「崖の上のポニョ」は2008年に公開された宮崎駿監督による劇場用アニメーション作品である。
初めて見たときにはたいして感想を持つことが出来なかったことを憶えているが、それでもなお無視できなかったのは宗介が母親を名前で呼ぶという事実であった。しかも「リサ」と呼び捨てで。
今回は「何故宗介は母親を名前で呼ぶのか?」ということを考えていこうと思う。
ただその準備段階として、リサに関する誤解を解く必要があると思われる。つまり、リサが自分を名前で呼ばせているというショッキングな状況に引っ張られて、リサをあまり良くない親、欠損のある親とする風潮があるように感じるのだが、まずリサはそんな親ではなく、むしろ大変立派な親であり大人であるという事実を確認し、その上で「親を名前で呼ぶこと」に関して考えようと思う。
「崖の上のポニョ」で宗介が母親をリサと名前で呼ぶ理由。
劇中で見せたリサのナイスな姿
まず最も単純で重要なことだが、リサは夫が家により着かない状態で実質ワンオペ育児をしており、その上で「ひまわりのいえ」での仕事もこなしているのだ。
この時点でリサの有り様に批判をする気が失せるどころか大変立派であることが分かると思うが、リサはもっとナイスな姿を私達に見せてくれる。
その姿はポニョの再来による台風発生後に「ひまわりのいえ」から宗介と一時的に帰宅するシーンからバンバン見ることになるのだが、それを箇条書きにすると次のようになる:
- 台風にさらされないようにわざわざ運転席から宗介を車に載せ、
- 宗介の「女の子が落ちた」の一言で、嵐の中その子を救助しようと車を出て、
- 結果的に迷子状態と思われるポニョを何も言わずに保護し、
- 自分のことはさておいて子どもたちの食事を用意して、
- 状況が安定したと見ると「ひまわりのいえ」の状態を確認しに行った。
ポニョを探しに車からで後に「宗介、行こう!」と車にもどる判断もカッコいい(状況判断が的確で早い)。いずれにせよリサは、親、そして大人として当然のように子どもたちを守り、職業人としての責任も果たしきろうとしている。夫の耕一がいればもう少し状況も違ったかもしれないが、基本的に男が役に立たないのは宮崎作品の常である。
ただ反論もあるかもしれない。例えば物語の序盤で、宗介がポニョをバケツいっぱいの水道水に入れるシーン。
宗介はポニョを海岸で見つけたのだから、きちんと親にしつけられていれば水道水ではなくバケツに海水を入れるはずだと批判する人もいる。
しかしそのような批判する人は、自分はすべてのことを子供に教えたと思いこんでいる面倒な親か、自分ならすべてのことを教えられると思いこんでいるまだ親になっていない間抜けである。
親はすべてのことを教えられるわけではないし、子供は様々な経験を通じて親が教えきることが出来なかったことを学ぶのである。
ポニョを水道水に入れるシーンも、本来ならそういうことをして魚が死ぬ姿を見てなにかを学んだはず(失われた命には申し訳ないが)。
また、ラストの判断にも不満はあるかもしれない。
結局リサは世界の命運を自らの息子に押し付ける判断をしたことになる。グランマンマーレに何を言われたかは分からないが、あまりにもひどいと思うかもしれない。
しかしこれもリサがきちんとした人物であるがゆえの苦渋の決断である。
もちろんリサは宗介のことが一番大事だし、グランマンマーレのオファーを断ろうとはしただろう。しかし、宗介を大事にするためには宗介が生きる世界そのものも大事にしなくてはならない。しかも、世界が一変した原因をたどると、宗介本人がポニョを人間の世界に連れ込んだことにはなっている。
出来ることならリサ本人がその責任を取りたかっただろうが、状況を変える力を持っているのが宗介だけとなるとそれも出来ない。
そんな状況下で彼女がした判断は「宗介に責任を追わせるという罪を背負って生きる」ということだったのではないだろうか。
これは「責任」から逃げているようなだめな親に出来ることではない。彼女が立派な人間であるがゆえになし得た決断だったに違いないのだ。
以上でリサについての準備は終了である。もちろん異論はあるとは思うが、概ね立派でカッコいい人であるということは分かってもらえたのではないだろうか。
母親をリサと呼び捨てにするイカした男宗介
ようやく宗介の話だが「宗介が母親をリサと呼び捨てにする」という事実を考える為には、そうでなかったらと考えるのが一つの手だろう。
つまり、宗介がリサを「お母さん」とか「ママ」と呼んでいたら、それはどういう状況を意味していたかと考えてみる。
もちろんそれは「普通」ということにはなるのだが、「普通」であるとはつまり、子供が近くに居る大人、特にこの場合母親に強く依存する状況を意味する。5歳の少年なら全くかまわないのだが・・・そんな子供にポニョは守れない。
逆に、自分の親をリサ、耕一と呼ぶ少年であるからこそ、ポニョを守ることが出来るし、大水害の後でリサを探しに船出をすることが出来るのである。
また、家庭事情も関係しているかもしれない。
この作品では宗介の父耕一は完全に不在な状態だった。それは耕一が家庭から逃げているということもあるかもしれないが、船乗りという仕事上同仕様もないこととも言える。
このように、1年の大半を母と息子だけで過ごすことがほぼ確定している状態で宗介をどのように育てるかの方針は極めて重要だと思うが、彼らが最重要視したのが宗介の自立心だったのではないだろうか。
そして彼らの願いは見事に結実し、5歳の少年としては十分すぎる自立心が育っているし、賢明に大切なモノを守ろうとする立派な男に育っている。
本編中宗介は何度か極めて聡明で、凛々しい眼差しを見せてくれる。それはリサや耕一が賢明に育てた結果生まれた美しい眼差しあり、彼らの教育方針の正しさを雄弁に語るものだったように思われる。
まあ、実質的にリサが育てた眼差しだとは思うけど。
基本的にこの記事で言いたいことはこれが全てなのだけれども、最後に少し視点を変えて宗介が母親を名前で呼ぶ理由を考えてみようと思う。
結局は夫婦仲が良かったことの暗示
さて、子供が生まれるまで夫婦は互いをどのように呼び合っているだろうか?それは名前であることもあるし、独自の愛称であることもある。
ところが、子供が生まれた途端にお互いを「お父さん、お母さん」、「パパ、ママ」と呼ぶようになることが多い。
この現象の理由はいくつかあるのだろうけれど、結構大きな理由として「子供に父と母を『お父さん、お母さん』または『パパ、ママ』」として認識させそのように呼ばせるためである。
赤ん坊はまだ言葉が話せない訳だから、その家族の中で父親に声をかける回数が一番多いのが母親であり、母親に声をかける回数が一番多いのが父親となる(核家族の場合だけれど)。
そうすると、両親がお互いを名前や愛称で呼んでしまうと、赤ん坊はそれこそがその存在の正しい呼称であると認識する可能性がある。
しかし両親としては「お父さん、お母さん」「パパ、ママ」と呼んでほしいわけなので、妙な齟齬が怒らないように、少なくとも子供の前ではお互いを名前や愛称で呼ぶことを避けるわけである。
さらに、子供がある程度成長した後も、お互いを「お父さん、お母さん」「パパ、ママ」と呼んだほうが家庭内での立場が明確になってやりやすいということもある。
しかし、逆に考えると、リサと耕一は宗介が生まれてからず~っとお互いを名前で呼び続けていたということになるだろう。映画本編でもリサは宗介の前で「耕一」という表現を使っている。
つまりものすごく仲が良かったし、今でも仲が良い。
本編中では仕事にかまけて家に寄り付かない耕一に対する不満を述べてはいるが、それも愛情の裏返しということになる。
そんな仲の良い夫婦の愛情を受けてすくすくと育ったそうすけだからこそ、この物語の主人公たり得たのだろう。
おまけ:「クレヨンしんちゃん」そして「となりのトトロ」
どうしても思い出す「クレヨンしんちゃん」
「親を呼び捨てにする」という事実を目にしたときに、どうしても思い出してしまうのが「クレヨンしんちゃん」である。
しんのすけは母を「みさえ」と呼び、父を「ひろし」と呼ぶ(これも上で述べたように結局は夫婦仲がよいことを表している)。
では、しんのすけはだめな人間かというとそうではない。彼は優れた自立心と妹を守ろうとする責任感の塊である。結果的に、「クレヨンしんちゃん」という物語は「核家族」という言葉のネガティブな意味合いに対するアンチテーゼとしての作品になっている(原作の意図は別として)。つまり「核家族」を肯定している。
このような視点に立つと、「崖の上のポニョ」は「クレヨンしんちゃん」の対抗作品になっていたとみなすことも出来るのではないだろうか(もちろん結果論として)。
宗介はしんのすけほどおちゃらけてもいないし、ふざけてもいない。でも、同じくらいの自立心を持っている。
妙な味方だとは思うが、「崖の上のポニョ」で描かれた宗介は、結果的に「宮崎版しんのすけ」だったと思うことが出来るのではないだろうか。
「となりのトトロ」と「崖の上のポニョ」
「崖の上のポニョ」を見ていてもう一つ意識してしまうのが「となりのトトロ」である。
二作品とも「子供に見せたい」という意気込みがものすごく伝わってくる上に、本編中に「わたっしわ~げ~んき~」とリサが一言歌うシーンも存在している。
ただそれ以上にこの二作品には以下のような共通点がある。
- 子供が一人のときに不可思議な存在に出会っている。
- 子供が危険な状態になっている。
「危険な状態」については、「となりのトトロ」でメイは失踪しているし、「崖の上のポニョ」で宗介は波にさらわれている。ただここで私が言いたいのは、ポニョがトトロの二番煎じだということではなくて、2作品には通底する思いがあるだろうということである。つまり、
子供は大人が見ていないときにとても不思議で大切な経験をするが、そこにはいつも危険が伴う
という思いである。
私自身も子供の頃に危険な遊びをしていた記憶があるが、危険と隣り合わせであることが子供の本質と言えるのかもしれない。ただ残念なことに、私はトトロやポニョには出会えなかった。同じ危険なら、もっと不思議な体験をしたかったものだ。
皆さんはなにか不思議な存在に出会ったことはありますか?
この記事で使用した画像は「スタジオジブリ作品静止画」の画像です。
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