映画

【大怪獣のあとしまつ】その酷評の原因を探る(ネタバレあり)。

大怪獣のあとしまつは2022年2月4日に公開された三木聡監督による日本映画である。

なんの映画を見に行ったときか忘れてしまったが、劇場での特報を見てその手があった!と思いきちんと映画館に観に行こうと思ったことをよく覚えている。

残念ながらタイミングが合わず、結局はアマゾンプライムで配信されると同時の視聴となった。ただ、その頃にはすでに大怪獣のあとしまつに対する酷評が溢れており、私としては少々身構えることとなった。

映画館で1800円払わなかったことも原因かも知れないが、個人的にはそれほど酷評する気にはならなかったし、何なら楽しんだ。その一方、酷評する人の気持ちも分からないではなかった

今回は大怪獣のあとしまつのあらすじを振り返りながら、その酷評の原因を探っていこうと思う。

*以下の文章では完全なネタバレがありますのでご注意ください。

大怪獣のあとしまつを見る

U-NEXT
Amazon

大怪獣のあとしまつのあらすじ(ネタバレあり)

大怪獣のあとしまつのあらすじ①:ガス発生と謎の

日本に大怪獣が現れた。

その目的も存在理由も分からぬまま、日本は賢明にその駆逐に苦慮する。

ありとあらゆる化学兵器が通用しないその怪獣は、ある日突然出現した謎のによって駆逐された。

そのの正体を知るものはいない。

なぞのによって怪獣は駆逐されたが、その死体が残ってしまった。日本政府はその処遇に苦慮する。

そもそも資料として維持するのか、ゴミとして排除するのか・・・。その選択も問題ながら、大怪獣の死体に貯まるガスの対応に苦慮することになった。そのガスの爆発が、再びの驚異となっていた。

様々な作戦が立案されては失敗を重ねていた。

そんなとき、再びが出現し大怪獣を宇宙へと運んでいった。

大怪獣のあとしまつのあらすじ②:光の巨人

あとしまつの最前線で活動していた帯刀 アラタ(おびなた あらた)はその3年前、謎のに飲み込まれ消息を断っていた。そして2年後に再び人々の前に忽然と現れた。

彼は2年前の事件で謎のと一体化しており、光の巨人となっていた。

結局大怪獣を駆逐したのも、その死体を宇宙へ運んだのも光の巨人となっていたアラタであった。

孤高の光の巨人アラタは、これからどのような日々を送るのだろうか・・・。


時系列順のあらすじではないのだが、ものすご~く大雑把にまとめるとこんなものである。早い話がシリアスなSFではなくドタバタコメディーであり、ウルトラマンかい!と最後にツッコミを入れて笑う映画だったということになる。

主人公のアラタも、初代ウルトラマンのハヤタに類似している。この映画はやはりそういう映画だったのだろう。

では・・・この映画になぜ酷評が集まってしまったのだろうか?

大怪獣のあとしまつ酷評の原因

ここからはいよいよ大怪獣のあとしまつの酷評の原因を探るのだが、まずは映画に関する一般論から始めようと思う。次に話すことが、今回最もネガティブに働いたのだと思う。

映画にとって最も邪魔なもの期待

私の考えでは、映画は主に4つの要素でできている。つまり、

  1. 作りが作ろうとしたもの、
  2. 我々が期待したもの、
  3. 結果的に出来上がってしまったもの、
  4. そして我々が受け取ったもの。

1と3は我々にどうすることもできないものである。4は我々に関することではあるが、実際問題として制御することは難しい。

我々としては2の期待をどれだけ小さくできるかが勝負である。どういうことか?

我々の期待を形成する上で最も大きな影響を与えるのが映画の予告、特報なのだが、あの編集は基本的に現場の人間は行わないし監督ですらタッチしない(文句くらいは言うと思うが)。予告とうの宣伝を取り仕切っているのはいわゆるプロデューサーであり、興行を仕掛ける側(広告代理店とか)がすでにある映像素材をもとに編集を行って作り上げるものである。

そして彼らはなんとしてでも我々を映画館にこさせるように、最高の予告、特報を仕上げてくる。それはもはや短編映画と呼べるほどのクオリティを誇っている。つまり・・・予告編は本編と別物と考えるべきものである

ところが・・・そのできの良い予告編をもとに我々は映画に対する期待予測を生み出し、きっとこんな映画だろう!という思いを最大限に膨らませて映画館に足を運ぶことになる。

でも、予告と本編は別物である。

予告を始めとする事前情報によって我々の中に生まれてしまった期待予測は十中八九本編とは異なる。それは作り手が作ろうとしたものでもないし、結果的にできあがってしまったものでもない。完全にずれている、あるいはずらされていることになる。

結果我々は不満を持つのである。だって期待したものと違うのだから。

では大怪獣のあとしまつの事前情報によって我々、少なくとも私が膨らませた期待とは何だったのか?

完遂されるはずだったあとしまつ

予告編の内容もさることながら大怪獣のあとしまつというタイトルを聞いただけであっ、確かにどうするんだろう?と素直な疑問が湧くとともに、そのあとしまつがなんとか遂行されるような映画になるという期待を持ってしまった。

これは映画の特報が割合シリアスな雰囲気を持っていたことにも起因する。

きちんと見ればコメディータッチであることは見て取れるのだが、私はSF的にあとしまつを見事に完遂してくれることを期待してしまったのである。だってタイトルだって大怪獣のあとしまつなのだから。

しかし、実際に描かれたのはその不可能性であった。

大怪獣のあとしまつで実際に描かれたもの

大怪獣のあとしまつで実際に描かれたことを振り返ってみると、それは

  • 巨大な生ゴミの撤去の困難さであり、
  • 何も決めることのできない政治家の滑稽さであり、
  • 現代日本では巨大な生ゴミの撤去もできないのだという現状批判、

であった。もちろんこんな現状批判映画をシリアスに描いたところで見ていられたものではないので、つくり手としてはそれをコメディとして描いているのである。

もちろんそのコメディ部分を笑えるかどうかという問題もあるのだが、それはどうしても人によるものである。それが寒かったということに関してはどうしようもないことだろう。

そしてそんなことよりも問題だったのは、我々がこういった現状批判にもう飽きているという事実である。

こうであるではなくこうすればできる!を見たい

大怪獣のあとしまつでは、現代日本が何も決められない状態にあり、何かしら状況を打破するにはdeus ex machinaデウス・エクス・マキナしかないだろうと訴える。つまり、神のような存在がえいや!とその剛腕によって状況を打破するしかないと言うのである。

それは我々が内心に抱いている英雄への渇望でもあるだろうが、それはつまり現代日本ってこうだよね?と言っているにすぎない(より広く世界だったのかもしれないが)。

我々はずいぶん前にこういう批判に飽き終わっているのである。それを耳にする度、目にする度にそんなこと知ってるよ!と心で叫ぶ。

やはり我々としては、こうすればできる!を見たいのである。それがどれほど荒唐無稽であっても。


この辺で我々が期待したもの結果的に描かれてしまったもの我々が受け取ったものに関する話は概ね終了なのだが、作り手が作ろうとしたものは何だったのだろうか?

落語的に笑ってほしかったのでは?

我々の住む日本に落語と呼ばれる伝統芸能がある。落語にも様々な側面があり一言で語るのは難しいと思うが、落語がもっている重要な要素の一つは我々は我々自身を笑っているということだと思う。

落語の滑稽噺のなかには必ず同仕様もなく間抜けな男が出てくるもので、噺家さんが見事に演じてくれるものだから馬鹿だね~と他人事のように笑っていられるのだが、そこで描かれる間抜けな男とはもちろん我々自身のことである

きっと大怪獣のあとしまつ俺たちって馬鹿だねと笑って見てほしかったのかもしれない。ところが、現代社会にはもはやそのような余裕がないのである。

つまり、現代社会がもつ停滞や閉塞感の根本原因を政治家に押し付けていられる状況ではすでになくなっていて、それが自分のせいであることを何処かで気づいているのである。政治家以外のすべての国民が全員君子で、政治家だけが腐敗しているなどということはありえない。

政治家の姿は我々を映す鏡である。

それでも社会に余裕があれば、政治批判や社会批判というのは娯楽になりえたし、その象徴が朝まで生テレビだったかもしれないし、ワイドショーにおける辛口コメントだったのだろう。

でも我々の社会にはそれらを娯楽として受け取る余裕がなくなっており、深刻に自分の問題として受け取るのである。

大怪獣のあとしまつ本編中で踊り狂っていた間抜けな政治家はそのまんま我々のことだし、何も決められないのも我々自身である。そんなもの、笑っていられるわけがない。

大怪獣のあとしまつの酷評が相次いだ背景には、こういった余裕のなさもあったのではないだろうか。

大怪獣のあとしまつの酷評についてのまとめ

以上のことをまとめると:

大怪獣のあとしまつの酷評の根本原因は、そのタイトルと予告によって我々の中に生まれてしまった期待と実際に描かれてしまったものとの間の齟齬であると思われる。

それでも落語的滑稽噺として笑うという手もあったし、作り手としてもそれを想定していたかも知らないのだが、その内容がどうしても現状批判政治批判と捉えられため、社会的な余裕を失った現代社会ではもはや笑える人はそんなに多くなかった。

ということになるだろう。

やはりタイトルと予告ってものすごく大切なものである。あともう少しだけこの映画は笑って見るものですよ~という予告編になっていれば、状況は変わったのだと思うし、タイトルが大掃除が終わらないだったら期待するものも変わった。

いずれも結果論に過ぎないけどね。

で、結局シフルは面白かったのかい?
おっと!大事なことを言うのを忘れていた!俺は単純に面白かったよ。ユーモアシーンでは少々過剰に感じたこともあったが、総じて楽しめた。それは1800円払って映画館で見なかったからかもしれないけどね。

おまけ:個人的に一番おもしろかったシーン

大怪獣のあとしまつはなかなかそのあとしまつが始まらないが、物語の中盤、ようやく作戦が開始される。

最初の本格的な作戦は冷却作戦だった。

作戦を手動したのは国防軍。指揮官は菊地凛子演じる真砂千(まさごせん)。本人曰く怪獣処理の専門家だった。

冷却作戦凍結作戦に具体的に使われたのは液化炭酸ガスであったが、この作戦の問題点を主人公ら特務隊はすぐさま見抜く。

つまり、すでに春先を迎えている状況で凍結などということをしてしまったらすぐに再回答されグズグズになった怪獣の体組織によって状況はより悪化するだろう、ということだった。

そのし的に対する真砂の返答は・・・

最悪のシナリオってやつは自分の不完全さの言い訳にすぎない!

であった。俺はここで笑ったね。真砂の言葉を通常の日本語に直すと全くその通りです!となるだろう。それをなんとも意味不明で冗長な表現にしているナンセンスさに、ある種の押井守的ユーモアを感じた。

酷評の多い作品ではあったが、おもしろかったシーンや笑ったシーンが存在しているなら、正直に告白するのが良いと思う。

この記事を書いた人

最新記事

 
  
 
管理人アバター
 
Sifr(シフル)
  •             
 
北国出身横浜在住の30代独り身。日頃は教育関連の仕事をしていますが、暇な時間を使って好きな映画やアニメーションについての記事を書いています。利用したサービスや家電についても少し書いていますが・・・もう崖っぷちです。孤独で死にそうです。でもまだ生きてます。だからもう少しだけ生きてみます。           
           
  •             
同じカテゴリの記事

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です