのできないレイの体に異変が起き始めていた。
そして、ケンスケの手伝いをするシンジは、ヴィレが作った支援組織であるクレーディトの一員である「加持リョウジ」という14歳の少年と出会う。彼は葛城ミサトと加持リョウジの息子であったが、その事実を知らずにいる。サードインパクト発生時、加持リョウジはそれを止めるために命を落とし、葛城ミサトはヴィレを率いることで息子を守ろうと決めた。しかし、母親らしいことをすることができないことがわかっていたため、ヴィレの責任者として息子と一生会わずにその使命を果たそうと考えていたのだった。事実を知る人々も葛城ミサトの意向を汲み、息子に事実を伝えずにいた。葛城ミサトもまた、苦しみを抱えていたことをシンジは知ることになった。
翌日にヴンダーの寄港を控えた夜。ついにレイの体が限界を迎える。翌朝レイは、シンジの元を訪れる。シンジは「綾波は綾波だ」と、レイに「綾波レイ」という名前を与えるが、その直後、レイはやり残したことへの思いを語るとともにシンジに別れを告げ、L.C.Lの液体となり消滅してしまう。「第3村」という状況に愛着を持ちながらも、その残酷な運命故にそこにいることができず消滅したレイの姿に、シンジは再び戦いの地へ赴くことを決め、寄港したヴンダーにアスカと共に乗り込む。そして再びシンジは、ヴンダーの中で拘束・監禁されることになる。
転:ヤマト作戦とマイナス宇宙での「親子喧嘩」
ヴィレは、ネルフに対する決戦を仕掛ける。その作戦決行の直前、アスカはシンジに面会する。いつものように憎まれ口を叩くのだが、最後の言葉は「あのころは シンジのこと、好きだったんだと思う。でも、私が先におとなになっちゃった」だった。そしてアスカは現場へ向かうのだった。
ヴィレはネルフを壊滅させるための「ヤマト作戦」を決行。大気圏外からヴンダーでネルフ本部を急襲する。ネルフは冬月の乗るヴンダー2号機でこれに応戦する。エヴァ7シリーズからの攻撃も開始され、ヴンダーは二機のエヴァ、新2号機(アスカ)、改8号機(マリ)でこれに対応する。
戦闘をくぐり抜けた2号機は、起動前のエヴァ13号機(ゲンドウが画策するアディショナルインパクトのトリガー)に近接し強制停止プラグを打ち込もうとするが失敗。アスカは左目に封印された第9使徒の力を解放し13号機の封印を試みる。しかし起動した13号機の手によって新2号機は破壊され、アスカはエントリープラグごと奪取される。
一方、ヴンダーは新造されたマーク9に急襲され、侵食されていく。マーク9にコントロールを奪われたヴンダーの中で、碇シンジの拘禁も自動的に解除されるのだった。その時、碇ゲンドウがヴンダーの甲板に現れる。超越的な力を発揮するゲンドウはヴンダーから初号機を奪取し、13号機とともに「マイナス宇宙」へと向かっていく。
碇シンジもゲンドウとの戦いを決意する。ミサトから再びDSSチョーカーを受け取ったシンジは、改8号機でマリとともにマイナス宇宙に突入する。そこは通常の宇宙とは全く異なる理の世界であった。
シンジはゲンドウとともに消えた初号機に搭乗するために、初号機の中にいるはずのレイ(「破」でシンジが一生懸命助けようとした方)に語りかける。それによって開かれたゲートを使って初号機へと乗り込もうとするシンジにマリは「君がどこにいても必ず迎えに行く。だから絶対に待ってなよ シンジ君」と告げ、シンジは「ありがとう 待ってる」と応えた。
ゲートを通じて初号機のエントリープラグ内へワープしたシンジは、そこにいたレイと再会を果たす。印象的なショートヘアではなく、無造作に長く髪の伸びたレイは「碇君をエヴァに乗らないで済むようにできなかった」と謝罪する。しかし、そんなレイにシンジは「あとは僕がやる」と力強く応え、初号機を駆り、13号機のゲンドウとの「親子喧嘩」を始める。
ゲンドウとの決戦のさなか「ゴルゴダオブジェクト」と称する謎の物体に接触したシンジとゲンドウは、シンジの記憶の世界と思われる状況に入り込む。ゲンドウによれば、「マイナス宇宙」を直接認知できないため、エントリープラグ内のLCLが仮想の世界を形成しているためだという。いずれにせよ、二人は記憶の世界の中で「親子喧嘩」の続きを始めるのだが、LCLの生み出した仮想世界だからか、何故かハリボテの特撮のセットのような世界でもあった。
力と力をぶつけ合う戦いは、均衡を崩さなかった。その状況下、ゲンドウが決着をつける方法論は力ではないという主張を受けたシンジは、ゲンドウとの対話を試みる。ゲンドウによると、彼が望むのは「お前が選ばなかった、A.T.フィールドの存在しない、全てが等しく単一な人類の心の世界、他人との差異がなく、貧富も差別も争いも虐待も苦痛も悲しみもない、浄化された魂だけの世界。そして、ユイと私が再び会える安らぎの世界」であった。
そして二人の状況は夕暮れを走る電車の中に移る。そこでの対話の中で、シンジはゲンドウが自分と同じ苦しみを抱えていた事実を知る。ヘッドフォンを利用して外界との関係を絶っていたこと、そのようなことをしなければならないほどに外界というものがゲンドウにとって自分を祝福するものではなかったこと、孤独が日常だったこと、そしてユイとの出会いが全てを変えたこと。
それは同時に、ユイという存在を失ったときの絶望を意味していた。彼はただ、ユイの胸の中で泣くために行動をしていたのだった。ただそれだけだった。シンジはその苦しみの根源を「自分の弱さを認めないこと」と看破したのである。
結:碇シンジの決断「ネオンジェネシス」
一方、冬月のもとにたどり着いたマリは、久々の再会を確認しつつ、冬月がその役割を終えたことを確認する。「あとはよしなにしたまえ」と告げた冬月はL.C.L化して消滅する。
シンジとゲンドウの対話の中で、ヴンダーからの干渉によって「マイナス宇宙」が揺らぐ。葛城大佐らは、「マイナス宇宙」にいるシンジを助けるための干渉策を講じていた。しかし最終的な作戦の危険を鑑み、準備を終えたクルーは全て退避しており、ヴンダーには葛城ミサトだけが艦長として残っていた。
結果、葛城ミサトは命を落とす。彼女が最後に思ったのは息子リョウジのことであった。そして、碇シンジもその「思い」と最後の「槍」を受け取るのだった。ゲンドウにとって、「他人の死と思い」を受け取れるシンジの姿を見たゲンドウは、自らの息子が成長したことを知るとともに、ヴンダー(葛城ミサト)の介入によって自らの目的が果たせないと悟る。
ゲンドウは最後に語る。マリに再会するという目的を持って行動することを決めた以上、子供に会わないことが自らの贖罪であり、それが子供のためであると考えていたと。そして彼は電車を降りるのだった。
ゲンドウと入れ替わるようにカヲルが現れ、「ここからは自分が引き継ぐ」と語る。そしてシンジは「自分ではなくみんなを助けたい」とまずはアスカの魂に語りかける。赤い海の砂浜で横になっているアスカに、シンジは「僕もアスカが好きだったよ」と告げると共にアスカに別れを告げた。すると、アスカを乗せた13号機のエントリープラグが射出される。
そしてシンジはカヲルとの対話を始める。カヲルはループする世界の中で、何度も何度もシンジを救おうと試みていたことを語る。しかしそれが実のところ、それが自らの幸せのための行動であったと悟る。そしてカヲルはシンジに後を託し、去っていくのだった。
シンジは綾波に語りかけ、世界をエヴァのない人が生きていける新しい世界に書き換える(ネオンジェネシス)ことを伝える。レイはそれに納得し去っていく。
シンジはネオンジェネシスを遂行するために、ミサトさんが命をかけて自分に託した槍で自らを貫こうとする。しかしその時、シンジを包み込むようにユイが現れ、シンジを元の世界に送り出す。そしてユイを乗せた初号機、ゲンドウを乗せた13号機が共にその身を槍で貫く。それに続いて他のエヴァシリーズも槍に貫かれていく。すると、インフィニティと化していた生物がその姿を取り戻していく。
青い海の浜辺で一人座り込むシンジのもとに、8+9+10+11+12号機に乗ったマリが現れる。マリが海に飛び込むと、最後のエヴァとなったその機体も消えていくのだった。
そして気がつくと場面は宇部新川駅となっていた。そのホームのベンチには大人となったシンジが座っていた。そしてその向かいのホームには、談笑するレイとカヲル、ベンチに座るアスカの姿が見える。
そこにマリが現れ、シンジのDSSチョーカーを外し「さあ行こう、シンジ君」と手を伸ばす。その手を取ったシンジは、「うん、行こう!」とマリと共に駅を飛び出していくのだった。
「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の解説・考察
- 登場人物たちが担う「分身」の役割
心を閉ざしたシンジに代わって感情を経験するレイや、彼の思考を言語化するアスカ。さらにはゲンドウの生き様とリンクするミサトやカヲルなど、各キャラクターが誰かの内面(ひいては創造主である庵野監督自身)を代弁する「分身」として機能している。 - アスカを解放する「青春の答え合わせ」
海辺でのシンジの「好きだったよ」という言葉は、アスカを青春のやり残しから解放し、次へ進む踏ん切りをつけさせるための儀式であった。 - タタラ場としての「第3村」
第3村は『もののけ姫』のタタラ場のように、過酷な状況下でも苦しみを顔に出さず懸命に生きる人々の姿を描いた、物語の重要な舞台である。 - アスカとケンスケがマッチングした理由
二人が結ばれたのは、シンジの不甲斐なさに苛立ち、彼に「英雄的な行動」を求めていたという共通の思いを持つ「分身」同士だったからである。 - ループを終わらせる「外部」としてのマリ
創造主の脳内という閉じたループの世界を終わらせるため、これまでの作劇の円環の外側にいる真希波・マリという「ファクターX」が必要であった。
「分身」の物語としての「シン・エヴァンゲリオン劇場版」
ここからはまず、「分身の物語としての『シン・エヴァンゲリオン』」について考えてこうと思うが、「Q」から突然登場したアヤナミレイ(仮称)の謎を最初の考察対象としてみよう。
感情の分身としてのアヤナミレイ(仮称)
第3村において、シンジは一切の行動を起こさない一方で、白紙の存在であったアヤナミレイ(仮称)が驚異的な速度で人間の感情を吸収していく。これは単純な心温まる交流の描写としてもよろしいものなのだが、何故そんな描写が必要だったのだろうか?
心を閉ざし、自発的な経験を拒絶したシンジに代わり、彼女が生きる喜びを肩代わりして蓄積していく。アヤナミレイ(仮称)が経験したことはつまり、シンジが経験したかったことだったのではないだろうか。
また、象徴的でありかつ露骨だったのが、彼女の「ここじゃ生きられないけどここが好き」という台詞。ネルフの管理下でしか生きられない彼女の宿命を語った言葉だが、これはまさに、罪悪感に苛まれ「この村の幸せの中にはいられない」と感じていたシンジの隠された内面を完璧に代弁する言葉になっている。
そして、彼女の消滅という痛ましい喪失を通じて、蓄積された「生への未練」は、シンジへ統合されていくことになった。
思考の分身としてのアスカ
さて、「ここじゃ生きられないけどここが好き」という言葉以上に露骨というか、あまりにも「的確」だったのがアスカの以下の台詞だったのではないだろうか:
「そうやって何もしないのも、自分がまた傷つくのがイヤってだけでしょ!どうせ暇ならせめて、あの時、なんで私があんたを殴りたかったのかぐらい考えてみろ!あんたメンタル弱すぎ。どうせやることなすこと裏目に出て、取り返しがつかなくなって全部自分のせいだからもう何もしたくないってだけでしょ。親の言いつけとは、その程度の精神強度だったら、そもそもエヴァに乗らないでほしかったわ。」
あまりの簡潔なまとめとアスカの言語化能力の高さに思わず笑ってしまうのだが、大事なことは本当にシンジはこの台詞のような状況にあったということである。では何故アスカにはシンジの考えていることがわかってしまうのか?
それはアスカがシンジにとっての「思考の分身」といえる存在として描かれているからだろう。つまり、碇シンジが考えていることすべてアスカが言語化してくれていることになる。
アスカが最終決戦に向かう前に告げた「あのころは、シンジのこと、好きだったんだと思う。」という言葉もその一端だろう。そうであったことそのものについて我々としては「知ってた」ということになるのだが、シンジが運命の海岸線でアスカに「僕もアスカが好きだったよ」と対応している(これについても我々としては「知ってたよ」だが)。
アスカとシンジはその思考において分身であり、その行動において水と油だったことになるだろう。
そして少なくともこの「シン・エヴァンゲリオン」では、このような現象があちこちに見受けられることになる。
少々話はズレてしまうのだが、先程引用したアスカの台詞における「なんで私があんたを殴りたかったのかぐらい考えてみろ!」については以下の記事で個別に考察している:
この記事では「もののけ姫」におけるモロと乙事主の関係を補助線にその時の感情を紐解いているが、一言で言えば「かつて好意を寄せた相手への落胆と、それでも見捨てきれない執着の表れであった」ということになるとは思う。惚れた相手だったからこそ許せなかったのである。
また、上の記事では海辺のシーンで彼が告げた「ぼくもアスカが好きだったよ」についても考えている。結論をまとめれば、あの言葉は「ルパン三世 カリオストロの城」の銭形警部の台詞のように、アスカを縛り付けていた呪縛を一瞬にして解き放つ儀式であったということになる。もう少しわかりやすく言うと「青春の答え合わせ」だろう。
我々視聴者を含め、アスカ本人も、シンジが自分にほれていることは「わかっている」のだが、それを言葉にしたことによってアスカは「青春のやり残し」から解放されてケンケンとよろしくやっていく踏ん切りがついたのである。いいシーンだったよね。
この記事でも「ぼくもアスカが好きだったよ」という言葉については別の側面からもう一度考えることになる。
碇ゲンドウと同じ道を歩んだ葛城ミサト、真逆の道を歩んだ渚カヲル
碇シンジとアスカとの関係は、碇ゲンドウと葛城ミサトとの間にも見て取れる。自らの目的のために子供と生きることを拒絶した二人の生き方は、少なくとも表面上は完全にリンクしている。
さらに、ケンケンによって語られた葛城ミサトの思いは、ゲンドウがシンジとの対話で「ゲロった内容」と一致している。これはケンケンから語られたことではあったのだが、それをケンケンに伝えたのがミサトなのだからミサトの言葉ということになる。
ということは、シンジとアスカとの関係と同じように、ミサトはゲンドウの思考面の分身として描かれていたということになると思われる。
そして、アヤナミレイ(仮称)の対となる、ゲンドウの感情面の分身が渚カヲルということになるだろう。
これは、以下のような描写がその根拠となるだろう:
- シンジとの対話シーンでゲンドウと入れ替わるように登場する、
- 渚カヲルはシンジの幸せのためにループする世界で懸命に動いていたが、それは何故か「自分のため」になっている、
- 加持リョウジから「渚司令」と呼ばれるシーンが描かれる(この点については以下のメモも参照)、
これらを見ればゲンドウとカヲルの関連は強く想起されると思う。そして何より、シンジを幸せにすることが自分のためだったというところが大きいだろう。それはまさに「親の愛」である。
つまり、本当はシンジを幸せにしたいという思いがあったのにもかかわらずそれを押し殺していたということが、カヲルの存在と発言によって示唆されているということになると思われる。
映画のラストで加持リョウジがカヲルを「渚司令」と呼ぶシーンがあるが、これは、「破」と「Q」の間の期間に渚カヲルが実際にネルフの司令官だったことが設定上の理由となっている。この事実は舞台挨拶で庵野監督の口から語られたことのようである(参考:TREE RINGS BLOG)。
一方で、その設定が語られなかったことの意味と効果を考えると碇ゲンドウが渚カヲルと表裏一体の存在であることを示唆するためだったと考えられると思う。
庵野監督自身の分身である全ての登場人物たち-「エヴァンゲリオン」の流儀
問題は、これらの「分身」という表現が何故おこなわれたのだろうか?それがよくある作劇法であるということもあるだろうが「シン・エヴァンゲリオン」のラストの描写が、それを理解するヒントになるかもしれない。
シンジとゲンドウの対話シーンから綾波レイとの対話までのシーンで、懸命に作られた作品世界が解体されていき、それが作られた虚構の世界であることが描写される(だからこそもう一度作り直せる)。
そしてそれが虚構の世界なら、誰かが作った事になり、その誰かとは庵野秀明監督にほかならないだろう。
ある登場人物の感情、思考といったものをまた別の登場人物が代弁する構造は、そもそも作品に登場した人々が庵野監督自身の分身であったことの表現だったのではないだろうか。
TV版のラスト(あるいは旧劇場版も)、ひどく「アニメ」「表現」というものを客観視するのが「エヴァンゲリオン」の流儀であった。そしてこの「シン・エヴァンゲリオン」においても、その流儀がその最初期から踏襲されている。しかも、アヤナミレイ(仮称)が「Q」から登場しているのだから、すでに「Q」の頃からその準備が始まっていたということもわかる。突如登場したレイ(仮称)の存在にはそのような意図もあったのだろう。
先述の通り、「虚構」を解体して客観視していく姿はTV版ではすでにあったし、そして「Q」の終盤から本作の序盤で描かれた状況に対する絶望は「旧劇場版」で描かれた。それは同じことを繰り返したのではなく、庵野監督の脳内としての「マイナス宇宙」で行われた繰り返しの、そしてその殆どのアイディアが表に出なかったであろう創作活動そのものがこの作品であったということになると思われる(宮崎駿監督の「On Your Mark」と同じ構造)。だからこそ、分身としての登場人物たちがだいぶわかりやすく描かれていたのだろう。
「虚構の解体」については以下の記事でも異なる側面から考えている:
ここからはまた別の側面について考えていこうと思う。
タタラ場としての「第3村」-それでも懸命に生きる人々
「シン・エヴァンゲリオン」最大の特徴と言えるのが「第3村」だったのではないだろうか。その表面上の意味は「碇シンジが復活するための時間・ブリッジ」ということになると思う。その一方で、他の場所・表現ではいけなかった理由が必要であるとも思う。
その根源的な理由を考えると、「第3村」の人々はエヴァンゲリオン史上初めて描かれた「それでもなお懸命に生きる人々」だったからということになるだろう。もちろん、エヴァンゲリオンに登場した人々は一生懸命生きていたのだけれど、あれだけ露骨に描かれたのは初めてだろう。
個人的にはこれは映画「もののけ姫」に登場したタタラ場にその類似を感じる。タタラ場にいる人達もその内面にある苦しみを一切顔に出さずに懸命に生きる人々だった。「もののけ姫」と「まごころを君へ」が公開された1997年から20年以上経ってようやく庵野秀明が描いた「タタラ場」だったのではないだろうか。
以下の記事では「タタラ場としての第3村」の他、「劇場版機動戦士Zガンダム」との比較など、「シン・エヴァンゲリオン」を公開日に見たときの感想をまとめている:
真希波・マリ・イラストリアス――閉じた宇宙を破壊する「未知の星」
さて、我々を随分と悩ませた真希波マリのことについても触れなくてはならないだろう。
パラシュート降下して突如現れ、なんでも知っているような素振りを見せつつ、最後の最後にメインヒロインとして碇シンジをものにした人物。「こいつ何者なんだ?」、「なんで新キャラとして登場したんだ?」と頭を悩ませたのは私だけではないと思う。
しかし、これについても「虚構の解体」という観点に立つとなにか見えてくるものがある。
物語終盤、「マイナス宇宙」での親子喧嘩が「特撮セット」というハリボテの中で行われる露悪的な演出。これは、エヴァという物語そのものが創造主(庵野秀明監督)の脳内、あるいはアニメ制作現場の虚構であることをまざまざと見せつける装置であった(先述の通り)。さらに、渚カヲルによって語られたことによって、その虚構の世界は何度も何度もループし続けていたことがわかる。
そして「エヴァンゲリオン」を終わらせるという視点にたてば、そこにはそれまで存在しなかった「ファクターX」が必要となるだろう。
結局、ループという閉ざされた循環を行う宇宙において、「唯一の『外部』」として真希波マリが必要だったということになると思う。
彼女は、計算し尽くされた(庵野秀明監督の)分身のループの外側から突然飛来した、未知の特異点(福音)であった。永遠に続くかと思われた自己愛の連鎖を断ち切り、自分とは無関係な異物の手を取ること。これこそが、シンジが現実世界へと脱出するための、途方もないエネルギーを秘めた唯一の鍵であったということになるだろう。
シンジとマリがマッチングしたことについては未だに納得が行かない人もいると噂には聞く。しかし、マリという我々にとってもわけが分からなかった「外部」とシンジが走り出したからこそ、何度も作られた「エヴァンゲリオン」の円環の外に出たという感覚を味わい、本当に物語終わったように思えたのだと思う。
以下の記事においては、映画「もののけ姫」と比較することによって「真希波マリ=サン」という考察を行っている。
色々意見はあると思うが、真希波マリは「エヴァンゲリオン新劇場版シリーズ」最大のギミックだったのではないかと思う。
アスカとケンスケがマッチングした理由-シンジに英雄であってほしかった二人
先述の通り、マリとシンジがマッチングしたことについて不満がある人もいると思うが、この記事で書いた「分身」という観点に立つとそれに理由をつけることもできると思う。
ヒントになるのは、TV版からはじまり、「Q」でも収まらず、「シン」で最高潮にたっしたアスカのシンジへの不満の爆発と、ケンケンの無表情にあると思う。
ケンケンの無表情とは、「第3村」パートで、トウジと二人で語っていたシーンでのトウジの「はようシンジも、この村になじんでくれりゃええんやがな」という言葉を受けたあと無言の表情のことである。
あそこでケンケンの顔が印象的に描かれて理由はもちろん「ケンケンはそう思っていないから」である。彼はシンジに、英雄的に戦ってほしいと願っていたのではないだろうか。いや、そう思っていた。
一方で、アスカのシンジに対する不満も、少なくとも「Q」から「シン」という文脈の中ではシンジの不甲斐なさに対する不満である。裏を返せば、シンジに英雄的な行動を求めているということになる。
「シン・エヴァンゲリオン」を「分身の物語」として考えれば、アスカとケンケンがいい仲になっていることも、二人がシンジに対する思いを共有する「分身」であったことを表現していると考えられるのではないだろうか。
おまけ:「綾波」「式波」「真希波」という名前と「パラシュート降下」の衝撃
新劇場版シリーズが発表され、惣流・アスカ・ラングレーの名前が式波・アスカ・ラングレーに変更され、さらに真希波マリなる人物が登場するとわかったときには、その意味合いが随分と考察された。現在では公式設定で明らかになっていることもあるだろうし、優れた考察もたくさんあった。
しかし、「シン・エヴァンゲリオン」のラストを鑑みるとそれは「マリがメインヒロインだよ!」という極めて明確でわかりやすい理由であったと考えられると思う。「『綾波』、『式波』という『シンジが惚れた女』と名前が揃っているのだから当然そうなるよね!」と。言われればそんな気もするし、思えば、マリとシンジのファーストコンタクトも、歴史と伝統を誇る「空から女の子が降ってきた」という構造であった。
「名前」と「ファーストコンタクトの状況」を合わせれば当然わかると踏んだのかもしれないのだが・・・パラシュート降下は分かりづらいよ。
こういうときは、不思議な意志の力でゆっくり落ちてくるとか、蟹の怪異に取り憑かれて自分を軽く感じてしまっているといった「ヒロインであることを指示するワンポイント」を作ってくれるとありがたいのだが、「エヴァンゲリオン新劇場版」ではなんとそのギミックは「パラシュート降下」だった。
それでもあのラストの展開を事前に予測できた人もいたのだろうが、私はぼんくらだったので神木隆之介が登場するまで全く気が付かなかった。
どれくらいの人が「シン・エヴァンゲリオン」を見る前にあのラストを予測できていたのだろうか?実に気がかりである。
以上、リンク先を含めれば現状私が「シン・エヴァンゲリオン」について考えていることの全てでございます。とは言いつつ「考え」とも言えないことは未だあるにはあるのですが、文章化されることはないと思います。
今でも「シン・エヴァンゲリオン」を見たあの日の不思議な気持ちをよく覚えています。思いの外自分にとって「エヴァンゲリオン」という作品が特別であったことがわかった気がしました(失って気づく!)
皆さんにとっては「シン・エヴァンゲリオン」はどのような作品だったでしょうか?
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