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君たちはどう生きるか】考察と感想-現れる3人の宮崎駿と冷たい石-

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「君たちはどう生きるか」は2023年7月14日に公開された宮崎駿監督による劇場用アニメーション作品である。

私の記憶によると、2017年1月にNHK BSで放送された「終わらない人 宮﨑駿」というドキュメンタリー番組の最後の最後に、長編作品の企画書を鈴木敏夫さんに手渡すシーンが映し出されたことがこの映画が公になった最初だったと思う。タイトル「君たちはどう生きるか」が明らかになったのは同年10月であった。

長いことヤキモキしながら待ち続けたが、結局キービジュアルの「アオサギ」が公開されたのみで、公開されるまで一切の情報が出なかった。しかしその結果、なんの前提知識もなしに宮崎駿監督の新作を見るという絶対に有り得なかった幸運にありつけた。鈴木敏夫さんにはお礼を言いたい。

公開直後から「難解」、「わけがわからない」という声も聞かれたが、個人的には「ややこしい」が正しい表現である気がする。様々な要素一つ一つが複数の意味と投影をもって描かれるのでとにかく「ややこしい」のである。

今回はそんな「君たちはどう生きるか」の内容について考えていこうと思う。この映画を一言で述べるなら

宮崎駿が父であることを選ぶ物語

ということになると個人的には思う。ただ、これでは流石にあらすぎるし、私としても言いたいことはこれだけではないので、様々な肉付けをしていこうと思う。

まずは、これまでの作品では描かれて来なかった「息子の父としての父親」について考えていこう。

*以下の文章ではネタバレしかありませんので、その点はご注意ください。


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君たちはどう生きるか」の考察

「息子の父」としての父親

「君たちはどう生きるか」とこれまでの宮崎作品との明確な差は主人公眞人(まひと)の父親、つまり「息子の父親」が生き生きと描かれていることだろう。もちろん異論があると思うが、とりあえずはこれまでの作品で描かれてきた父親を振り返ってみると、

  • 「風の谷のナウシカ」ではナウシカの父 ジル
  • 「となりのトトロ」ではサツキとメイの父 草壁タツオ
  • 「魔女の宅急便」ではキキの父 オキノ
  • 「千と千尋の神隠し」では千尋の父 荻野明夫
  • 「崖の上のポニョ」では宗介の父 耕一

が描かれている。ギリギリのラインで「天空の城ラピュタ」でもパズーの父が映画描かれているが、作品に登場したとは言い難い。また、「ハウルの動く城」におけるハウルもマルクルの父親代わりと言えなくはないが、父親としての機能を果たしているとは思えない。

これまでの作品で唯一「息子の父」が描かれたのは「崖の上のポニョ」における主人公宗介の父耕一だったが、物語の序盤で海の向こうにとばされている。少なくとも宗介との触れ合いが描かれることはなかった

しかし、「君たちはどう生きるか」では、父と息子との触れ合いが明確に描かれ、眞人を心の底から愛していることが分かるシーンがこれでもかと描かれる。眞人のために刀を手にする彼の姿にぐっときたのは私だけではないだろう。

ただ、ここで問題となるのはそんな描写があるのは何故か、ということである。

それを理解するためにはやはりファンタジーパートを考えなくてはならないだろう。

アオサギの誘い「お母さん」

「君たちはどう生きるか」という作品は絶妙に地に足の付いた「非ファンタジー」から始まっている(ように見える)。ただ、主人公の眞人は「アオサギ」によって、宮崎駿一流のファンタジーの世界に足を踏み込んでいくことになる。

重要なことは、アオサギが眞人を誘う言葉が「お母さん」であるという事実である。

今となっては有名な話になってしまったが、宮崎駿監督の母は彼の幼少期に病床に伏していた。宮崎監督にとっても子供時代に「子供」として母と触れ合うことができなかったということは楔のように残っていることが、様々な媒体で語られている。

そういう思いを持った宮崎駿監督が「母」を描かないことのほうが「逃げ」になる。だからこそ、宮崎監督はその作品の中で狡猾に「母」を描いて来た。

逆に言うと、宮崎監督にとっての「母」は自らの「作品」のなかに閉じ込められていたことになる。

「アオサギ」が眞人を誘い込んだ世界はそういう世界である。

偽物だった母と眞人が迷い込んだ世界

「アオサギ」に誘い込まれてた塔の中で眞人が最初に目撃したのは母だった。それは「アオサギ」の言葉通りであるようにも思われたが、それは水で作られた偽りの母であった。

この辺からどんどん作品で描かれているものの「意味」を取りづらいファンタジーの世界になっていくのだが、その後に描かれた世界があからさまにこれまでの宮崎作品の世界に類似していることを考えると、それはそのまま宮崎駿監督の内面世界の象徴ということでとりあえずは良いだろう。

ということは、わざわざ偽物の母を最初に設定したのは「これまで自分が描いてきた母は偽物」あるいは「今度こそ描くべき母を描く」という宣言をするためだったということになると思う。

ここまで来ると、「君たちはどう生きるか」の主人公眞人は宮崎駿の分身であることも見て取れるだろう(作品に登場した宮崎駿の分身その1)。また、眞人の父が航空機産業に従事していることからも分かる。宮崎駿監督の父 宮崎勝次は宮崎航空機製作所の社長であった。

快活に描かれる眞人の母と「崖の上のポニョ」

眞人が宮崎監督の分身だとすると、その母も宮崎監督の母の分身ということになるだろう。

そしてそれは宮崎監督の心に刻み込まれた病床の母ではなく、極めて快活な姿で描かれた。年齢も眞人と同じくらいと思われる。

ここで思い出すべきは「崖の上のポニョ」だろう。

制作ドキュメンタリー「ポニョはこうして生まれた(PR)」を見ないと分かりづらいのだが、「崖の上のポニョ」に登場した少々とっつきづらい老婆 トキさんにも宮崎監督にとっての母が投影されている。

トキさんがとっつきづらい人物として描かれたのは、病床に拭ける母が近づきがたい存在だったからかもしれない。

そして物語の終盤、宗介がトキさんに抱きしめられるのは監督にとってのある種の夢であったろうし、海底ドームのなかで元気に走り回る姿は監督の願いであっただろう。

しかし・・・トキさんは年老いた姿で描かれていた。そしてそれはある意味で地に足のついた表現ではある。

今回宮崎駿監督はそのリミッターを解除して、自分が会ったこともない若い姿で母が元気に動き回る姿を描ききったのである。しかもそれと分かる形で。

物語のラストでそんな母と抱きしめ合う姿になにか思うものがあった人もいると思うが・・・まあ、それはそういうことでいいのではないだろうか。うん。それであっていると思うよ。

このように「若く、元気な母をそれとして描く」ということはこれまで暗に行なってきたことだったかもしれないが、真っ向勝負で描いては来なかった。この辺も宮崎監督が新作を作ろうとした理由だったのではないだろうか。つまり、「まだやるべきことをやっていない」と思ったのだろう。

夏子の存在が意味するところ

「君たちはどう生きるか」には眞人の実の母と育ての母の夏子が登場する。この夏子という存在は何故この作品に登場したのだろうか?

おそらく理由は2つある。

ひとつは、眞人が不思議な塔に魅了される内面的な理由が必要であったからということになるだろう。眞人が「現状」に満足してしまったら、不思議な塔に足を運ぶ必要もなかったし、頭に傷を負うこともなかった。

夏子という眞人にとってのある種の「不満」がこの物語の序盤の推進剤として利用されているということになる。

もう一つの理由は、夏子と眞人の関係も、宮崎駿にとっての母との関係をある意味表しているからということになるだろう。

一番甘えたいときに病床にいた母に対する「近づきがたい思い」というものがた夏子として物語のなかに登場したのではないだろうか。そのように考えると、「君たちはどう生きるか」の中で宮崎監督は「すべての母」を描き切ることを決めたのかもしれない。

大叔父の積み石の謎

眞人が迷い込んだ世界が宮崎監督の内面世界の象徴だとするなら、大叔父が積んでいたギリギリのバランスで維持されていた積み石もある程度理解できるだろう。

そのためには宮崎監督の映画作りの手法を考えなくてはならない。

結構有名な話ではあるが、宮崎監督はある程度の絵コンテができた時点で作画インし、絵コンテを作りながら映画作りをする。

「絵コンテ」はカット割りが設定された「アニメの設計図」と例えられるもので、これがなければすべての作業が止まってしまう。宮崎監督の場合脚本も同時に進行するので、本人を含め誰も物語の全容をしることなく映画が制作される。

そのため、特に「千と千尋の神隠し」(あるいは「もののけ姫」)以降、「物語がめちゃくちゃ」とか「整合性がない」と言ったことが多分に聞かれるようになった。

ただ、それは宮崎監督本人が誰よりも承知していることである。

そして、そのような状況を考えると大叔父が積んでいた倒れそうな積み石はこれまで宮崎監督が作ってきた作品の持っていた危うさを表現してることになるだろう

あるいは、高齢になった自分の状況と捉えることも出来るし、かつて懸命に正社員採用を続けたスタジオジブリを表しているかもしれない。いずれにせよ、「自分のやってきたこと」がギリギリのバランスの中にあったという自覚があの積み石だったのだと思う。

そのように考えると、あの大叔父も宮崎駿監督の分身ということになるだろう(作品に登場した宮崎駿の分身その2)。

2023年12月16日NHKで放送された「プロフェッショナル 仕事の流儀 ジブリと宮﨑駿の2399日」に於いて、宮崎監督本人が「大叔父のモデルは高畑勲である」という旨の発言をしている。したがって上のような考え方は基本的に間違いということになるのだが・・・本編を見る限りどう考えても高畑勲には見えない。

高畑勲を描こうとはしたのだが、結局自分を描いてしまったということになると私は思う。その辺の根拠は以下の文章に続く。

ただ、これだけでは「大叔父が宮崎駿の分身」という仮説は弱いかもしれない。しかし、大叔父を狂わせた謎の隕石を思えばもう少し説得力が出るかもしれない。

大叔父を狂わせた隕石

隕石が意味するもの

「君たちはどう生きるか」という物語の序盤から何やら意味ありげに存在感を示していた謎の塔。大叔父を狂わせたその塔は大叔父が自ら建設したものであり、その核は隕石であったことが明らかになった。

ここでも映画を見ている我々は「ん?どいういうことだ?」と疑問をもつ。「隕石である」という事実があまりにも突飛であるから。

ただ、ここで大事なことは大叔父がその謎の存在に狂うほどに心奪われ、ず~っとそのなかにいたという事実である。

それってつまり、あの隕石は宮崎監督にとってのアニメーションそのものではないだろうか。そしてその中に広がった世界は宮崎監督自身が作ったアニメーションの世界ということになる。

より抽象的に「誰かの心を強く揺さぶったもの」の象徴ということもできるかもしれない。すべての人があのような妖しくも美しい隕石の衝突のような衝撃を受けることができるわけではない。でも、この世界にはそういう衝撃を受け、その人生を立った一つのことに捧げることのできる人がいる。宮崎監督もその一人だった。

物語の終盤に描かれたいくつもの扉もその証左という事もできるだろう。あの扉は時間と空間を一瞬で飛び越えることのできる扉である。それはまさにアニメーションが最も得意とする表現だろう。一瞬を長く表現したり、長い時間を一瞬で飛び越えたり、千里の道を三歩で進むのがアニメーションである。

また、不思議な世界にいた人間のようなインコたちが、扉を出た瞬間に小さくなることもあの世界がアニメーションの世界だったことの証明の用に見える。あの扉は「フィクションと現実」の間にある扉である。扉の中ならインコも言葉を話し、人間のように振る舞えるが、底を超えたら元のインコに戻ってしまう。

ただ、この作品のややこしいところはその世界に「死の世界」という要素を入れ込んでいることだろう。それは作品中で露骨に描かれたし、そこに眞人の母がいたことからもわかる。つまり、あの不思議な等の中の世界は

  • 宮崎駿の内面世界であり、
  • 宮崎駿が作り続けたアニメーションの世界であり、
  • 宮崎駿にとっての死の世界

という3つのものが渾然一体となっている世界ということになる。こういう多義性が「君たちはどう生きるか」のややこしいところなのである。

ここまでくれば、眞人の大叔父は「アニメーション監督としての宮崎駿の分身」といって良いのではないだろうか。

隕石の発生源

大叔父を狂わせた隕石の意味合いはいいとしても、あれが空から突如現れたという事実はどうしても受け入れがたいものがあった。

しかし、恐らくなのだが、あの隕石が発生した瞬間が本編に描かれている。

それはラスト、大叔父の世界が崩壊する中で大叔父が積み上げた13の石が崩れ行く世界とともに宇宙のような世界に落ちていくのだが、そのシーンで流星が流れていくのが見える。

おそらくその流星こそが大叔父を狂わせた隕石である

あの禍々しい石は大叔父に大きな力を与えたものだが、悠久の時の中で延々と続く円環の中にとどまっている存在であり、大叔父もそういう存在であるということになる。

物語の序盤で眞人は母の死を乗り越えることができておらず、ある意味で延々と続く円環のなかに囚われているとも言えるし、夏子の存在がそれを促進してしまっているようにも見える。

一方母が残してくれた「君たちはどう生きるか」という小説を読むことで眞人はその円環から脱却することに成功し、夏子を母として受け入れることを決めたのだと思う。「君たちはどう生きるか」という小説は、映画の中で重要な大段落を作っていることになる。

そして翻って考えれると、そういう円環から脱却した眞人が大叔父のあとをついで円環のなかにこもること選ぶことはないのである。

この辺はうまくできていると思う。

そして「君たちはどう生きるか」という映画にはこのようなタイムリープものとしての要素があることが分かる。

閑話休題:バディものとしての「君たちはどう生きるか」-宮崎駿、鈴木敏夫そして保田道世-

鈴木敏夫としてのサギ男

さて、眞人や大叔父が宮崎駿の分身だとして、あの不思議な世界が宮崎駿の内面世界や作ってきた世界を象徴しているとして、一人(?)だけ奇妙な存在がどうしても残ってしまう。

サギ男である。

サギ男も元は青サギなので、インコやペリカンと同様に大叔父があの世界に持ち込んだものと考えることも出来るが、それでは少々矛盾というか整合性が取れなくなる。

インコとペリカンは、謎の塔を出た途端に普通の鳥の戻ってしまうが、青サギについては塔の外にいてもキチンと人格を持っており、眞人を塔へ誘うことが出来ていた。

「君たちはどう生きるか」における青サギは他の鳥とは明確に違う存在ということになる。ではあの青サギ・サギ男は一体何なのか?

眞人が宮崎駿の分身だとするならば、その眞人に付き添って旅を支えた青サギは・・・鈴木敏夫の分身だろう。

スタジオジブリ設立前から宮崎駿や高畑勲と交流を持ち、彼らと共にアニメーションを作りづけたその姿がサギ男として描かれたのではないだろうか。

思えば「君たちはどう生きるか」は「カリオストロの城」以来久々の「バディもの」だった。始めは言葉巧みに眞人を惑わせる存在として現れた青サギだったが、結局は眞人のいい相棒となって彼を支える存在となった。

あの不思議な世界が宮崎駿の「創作の世界」だとするならば、眞人とサギ男の旅は、宮崎駿のと鈴木敏夫が二人で歩んだ旅を表現したものだったと言えるだろう。

こういう意味においても、結局あの塔の中の世界は宮崎駿の内面世界だったのだと私は思う。

保田道世としてのキリコ

「バディもの」という視点に立った瞬間に、「君たちはどう生きるか」という物語を根本的に分かりづらくしている人物の意味がが少しだけ分かる気もするのである。

それがキリコ

老婆として現れ、何故か若々しい姿で出現し、眞人を助ける人物として不可思議な「魔法」を駆使してくれていた。

私が思うにキリコが表現していてのは2016年10月に亡くなった保田道世さんではないかと思う。これは極めて根拠薄弱なのだが、以下のページの「キリコ」の項にもう少し詳しいことを書いている。

皆さんはどう思うだろうか。

タイムリープものとしての「君たちはどう生きるか」-訳の分からない物語-

ヒミとキリコ

物語のラスト、ヒミとキリコは過去の世界につながる扉から帰ってヒミは眞人の母となる道を選ぶことになる。

「過去の母に会う」という現象が発生している時点であからさまにタイムリープものなのだが、それが発生した世界が時間と空間が混在する訳の分からない世界なので、いよいよ発生していることの訳が分からない。

好書好日:君たちはどう生きるか」宮崎駿監督が、新作映画について語っていたこと。そして吉野源三郎のこと

によると、初号試写を終えた宮崎監督は「おそらく、訳が分からなかったことでしょう。私自身、訳が分からないところがありました」と語ったそうだが、監督の言うところの「訳が分からない」部分というのはこの辺の時系列だと個人的には思う。決して全体的な物語性についての発言ではないと思う。

一応個人的に考えた落とし所的時系列をまとめてみると:

  1. 眞人の母が大叔父の塔で神隠しにあう。母を追ったキリコも同じように神隠し、
  2. 不思議な世界のなかに順応した母とキリコは魔法の力を得る、
  3. 眞人は老婆となったキリコとともに大叔父が作った世界に迷い込んだが、二人の人間が同時には存在できないので老婆のキリコは人形となった。
  4. 最終的に眞人の母とキリコは自分が来た時間の一年後の世界へ、眞人は自分が神隠しに会ってからしばらく立った世界に戻る。
  5. 跡継ぎを得られたなかった大叔父の塔は倒壊

眞人の母が塔に迷い込んだのはだいぶ昔のことであると思われるし、大叔父が存命であることを考えるとあの世界は現実世界に対して時間の進む速さが恐ろしく遅いことになる。

どうだろうか、もちろん異論はるだろう!特にキリコの取り扱いには異論があると思われる。キリコが眞人と同じ傷を持っていたことの「理由」は、千年考えても分かる気がしなかった。

しかしだ・・・我々人間に理解しうるのは実際に発生しうる物理現象である。大叔父の作った世界もタイムリープも、実際には存在も発生もし得ないのだから理解できなくてあたりまえ。

俺たちは宮崎監督が作った訳のわからない見事なファンタジー世界に迷い込んだのである。フィクションとはそういうものではないだろうか。

大叔父の作った世界を考えるとき、どうしても「シン・エヴァンゲリオン」の「マイナス宇宙」を思い出す。

すべてのことがあの世界でだけはやり直すことの出来る「マイナス宇宙」は、庵野秀明監督の頭の中ということもできるし、アニメーションの制作現場ということもできるだろう。

大叔父自身が作り上げているあの不思議な世界も、何度となくやり直しがあったかもしれない(映画本編の段階においてはやり直しが効かないくらいヤバい状態にあったということか?)。そんな世界で「整合性」など考えるだけ無駄というものだろう。

あの世界ではなんでも発生するし、それがいつでも発生する。あれは、そういう世界なのだよ、うん。別に考えるのに疲れたわけじゃないぞ!

母の遺体はどうなったのか

物語本編で、眞人はアオサギから「母の遺体を見ていないだろう」ということを言われる。どうやらそれは本当のようで、眞人は母の遺体見るという形で母の死を認識していない。

これには次の2つの可能性が考えられる:

  1. 母の遺体は眞人に見せられるような状態ではなかった。
  2. 母の遺体は実のところ発見されなかった。

普通に考えれば前者ということになるだろう。まだ子供である眞人に焼けただれた母の遺体を見せるのはあまりにも可愛そうだと父が考えたとしても何らおかしなことではない。

ただ、不思議な世界で「火の力」を手に入れていたことを前提にすると後者の可能性も十分に考えられる。

元の世界に戻ったヒミは当然のように眞人にあった記憶を失っているのだが、火に囲まれながら死に至るその時、眞人の母は「火の力」とその記憶を取り戻し「火の精」として眞人を守る存在になった。

夢うつつのときに、眞人が炎をまとう母の姿を見たのはそういうことなのだろう。

また、神隠しにあった眞人の母が「火の力」を持っていたのは「火の精霊となった眞人の母が眞人と一緒にあの世界にいったから」という言い方もできるかもしれない。

な、訳分からんだろ

自分で書いたくせに「訳分からんだろ」も無責任ではあるのだが、なんかこう、ニュアンスは伝わるのではないだろうか。もちろん「火の精として眞人を守っていた」というほぼ根拠のないこだわりを捨てれば少なくともこの訳の分からなさからは開放されるのだが、結局「君たちはどう生きるか」の世界、少なくとも大叔父のいた世界では「原因と結果」が必ずしも通常の時間軸に沿って発生しているわけではないということなのだと思う。

やはりこういった「時間的整合性」の部分が、宮崎監督の言うところの「訳が分からない」なのだろう。

描かれた謎の祠(ほこら)

眞人が「地下世界」に迷い込んだときに最初に目にしたのは謎の、おどろおどろしい祠であった。その中には何やら祈りを捧げて鎮めなければならない存在がいたらしい。

あの世界が「宮崎駿の内面世界」であり「宮崎駿のアニメーション世界」であると考えるなら、あの祠のなかにいたのは「それでもなお宮崎駿が作品に出していないドロドロとしたなにか」ということになる。

「作品を作る」とは、何かしらの形で「自分を暴露する」ということになるだろうが、自分の中にある全てのものを表に出してしまったらそれはエンタメにはならないし、そもそも人様に見せて良いものにならない。

自分をさらけ出さなければ作品にならないが、さらけ出しすぎると破綻する。

そのギリギリのところで宮崎駿監督は自分の作品のなかにエッセンスを注入したのだろうが、それでもなお出しきらなかったなにかがあるという自覚があるのだろう。そのなにかがあの祠のなかに眠っていた。それに祈りを捧げて鎮めたということは「この作品でも出さないよ~ん」という宣言と取ることが出来るだろう。

ただ、本人が出していないと思っているということと、実際に出ていないということの間には大きな差がある。もしかしたら私達は、宮崎監督が隠しきったと思い込んでいる「なにか」を受け取ってしまっているのかもしれない。

眞人の決断と宮崎駿のメッセージその1

大叔父がアニメーション監督としての宮崎駿だとするならば、物語のラストの眞人との対話は自分自身との対話であったということになる。

大叔父は自らの仕事のマヒトに継承させようとし石を積むようにいうが、眞人は「それは冷たい石であり、温かい木ではない」と言って大叔父の仕事の継承を拒否した。その結果大叔父が愛した世界が崩壊してしまうのだが、あのシーンは一体どういうことだったのだろうか?

これまで考えてきた通り、あの世界は宮崎監督が作ってきたアニメーションの世界と考えることが出来るが、眞人はそれを「冷たい石」と評していることになる。

どの辺が「冷たい」のだろうか?

私を含め、多くの人を魅了してきた宮崎作品だが、その制作現場は少々特殊である。先述した絵コンテ作業もさることながら、アニメーターが書いた原画の修正作業が少々苛烈である。

元々天才的なアニメーターであった宮崎監督は、アニメーターが書いた原画全てに目を通し、それを自分の手で直してしまう。作画監督の仕事は宮崎監督のラフをその意図を汲みながら清書することである。

しかもその修正が容赦ない。懸命に書いた原画がバンバン捨てられて別のものに変わっていくのである。

早い話が全部自分で書きたいが、それができないので仕方がなく人を使っているということになる。少なくとも周りからはそう見えるだろう。

そんな状況で現場がもつのは、結局宮崎監督の修正が極めて優れているからということになる。

もちろんすべてのアニメーターが修正後の方がいいと思ったとは限らない。心のなかで宮崎駿を殴り倒した人も多くいたことだろう。

ジブリの教科書9 耳をすませば(PR)」の中で高坂希太郎さんという有名なアニメーターの方も近藤監督の作画チェックについて語る中で以下のように述べている:

近藤さんのチェックは二段階なんです。原画が上がってくると、まずキャラクターだけを直すんです。ですから芝居はノーチェックのままそのカットが動画スタッフにまわり、動画が上がってきたときに初めて芝居をチェックします。宮崎さんのチェックのように原画マンの労力が全く無駄になるということは少ないのですが、このやり方はリスクも大きく・・・

一から直されてしまう宮崎監督作品とは異なり、現我慢にとってはあまり畏縮せずにのびのびと参加できた作品だったと思いますし・・・

一流のアニメーターにとっても宮崎監督作品の制作現場というのはなかなか大変な場所だったことが分かる。

更に、宮崎作品のほとんどが、原作、脚本、絵コンテ、監督のすべてを一人の人間宮崎駿によって生み出されていることも注目すべきだろう。

それは大変にすごいことなのだけれど、原画まで自ら直接直してしまっていることを考えると、宮崎作品というのは宮崎駿という人間が作った閉じた世界ということも出来る。

こういった「制作現場の独特な苛烈さ」と「閉じた世界」であるという事実が大叔父の積み上げたものが「冷たい石」と評された理由であろう。

このように考えると、宮崎駿は自らの世界を決定的に否定したというエンディングということになる。ただ、眞人が否定したのは「冷たい石」であり「温かい木」であれば良いということにもなる。

さらに、眞人が塔の中で起こったことを覚えていたことも注目すべきだろう。眞人はいわゆる「神隠し」の状態にあったのであり、本来「神隠し」から帰ってきたものはその記憶を失っている。

ところが、彼はポケットに入れてきた「石のかけら」のお陰でその記憶を持ち続けている。

これらのことを総合すると、あのエンディングが意味するところは「私はこれまで作ってきたものをすべて忘れさるわけではないが、これまでと違う形でアニメーションを作る(アニメーションに携わる)」という宣言だったということが出来るのではないだろうか。年齢的なことを考えると信じがたいことだが、ここまで考えてきたことを考えるとあながちおかしくもない。

ただ、大叔父の「血の繋がったものでなくてはあとを継げない」ということばを鑑みると、あのエンディングはもう少し複雑な構造を持っていたと考えることが出来る。

ここで再び眞人の父に登場してもらおう。

眞人の父と宮崎駿のメッセージその2

最初に述べたように、眞人は宮崎駿の分身であり、その父は宮崎駿の父 勝次の分身ということでとりあえずはいいのだが、実は物語のラストシーンを見るともう少し複合的になっていることが分かる。

宮崎駿は実のところ四人兄弟に次男だが、眞人は最終的に2人兄弟の兄という事になっている。もちろん眞人の兄弟が増える可能性はあるのだが、兄と弟では大違いだろう。

何を言いたいのかというと、ラストシーンでの家族四人の姿と大叔父の言葉を合わせると、眞人には宮崎駿監督の息子 宮崎吾朗さんも投影されており、眞人の父には宮崎駿本人も投影されているということになるのではないだろうか。宮崎駿一家は四人家族である(子供は息子が2人)。

このようにひとつの存在に複数の要素が投影され、それが場面ごとに変わったり、同時に存在するところがこの映画のややこしいところである。

結局このような視点に立てば、眞人と大叔父との対話の内容とその後の展開は、宮崎駿から息子宮崎吾朗へのメッセージと捉える事ができる。

そのメッセージの意味あいを考えるためにはもう少しだけ考える必要があるが、文章にするといよいよややこしいことになる。

眞人と大叔父の対話シーンにおける眞人は、宮崎駿と宮崎吾朗という2人の人物が投影されているが、そのような存在が最終的にそのとの世界を望み、眞人が「宮崎一家」に回帰していくということは、宮崎吾朗に「宮崎駿的ではないもの世界」に飛び出してほしいという願いであるとともに、眞人であった自分が、眞人の父である世界に飛び出していくということにもなるだろう。

さらに、眞人が元の世界に「石のかけら」を持ってきてしまったことを含めて考えると、物語のメッセージは「悟朗、以前は色々あったがアニメーションを作り続けてほしい。ただ、その作り方は私と同じようなものであってはならないし、そもそもお前はそうではない作り方をしてきたはずだ。ただ、私の知恵や技術も忘れないでほしい。そして私は父としてお前を支える。」ということになるだろう。

作り続けてほしいものは必ずしもアニメーションではないかもしれないし、ジブリパークの制作指揮といった宮崎吾朗さんならではの仕事を指しているかもしれない。

「父として支える」という部分については、私は「アーヤと魔女」を素直に褒めていた宮崎駿監督の姿が思い出される。

このインタビューが公開されたのが2021年、収録されたのがそれより前だとしてもバキバキに「君たちはどう生きるか」を作っている最中である。「コクリコ坂から」の制作ドキュメンタリーの中での宮崎駿監督の姿をしっていると、この「素直に褒める」という姿に何やら違和感を覚えた。

ただ「君たちはどう生きるか」を見るとあのインタビューも「父として息子を支える」という姿勢の現れだったと思うことができる。

また、個人的な願いも込めて言うならば、宮崎吾朗と宮崎駿の共作が再び実現するのではないだろうか。そうなると、映画が公開された2023年7月14日、金曜ロードショーでわざわざ「コクリコ坂から」が公開された意味も見えてくるように思われる。

何れにせよ、「君たちはどう生きるか」は「息子へのエールと父への回帰」を宣言した物語であったということが出来るのではないだろうか。

以上が「君たちはどう生きるか」を見て考えたことだが、冗長になりすぎたので手短にまとめようと思う。

君たちはどう生きるか」の考察のまとめと感想

まとめ

「君たちはどう生きるか」とう言う作品は「難しい」というよりは「ややこしい」作品である。そのややこしさは「塔の中の世界」、「眞人」、「眞人の父」、「大叔父」という存在に複合的な意味があり、その意味が場面によって縦横無尽に変わっていくことにある。

「塔の中の世界」が表しているのは、

  • 宮崎駿の内面世界、
  • 宮崎駿が作り続けたアニメーションの世界、
  • 宮崎駿にとっての死の世界

である。また、「眞人」、「眞人の父」、「大叔父」については

  • 眞人は宮崎駿の分身として現れ、大叔父との対話で宮崎駿と宮崎吾朗2人が同時に投影され、最期は宮崎吾朗として終わる。
  • 眞人の父は宮崎駿の父として現れ、宮崎駿本人として終わっていく(物語の途中ではその2つの要素がかさなっている)。
  • 大叔父はアニメーション監督としての宮崎駿が投影されている

ということになるだろう。大叔父についても宮崎駿の父が絶妙に投影されているかもしれない。このように「ややこしい」構造をもちながら、作られた物語には以下の2つのテーマがあったと思われる:

  1. 若く元気な母を描き自らの作品に閉じ込められた「母」を開放する。
  2. 父と息子のふれあいを描きながら「息子の父としての自分」を描く。

このようなテーマ性があった上で、宮崎駿監督独特の辛辣なアニメーション制作手法、物語中の大叔父の積み石、眞人と大叔父との対話、崩壊する塔を考えると、最終的に描かれたメッセージとしては次が考えられる:

  1. 私のアニメーション制作手法は辛辣で「冷たい石」だった、これからは「暖かい木」としてアニメーションに携わっていく。
  2. 父として息子の創作活動を支える。

宮崎駿監督の年齢を考えるとこれからどれくらいアニメーション制作に携わることが出来るか分からないが、「君たちはどう生きるか」を見る限り、アニメーション制作をやめる気など全くないと感じた。多分に個人的な願望がはいっていることは認めるが。


ここまでは偉そうに「考察」なんてことをしてみたが、ここからは素直な個人的感想を述べていこう。

初見の喜びと困惑

「君たちはどう生きるか」で特筆すべきだったのは全く宣伝がなされなかったことだった。プロデューサーの鈴木敏夫さんから「ファンタジーである」ということは明かされていたが、それ以外にはキービジュアルしか明かされていなかった。

「風立ちぬ」にはファンタジー要素がほとんどなかったこともあり、眞人が塔のなかに入っていくシーンでは「おっ!ついに宮崎ファンタジーワールド開園!これやこれやこれやなが~!」と非常に心が踊った。

ただ、その一方で「不思議の世界へ」という構造がどう考えても「千と千尋の神隠し」であったし、その後に描かれたファンタジー世界もどう考えてもこれまでの宮崎作品を想起させるものだったし、物語の最期は「バルス」だった。

少なくとも「天空の城ラピュタ」、「千と千尋の神隠し」、「崖の上のポニョ」、「ハウルの動く城」、「風立ちぬ」を思わずにはいられなかった。

そうなると、自分が見ているものをどう考えれば良いのか少々の困惑があったのだが、その一方、どうしても意図的にこれまでの宮崎作品の要素が入れ込まれているとしか思えない部分もあった。

多くの人がそうであったと思うが、事前情報のない新鮮な感動と素直な困惑が初見で感じたことだったと思う。

ただ、ブログで感想を書きたいとも思っていたので、映画館で見てから数日間色々と考えた結果がこの記事ということである。少々妄想じみているかもしれないが、そんなにずれてもいないと思う。

怖い怖い義母 夏子

「君たちはどう生きるか」で一番強烈だったシーンは夏子が眞人に対して「大嫌い」と絶叫したシーンだっただろう。

ただ、重要なのはあのシーンの怖さとか強烈さよりも物語を通じて我々見ている側がなんとなくそんな夏子の気持ちに気がついてしまっていたということだろう。

その印象我々に決定的に植え付けたのは、夏子が眞人の手を無理やり掴んで自分のお腹に当てたシーンであると思われる。

結局あのシーンはまだ子供である眞人に対して「お前の父はもうお前のものではない。彼は私とこの子のものだ!」とう宣戦布告だった。

ただ、自分でも少々やりすぎたと思ったのか、その後は少なくとも表面上は眞人を気にかける素振りは見せいていた。

少々酷い人のようにも思えるが、自分の子供ではない存在を自分の子として受け入れることはそんなに簡単なことではないだろう。もちろんそれは子供側にとっても同じことであっただろうが、最終的には「雨降って地固まる」となったことは喜ばしいことであった。

22年に公開された新海誠監督作品「すずめの戸締まり」でも、主人公 鈴芽(すずめ)の育ての母が長年に渡って積もらせてしまった罵詈雑言を鈴芽にぶつけるシーンが描かれた。そちらでもうまいこと「雨降って地固まる」となったが、同時期に制作された作品で同様のシーンが描かれたことは少々気に留めておく必要があるかもしれない。

眞人の悪意

映画の本編中で、一番最初に我々を困惑させたのは眞人が自分の頭を石で殴った際にとんでもない量の血が流れたシーンだろう。

彼はその結果としてできた傷を「悪意の証」と述べていた。「悪意」の意味を考えてみると、

  • 「学校に行きたくない」というのが負けた気がしたため、大怪我を追うことで父を利用しようとした、
  • 大怪我を追った自分を夏子がどのように取り扱うかを見ようと考え、夏子を試した、

と言ったところだろうと思うが、「悪意」の意味なんかより、あの大量の血が流れるシーンを見た瞬間に「あっ、この映画色々考えないとあかんやつや!」と痛感したことが大事だった気がする。

まあ、宮崎監督の最新作ということで妙な緊張感を持って見た自分の問題でもあるのだけれど。

不滅の宮崎ユーモア

「君たちはどう生きるか」でもっとも感激したのは不滅の宮崎ユーモアであったかもしれない。

アニメーションに限らず、多くの映画の中で「閑話休題」としてのユーモアシーンが描かれることはあるのだが、個人的にはその99.9%が滑っている、または失敗していると感じている。

一方宮崎作品は絶妙なところで必ずクスッととさせてくれる。あの「もののけ姫」ですら、そういうシーンをぶち込んできた。

「君たちはどう生きるか」のハイライトシーンは「アオサギ」のくちばしに空いた穴を埋めるために眞人が作った木製の部品の調整シーンだろうか。絶妙な間でとてもおもしろかった。

それ以外にも、作画の労力をつかってわざわざ描いた「四つ足でバックする眞人」とか「眞人がセキセイインコになっちまった~」という眞人の父の台詞など、絶妙なユーモアシーンが散りばめられていて、私はその全てにクスッときた。

もちろんユーモアがハマるかどうかは人によるので、私とは真逆でまったく宮崎ユーモアを受け付けない人もいるだろうが、私は不滅の宮崎ユーモアを見ることができてとても満足だった。

ただ、一番笑ったのは吉野源三郎の小説「君たちはどう生きるか」がその小説として本編に登場したシーンだったかもしれない。これは全く「宮崎ユーモア」とは関係ないのだが、「その手があったか!」と感心するとともに笑ったよ。巨匠宮崎駿監督なら同名小説をそのまま本編に登場させればとのタイトルを拝借することが許されるのであろう。巨匠ならではの豪胆な手法であった。

とりあえず以上!

ジブリ作品で一番好きなのは?
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シフルはどうなんだい?
「ジブリ作品」と聞かれたら「平成狸合戦ぽんぽこ」と答えることにしているが「君たちはどう生きるか」も候補に入るかもしれない。

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北国出身横浜在住の30代独り身。日頃は教育関連の仕事をしていますが、暇な時間を使って好きな映画やアニメーションについての記事を書いています。利用したサービスや家電についても少し書いていますが・・・もう崖っぷちです。孤独で死にそうです。でもまだ生きてます。だからもう少しだけ生きてみます。
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