「コクリコ坂から」は2011年に公開された宮崎吾朗監督の劇場版アニメーション作品である。宮崎吾朗は絵コンテと監督を努めているが、父である宮崎駿が脚本を担当しており、「親子合作」の作品となっている。
私は個人的に非常に好きな作品で、今回は基本的にこの作品の感想を述べたいのだが、その補助線として、制作ドキュメンタリー「ふたり/コクリコ坂・父と子の300日戦争」に触れたい。「コクリコ坂から」本編はもちろん好きなのだが、それにまさるとも劣らずこのドキュメンタリーも面白い。
映像の中に宮崎吾朗と宮崎駿が同時に写った時のなんとも言えない空気感はそれだけで見どころになっている。このドキュメンタリーを補助線として最終的には「コクリコ坂から」の話しをしたいのだけれども、まずはこのドキュメンタリーの見どころを紹介したい。
制作ドキュメンタリー「ふたり」の見どころ
準備室をうろつく宮崎駿
ドキュメンタリーが始まると、宮崎駿が「制作準備室(宮崎吾朗監督や、作画監督の近藤勝也さんなどの少人数で準備作業をする部屋)」を訪れ何やらスタッフに話しかける姿が流れる。ナレーションによると、特に用もないのに毎日のように訪れていたそうな。ここで注目すべきは五郎監督と父宮崎駿の距離感である。どう考えても五郎監督を意識しているはずの宮崎駿は頑なにそちらに目線を向けない。同じく五郎監督も父宮崎駿に目線を向けず、二人は何やら「背中で感じるなにか」で会話をしているようである。
その後宮崎駿は難しい顔で首を傾げなら部屋をさろうとするのだが、そこで「金平糖」を発見する。何を考えたか宮崎駿は、一生懸命作業をしているスタッフに金平糖を配り始める。宮崎駿が配るんだから断れるわけもなく、スタッフたちは笑顔で受け取る。そしてついに五郎監督のところにたどり着き、「はい五郎」と金平糖を手渡す。ようやくふたりの直接的なふれあいを見ることが出来るのだが、五郎監督は一言も話さない。
「何かを手渡すシーン」というのは映画の中では基本的に「いいシーン」であり、何かしらの意味が付与されるものだと思うが、我々は一体何を見せられたのだろうか?
これは「いいシーン」なのか?はたまた「まぬけなシーン」なのか?ぜひとも映像をみて確認していただきたい。
逃亡する宮崎吾朗
ドキュメンタリーの序盤は「制作準備室」の映像が主だったものなのだが、その様子は全くもって重苦しいものである。そもそも五郎監督自身が自分の絵コンテに自信を持てない状況にある上に、毎日のように現れる宮崎駿があれこれ文句を言ってくる(もちろん指摘は的確だったと思うけれど)。
壁に貼ってあった絵を見た宮崎駿が「こんな魂の入っていない絵はだめだ」といって剥がさせたるなんてこともあり、スタッフも正常な心理状態で作業ができなくなっていた。五郎監督自身もそうで、近藤勝也さんが書いた絵をみて「上手く描けたと思います?」といって書き直しをさせます。ここも映像を見るとわかりますが、尋常じゃない空気が流れている。
そんな状況を察してか、プロデューサー鈴木敏夫が制作準備室を訪れて、完成した絵コンテ(ライカリール)に目を通すことになる。
敏腕プロデューサー鈴木敏夫の判断としては「大幅な変更を要する」というものだった。鈴木敏夫はそのことを五郎監督に伝える。内心自分が思っていたことをズバッと言われた五郎監督は一瞬落ち込むが、すぐさま立ち直り、軌道修正に取リ組むこととなる。作業場を制作準備室からマンションの一室に移し、近藤勝也さんと一緒にもう一度キャラクター設定のやり直しを始める。
最初にこのドキュメンタリーを見たときにはなんとなく自然な流れだったので気にならなかったのだが、なぜ2人の作業場は制作準備室からマンションに移ったのだろうか?これは想像するしかないのだが、おそらくは鈴木敏夫の策略と思われる。早い話が、
ということだったのではないだろうか。
もちろん、宮崎駿の指摘は正しかったと思うし、それが結果的に作品を良くしているとは思うのだけれど、権力を振りかざさずに作品に介入しようとしているがゆえに、現場はどんどん混乱していくのである。宮崎駿本人が監督ならその意向に沿うようにすればよいのだが、監督は宮崎吾朗であり、スタッフは板挟み状態になる。五郎監督本人もなんやかんや父親の言動が気になっていただろうから、どうしても宮崎駿と隔絶した状況を作る必要があったに違いない。
この「マンションへの逃亡劇」という絵を書いた鈴木敏夫はやはり敏腕なのだと思う。
暗躍する鈴木敏夫
さて、主な作業場をマンションに写った五郎監督だが、それでもなお作業はなかなか進展しない。そんな中、宮崎駿が書いた1枚の絵がマンションの部屋に届けられる。これが確かにいい絵で、その絵が持ち込まれていこう作業が一気に進んだそうな(ナレーションでそう言ってるだけだが)。ぜひとも実際の映像でこの絵を見てほしい。確かにぐっと来るものがあるのだ。
たった1枚の絵で状況が一気に進み始め、鈴木敏夫は作画インを決定する。事件はその後起こる。
何やら安心したのか、宮崎駿が作品に対するアイディアを鈴木敏夫に語りだす。「コクリコ坂から」の冒頭で「海が布団を畳むシーン」を入れるべきだということなのだが、鈴木敏夫からその事を五郎監督に進言(命令)してほしいと依頼する。
鈴木敏夫もその方が良いと考え、結局五郎監督にそのシーンを入れるように進言するのだが、五郎監督はそれを拒絶する。理由は至極まっとうで「隣で妹が寝ているのだから布団は上げない」である。そりゃ確かにそうだ。五郎監督の意見は全くそのとおりだと思うのだが、御存知の通り、オープニングシーンで海は布団を畳んでいる。結局宮崎駿と鈴木敏夫の思惑通りになったわけである。
五郎監督を説得した鈴木敏夫がその事を宮崎駿に伝えると、「素晴らしいご指導で感謝いたします」と宮崎駿は答えた。
おいオヤジども、一体何をやっているんだ。そして俺たちは何を見せられているんだ。面白すぎるじゃないか。
本編を見るだけでは分からない「おっさんどもの暗躍」が実は存在していたのでる。
宮崎吾朗を少しだけ好きになる
以上のようにこのドキュメンタリーには「面白いシーン」がたくさんあるのだけれども、一番の魅力は懸命にアニメーションを作ろうとする五郎監督本人の姿だろう。「宮崎監督」を父に持った宮崎吾朗がアニメーションの監督をやるなんて本来は自殺行為に違いないのだ。「ゲド戦記」が公開された時にもそう思ったのだけれど「実は昔からアニメをやりたかった」という話しを聞くと少々考え方も変わってくる
どうせ何処に言ったって、父親の話になり、二言目には「アニメの道に進もうとは思わなかったんですか?」などと平気な顔で言われたに違いない。「本当はその道に生きたかったけど、それを諦めた」と正直に話しただろうか、それともはぐらかしただろうか。いずれにせよ気分の良いものではないだろう。
一方で、アニメーションの監督なんかやった日にゃいよいよ無茶苦茶なことを言われるに決まっているのである。どうあがいても父親と比較される運命からは逃れることは出来ない。私からすれば生き地獄である。
結局宮崎吾朗は憧れていたアニメーションの世界に足を踏み入れるのだが、憧れていなかった場所で憧れを隠すのと、憧れの場所で批判を受けるのと、どちらが良いかと言えば憧れの場所にいることだと、今は思う。もちろん茨の道だけれども、それでもなお「えいやっ!」とアニメーションの世界に飛び込んだ宮崎吾朗さんには敬意表するべきだろう。
そしてこの制作ドキュメンタリーの一番の効能は、そんな宮崎吾朗さんのことを少しだけ好きになることである。私は彼のファンとして生きることに決めたね。
映画「コクリコ坂から」
ここからようやく映画本編ついての話しをしようと思う。
なぜ感動するのか
私はこの作品を見ると大体泣いてしまう。そして、エンディングの「さよならの夏」を聞きながら「もっと懸命に生きよう」と心に決める(そして次の日の朝には忘れてしまう)。
しかし私はどういった事に感動するのだろう。
「コクリコ坂から」を好きな人なら、泣く場所はほとんど変わらないと思う。海と俊がその出生の秘密を小野寺から聞かされるところから、小野寺か船長をつとめる航洋丸に2人が手を振るシーンの間で泣くのではないだろうか。
ここで私達が理解したことは「苦しい時代に、それでもなお懸命に命を繋いだ人々がいた事、そして懸命に繋いだ命が立派に育ったこと」だと思う。戦闘を幸運にも生き抜いた人々は、苦しい時代の中で腐ることなく懸命に生きた。それに対応するように、出生の秘密によって引き裂かれた海と俊は、それでもなお腐らずに前向きに生きようとする。ほんとに立派に育った。
つまり、この作品は「バトンタッチ物語」であり、懸命にバトンを渡した人々とそのバトンを見事に受け取った若者の物語である。「カルチェラタン」の存続のために懸命に動いた生徒たちも、自分が受け取ったバトンを次世代に渡そうと懸命だった。
こんな懸命さに、私達は涙を流すのではないだろうか。
感動する理由はこんなところで良いと思うが、あの作品を見ているとどうしても気になるのが「カルチェラタン」である。「カルチェラタン」が一体何だったのかも少し考えようと思う。
5カ年計画とカルチェラタン、そして宮崎駿
「コクリコ坂から」という作品の中で「カルチェラタン」という存在は随分と輝いている(実際にはボロボロだが)。色んな部室があつまるあの建物は、ただそれだけで「毎日が文化祭」であり、非常に魅力的である。ただ、「カルチェラタン」という単語は、ある世代(私よりずっと上の世代)にとってはピンとくるものなので、そういう人たちにとっては「そういうことね」ということなのだと思う。しかしそちらの見方は取らない(対して発展性もなさそうだ)。
そもそもこの「コクリコ坂から」は宮崎駿が立ち上げた「5カ年計画」の一部として位置づけられる。「ジブリの教科書17 コクリコ坂から (文春ジブリ文庫)(PR)」によると5カ年計画とは、「崖の上のポニョ」制作後の2008年11月に宮崎駿が社内で発表したスタジオジブリの向こう3年の計画のことで、3年間で若手監督による作品を2作つくり、その後の2年で何かしらの大作が作られることが想定されていた。若手監督作品の1つが、米林監督作品の「借りぐらしのアリエッティー」である。
このような計画がなぜ必要だったのかを考えるのは「作品を作ってもらってぼうっと見ている我々」にとっては非常に難しいのだが、基本的には「後進の監督の育成とジブリブランドの実験」ということになるだろう。
穿った見方をすると、作品がきちんとしたものである前提で、自分以外の監督作品が当たるかどうかを宮崎駿自身が見てみたかったのかもしれない。上手く行けばその後2年で「自分の作りたいもの」を作れる可能性が生まれるといったところである。実際のところどういう意図だったのかは分からないが、「スタジオジブリと自分自身の今後」を憂慮していたことは間違いないだろう。
そのような状況を考えると、私の目にはあの「カルチェラタン」が「スタジオジブリ」や「宮崎駿本人」に見える。
宮崎駿としては「スタジオジブリ」や「自分自身」が世の中から必要とされなくなり「『排除』されてしまうのではないか」という思いがあったのではないだろうかと邪推する。私のような「ジブリアニメファン」は「そんなことあるわけないじゃん!」と思うのだが、実際の作り手にとってはそんな生易しい状況ではなかったのだろう(それはジブリに関わる全ての人が思っていた事かもしれない)。そのような状況下で生まれたのが「5カ年計画」であり「コクリコ坂から」である。
映画本編は「それでもなお命を繋いだ人々」の物語であったと思うが、映画の企画自体が「スタジオジブリの命をつなぐ企画」だったのだろう。しかもそれが本編同様に「父から子へ」のバトンタッチになっていることがなんとも感慨深い。
「風立ちぬ」航海後に宮崎駿監督が引退しようとしたその内面の真実は誰にもわからないと思うけれど。「借りぐらしのアリエッティー」と「コクリコ坂から」を見た時に、ある程度何かを伝えることが出来たと考えたのかもしれない。かもしれないだけだけど。
おまけ:サツキという存在の決着
「コクリコ坂から」の主人公海の姿を見ていると、どうしても思い出すのが「となりのトトロ」のサツキである。宮崎駿と鈴木敏夫の暗躍によって生まれたオープニングシーンは、我々が見ることの出来なかった「サツキの朝」に違いない。サツキがそうであったように、海も自分の境遇を全面的に受け入れているわけではないだろうけれども、それでもなお快活に生きようとしている。ほぼ完璧な存在のように描かれていたサツキは、涙を流すことによって「キャラクター」から「人」に戻った。
そして、そんなサツキがドラマチックな恋をする未来が「コクリコ坂から」だったのではないだろうか。あんなに頑張ったサツキの恋の物語が「カンタ」では少々さびしかろう。さらに物語の終盤、海の母親が帰ってきて、海が担当していた家事を母親がやってくれている。あれも「お母さんが帰ってきたとのサツキの開放」を僅かに描いていいたのかもしれない。
もちろんこの作品の監督は宮崎吾朗さんである。しかし、脚本やそもそもの「企画」を主導している宮崎駿さんの中にそんな思いがあってもおかしくはないかもしれない。かもしれないだけですよ。
この記事で使用した画像は「スタジオジブリ作品静止画」の画像です。
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