「ウィキッド 永遠の約束」は、単なる悲恋の続編でも、「オズの魔法使い」へと繋がる裏話の補強でもない。グリンダ、フィエロ、エルファバの三人がそれぞれ抱えていた「本当に欲しかったもの」と、自分の真実に嘘をつくことで生まれた「邪悪さ(wicked)」を描くことで、この物語は人が人間らしく生きるとはどういうことかを問いかけている作品である。

本記事では、グリンダの恋がなぜこれほど切ないのかを出発点に、フィエロの裏切りやエルファバの正義の危うさを整理しながら、「ウィキッド」というタイトルに込められた本当の意味を考察する。あわせて、「オズの魔法使い」に繋がる謎――ルビーの靴、水で溶ける魔女、そしてドロシー帰還の問題についても掘り下げていく。

以下ネタバレについては一切気にしない文章となっているので、未視聴の方は注意してください。

  • グリンダの悲恋が示す「与える人」が抱えていた本当の欲望
    グリンダは常に「善い人」「与える人」として振る舞ってきたが、フィエロだけは与える対象ではなく、自分が「手に入れたい」と願った本当の欲望の対象であった。実らなかった恋は彼女を苦しめたが、その欠落こそが彼女を人間らしい存在として浮かび上がらせている。
  • 三人の「邪悪さ(wicked)」の正体は自分の真実に嘘をつくこと
    グリンダは「手に入れたい」という欲望を、フィエロは「自由に生きたい」という願いを、エルファバは「世界を壊したい」という衝動を、それぞれ隠して生きていた。彼らの悲劇や衝突は、悪そのものよりも、自分の本音を偽ってきたことから生まれたものとして描かれている。
  • 邪悪さ」は否定されるべきものではなく、人間らしさの一部である
    グリンダの敵意、フィエロの婚約破棄、エルファバの欺瞞はいずれも褒められた行為ではないが、同時に彼らの葛藤や欲望を可視化し、人間味を与えている。本作は「善だけで生きる」ことの不可能さを示し、むしろ邪悪さを抱えたまま生きる人間の姿を肯定している。
  • 物語の核心は「自らの邪悪さを認め、それでも生きていくこと」
    本作は単純な「自由に生きよう」という話ではなく、人は嘘や欺瞞や破壊衝動を抱えながら生きる存在だと描いている。そのうえで、自分の内なる邪悪さを自覚し、それを抱えたまま選択して生きることこそが「人間らしく生きる」ということなのだと示している。
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ウィキッド 永遠の約束」の考察

魔法の煙が渦巻く背景で、開かれた古い本の上に浮かぶ白と黒のひび割れた仮面。文字内容:「自分を偽るという罪」

グリンダ(ガリンダ)がほしかったものは「手に入れる」ということ

前作ウィキッド ふたりの魔女」(ブログ内のあらすじ記事)のときから少々違和感があったのが、グリンダのフィエロへの思いであった。

単純に「王子様と付き合ったほうがきらびやかだから」といった表層的な欲求にも見えなくもなかったのだが、「ウィキッド 永遠の約束」での描写を見ると、彼女はフィエロを失ったことを酷く悲しんでいた

それはつまり、彼女のフィエロへの思いが本物だったという描写とも取れるのだが、その一方で、前作から延々と描かれてきた彼女の「善良性」を考えると少し違って見えてくる。

グリンダは常に「与えるもの(giver)」として描かれており、それ故の傲慢さ(「与える」という感覚の傲慢さ)の象徴になっていたのだが、それでもなお彼女は懸命に与えようとする存在となっていた。

そんな彼女があの世界で2つほど「手に入れたい」と願っていたものがあった。一つは、モリブルからの個別指導。そしてもう一つがフィエロ。しかし、この2つには決定的な違いがある。

人々の期待に応えるための「魔法」

映画本編中に、グリンダの幼少期の描写がわざわざ投入されていた。そこでは「魔法の杖」をプレゼントされたグリンダがみんなの期待に応えて魔法を使おうとするも失敗。偶然発生した虹を自分の魔法と言い張る姿が描かれていた。

つまり、彼女にとっての「魔法」も、結局は内在的な欲求に基づくものではなく「期待に応える」というある意味における「give」を実現するためのものだった。

彼女がモリブルという人物の現実を知ってもなお、それほど絶望していなかったのは、彼女にとっての「魔法」はそれほど欲しいものではなかったからということになると思う。

与える」という価値から分離されたフィエロという存在

モリブルからの個別指導や「魔法の力」が実のところ「欲しいもの」ではなかった一方で、フィエロという存在は彼女にとっての「本当に欲しかったもの」として描かれていたことになるだろう。つまり彼女は「手に入れる」ということを求めていた。与えるのではなくてね。

前作では少々傲慢に見えた彼女の「与える行動」も、本作では極めて健気で、それでいて痛々しくもある。彼女は「善い人(The good)」であることを求められ続け、そんな自分を演じ続けていた。

そんな彼女の恋が成就しなかったことはなんとも切ないことである。

ところが、本作の面白いところは、この「実らなかった恋」がむしろグリンダを人間らしくさせており、この作品のテーマ性を浮き彫りにしてくれていることだと思う。

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ウィキッド 永遠の約束」とは何だったのか-自らの「邪悪さ(wicked)」を認め、それでも生きていくこと-

ここからは「ウィキッド 永遠の約束」あるいは「ウィキッドシリーズ」が何を描こうとしていたのかを考えていこうと思う。そのために、グリンダ、フィエロ、そしてエルファバを通じて描かれた「邪悪さ(wicked)」について振り返りそれらの共通点を探っていこう。

エルファバに見せる「敵意」という「邪悪さ」

前作で描かれたグリンダはあまりにも「与えること」に注力しすぎて、少々人間味がないのだが、そんな彼女が実に人間らしい姿を見せたのは、エルファバにダサい魔女の帽子をプレゼントしようとしたときだった。

あれは、善良(good)でいようとしてきたグリンダが見せた邪悪(wicked)な部分であった。ところが、そういう「悪巧み」をしているグリンダの姿はなんとも人間らしく、むしろ親しみが持てるとも言える。

さらに本作でも、エルファバと取っ組み合いの喧嘩をする彼女の姿にむしろ「人間味」を感じるのではないだろうか。

他者に対する「敵意」は本来的にはよろしくないものに分類される人間の感情(つまり「wicked」な感情)ではあるが、エルファバへの「敵意」がむしろグリンダに「人間味」を与えているところになる。

婚約破棄」にみるフィエロの「邪悪さ」

本作においては、前作から描かれていた色恋沙汰に一応の決着がついている。つまり、フィエロはグリンダではなくエルファバを選んだ。

ただ、彼が「邪悪」だったのは別にグリンダとの別れを選んだことではない。状況をだらだらと続けて「婚約破棄(直接的には結婚式からの逃走)」をするしかなくなった段階でグリンダを裏切ったことである。

ところが、グリンダと同様に、この「邪悪さ」にむしろフィエロの「人間味」が見えてくるようになっている。というのも、前作で登場したフィエロは、中身空っぽの完全に軽薄な男だった。心の葛藤や、悩み、そういうことを考えることをやめており、実に刹那的に生きていた。

しかし、そんな彼の中に「葛藤」や「悩み」が生まれ、自分の中にある「本当に欲しいもの」が明確になったことで、むしろ「邪悪な行動」を取ったことになる。

彼のあり方は褒められたものではない。確かにグリンダの結婚発表のやり口はそれこそ「邪悪」だったのだが、あの状況に至るまで関係を続けたフィエロもやはり「邪悪」である。

でもそういった「邪悪さ」は人間の一部である。

そして、「邪悪」な行動をとったフィエロが生き生きとしていた理由は、「本当に欲しいもの」を手に入れるための行動に出たからだろう。

彼には王子であるがゆえに失った自由がたくさんあったのだろう。傍から見ていれば上流階級の甘やかされたボンボンだが、その実、国という状況を維持するための歯車に過ぎない。彼が転校を繰り返していたのも、シズ大学で学生を先導したのも、そういう状況に対する反動であったと思うが、どちらかというと「あきらめ」に近い感情がその行動を喚起していた。

つまり、一見自由奔放に見えたフィエロは「自由」を求めながらもそれを諦め、考えることすらやめていたのである。だから、状況に反抗しエルファバを選ぶという「邪悪」な行動を取った彼は実に生き生きとしていたのである。

実はバランスを崩していたエルファバの見えざる「邪悪さ」

さて、グリンダやフィエロは、その登場時点から何やら違和感、あるいは極端さのある人物だったが、少なくとも前作「ウィキッド ふたりの魔女」において、エルファバは極めてバランスの取れた人物であった。人々から迫害を受けていたのにね。

しかも、エルファバは唯一自覚的に動物たちへの不当な扱いに対する怒りを見せた人物でもある。

そして本作においてもエルファバは、なんとか「オズの魔法使い」の真実を白日のもとに晒し、状況を変更しようと試みていた。実に善良(good)な生き様だったのだが・・・本作の中盤にフィエロに教えられた古城でエルファバが歌った歌によって、その生き方そのものが彼女の「邪悪さ」であったことがわかった。

彼女は「オズの魔法使い」に初めて会ったときに彼女は動物たちの不当な扱いがなくなることを願っていた。しかし、それこそが彼女の欺瞞であり大いなる嘘であった。

エルファバにとってこの世界は、動物に対する迫害がなかったとしても初めから憎むべき世界であり変更しなければならない世界だった。

しかし彼女はその憎悪をひた隠しにして「善良」に生きることを続けてきた。ただし重要なのは、彼女の「邪悪さ」はひた隠しにされていた憎悪ではない。彼女の「邪悪さ」は、世界を変えたい、世界を壊してしまいたいのは自分自身だったくせに、その理由に動物たちを使ったことである。

ここまで考えてみると、彼らの「邪悪さ」の共通点が見えてくると思う。

彼らの「邪悪(wicked)」の正体は「自分の真実に嘘をつくこと」

グリンダ、フィエロ、そしてエルファバの「邪悪さ」の共通点とは「自分の真実に嘘をついていたこと」ということになるだろう。本作は最終的にはハッピーエンドになった(と私は思う)が、その途中で起こった全てのことはこの「」に起因する。

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グリンダは初めから「手に入れたい」と思っていたし、フィエロは初めから「自由」を求めていたし、エルファバは「世界を壊したい」と思っていた。しかし彼らがその内面の真実を隠し、自分自身にすら嘘をついて、初めからそんな欲求がなかったように生きたが故にあんなことになってしまった。

では、この映画のメッセージは「自由に生きよう!」なのだろうか。別にそれでも構わないのだけれど、少々つまらない、ありきたりなものであるような気もする。

そのメッセージを見出すためには、グリンダの生き様がそのヒントになるだろう。

物語のメッセージ:自らの「邪悪さ(wicked)」を認め、それでも生きていくこと

物語のラスト、グリンダはもはや単純になにかを与えれば「善い(good)」とみなすような存在にはなっていない。オズの未来のために真実を隠し、「オズの魔法使い」が嘘をついてオズをあとにする判断をしている。

エルファバについても「西の悪い魔女」であることを決して否定しない。「自由に生きよう」がメッセージなら、グリンダはそのラストで全ての真実を明かさなくてはならない。「西の悪い魔女」などいなかったのだから。

では、物語のメッセージはなにか?それは「自らの邪悪さ(wicked)を認め、それでも生きていくのだ」ということになると思う。

この作品を不運にも推進してしまった「邪悪さ」をそこまで否定しているように見えない。先述の通り、それはラストのグリンダの姿を見れば明らかだろう。しかも、グリンダ、フィエロ、エルファバが見せた「邪悪さ」は人が生きていくうえで必要なものだろう。人は、

  • 与える」という「善良さ」を見せることで居場所を見つけようとするし、
  • ときには頭をからっぽにして現状に甘んじることがあるし、
  • 自分の破壊衝動を他人のためだと嘘を付く。

これを否定してただ「自由に生きよう」などと言ってしまっては、また別の「自由」とぶつかるだけである。

しかし、

  • 与える」を行っているときには「ホントは与えて欲しいのに生存戦略として『与える』をやってるな~」と思った方が良いし、
  • からっぽ」を行っているときには、「ホントは自由に生きたいのにいま『からっぽ』をやってるな~」と思った方が良いし、
  • 破壊衝動」を他人に押し付けているときには、「ほんとは自分が壊したいだけなんだけどね~」と思った方が良いだろう。

人はこうやって懸命に生きていくしかないのである。そこには嘘があるかもしれないし、それなのに衝突もあるかもしれない。しかし、自らの「邪悪さ」に自覚的であれば、そこにはきちんと「自分らしさ」が生まれるのではないだろうか。ラストのグリンダは状況に合わせているだけでも翻弄されているわけでもない。彼女らしく、すべてを選択しているのである。

前作では、タイトルの「ウィキッド」を大衆とそれを先導するものに対する評価のように見せていたが、続編である本作においてそれは主人公たちがもっていた性質だったという形でひっくり返していることになる。

なかなかの労作だったのではないだろうか。

本作で一番「人間らしくて共感できる」と感じたのは誰の生き方ですか?
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おまけ①:戦略があるグリンダと直情的なエルファバ

ここからは、見る人にとっては少々気になるかもしれないエルファバの行動原理について考えていこうと思う。というのも、本作におけるエルファバは少々直情的すぎるようにも見えてしまう。

物語の序盤で、エルファバは「オズの魔法使い」と取引をするのだが、檻に囚われた動物を見た「だけ」で、その取引を反故にして、問題の中核にいる人々から離れてしまった。

一方で、前作からグリンダはその黒幕の近くにいることを選択し続けており、本作のラストで「オズの魔法使い」とモリブルを恐喝できたのもその選択が功を奏している。つまり、グリンダの方がより戦略的な選択をしているように見えてしまう。

そういうグリンダを見ていると、どうしてもエルファバには「別のやり方」があったように見えてならない。そしてそのように考えてしまうと、エルファバの直情的な行動は、物語を推進するための「ご都合主義」に見えてしまって、少々冷める原因にもなるかもしれない。

しかし、エルファバが直情的だったのも自らの「邪悪さ」に気づいていなかったからだと見ることもできるだろう。彼女が冷静な判断をし、少しずつ状況を改善する選択ができなかったのは、自らの中にある「個人的な破壊衝動」を隠すためだった。つまり、動物たちの窮地に対しては我を忘れるほど怒らなければ、自分の行動の「正義」を見失ってしまいそうになったからと考えれば、この映画の物語性に反しないのではないだろうか。

おまけ②:エルファバは何故戦いをやめることを決めたのか?

映画本編の終盤で、エルファバは翼の生えた猿の兵隊から、フィエロ(ワラの案山子)の衣服の一部を手渡されたことで、戦いをやめることを決意している。

意味が分かりづらいところかもしれないが、おそらくあのシーンは、戦いをやめる決断をしたのではなく、フィエロが生き延びたことがわかったので、フィエロに期待して、自分を探しに来てくれることに賭けたシーンと考えればよいのではないだろうか。

あの段階のエルファバは、すでに「動物のため」という自分を騙す嘘から脱しているので、全ての行動は「自分のため」となっている。したがって、フィエロの逃げ延びる算段が付けば、戦いをやめてしまってよいということになる。

これであの急な態度の変化にも説明がつくのではないだろうか。

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オズの魔法使い」についての疑問の解決と残されたドロシー問題

ここからは、本作が描いてくれた1939年作の「オズの魔法使い」における疑問についてまとめていこうと思う。個人的には「うまいこと考えたな」と思った。

謎解きの前提となる原作映画のあらすじや結末については、以下の記事で確認できる。

【オズの魔法使い】あらすじ(ネタバレ)と考察-「言葉の魔法」がもたらす「救済」と「呪い」-
1939年公開の映画「オズの魔法使い」のあらすじと考察。欠落を抱えた仲間たちが困難な旅の末に得たものは、自己成長ではなくペテン師による空...

ルビーの靴への謎の執着

「オズの魔法使い」における重要な謎として、「西の魔女」がルビーの靴(本作においては原作小説通りシルバーの靴)に謎の執着を持っていたことを挙げられるのではないだろうか。それはなにか魔法の力に関わることなのだろうけれど、それがよくわからない。

しかし本作ではその謎に対して、「妹の形見だから」という極めて明瞭な「答え」を示してくれた。

「オズの魔法使い」においては、「西の悪い魔女」はただの邪悪な魔女なので、妹の形見を欲しがっているなんて考えもしなかったが、自然に考えればそのような見方もあったと思う。少なくとも私にはなかった視点だったので、小さな点ではあるが、個人的には「うまいことやってくれた」と思ったところだったね。

水で溶ける西の魔女の謎

「オズの魔法使い」最大の謎といえば、「西の悪い魔女」が水をかけただけで溶けてしまったことだった。「おとぎ話だから」と考えれば良いだけなのだけれど、「西の悪い魔女だって水を飲むだろう」と考えた瞬間に荒唐無稽すぎるように思ってしまう(せめて事前にそれっぽい理由付けがほしい)。

しかし、今回はそれを「フェイク」とすることで完全解決してくれた。それでも少々ご都合主義っぽいのだが、流れとしては、

  1. フィエロがエルファバを逃がすために咄嗟に出た「水をもってこい」という言葉に尾ひれが付いて「『西の悪い魔女』は水に弱い」という噂が形成された(その後フィエロは逮捕された挙げ句にその直後にワラの案山子になっているので、真偽の程を確かめるすべがない)。
  2. その噂に基づいて大衆やドロシーたちはエルファバに水をかけた。
  3. エルファバはその噂を利用した。

もしかしたら他の公式設定があるかもしれないが、基本的にはこのように考えればある程度の整合性はつくのではないだろうか。

ドロシーはどうやって帰ったのか?

以上のように本作では映画「オズの魔法使い」で多くの人が感じたであろう疑問点が解決されたのだが、最後の最後で僅かな疑問がむしろ新たに生まれている。

つまり、ドロシーはどのようにして故郷カンザスに帰還したのか?

「オズの魔法使い」では、グリンダに導かれたドロシーが「やっぱり家が一番(There is no place like home)」という本作でも使われたフレーズを呪文として唱え続けることで、故郷カンザスに帰還していた。そしてそれは所謂「夢落ち」ということになる。

しかし本作では「オズ王国」の存在そのものが前提となるので、「夢落ち」というわけには行かない。ドロシーが住む我々の世界とドロシーの世界はある程度地続きである(少なくともどちらも「実在」している)と考えるのが自然だろう。

ではどうやって帰ったのか?

ここは予想するしかないのだが、映画のラストシーンで、ひとりでにグリムリーが開くシーンがある。あの魔法で帰ることが出来たと考えるのが自然ではないだろうか。

つまり、グリンダは最後の最後で本当に魔法を使うことが出来たというオチになっていると考えれば、その魔法でドロシーも家に帰れたということになると思われる。もちろん予想でしかないけれど。


以上が、私の考えたところの「ウィキッド 永遠の約束」でございました。基本的には映画「マレフィセント」と同じ路線のところであり、「オズの魔法使い」という物語を現代的な説得力をもってその裏側から描き直すという作品になっています。

私は「マレフィセント」もうまいこと考えられていたので割と好きなのですが、今回の「ウィキッドシリーズ」も、古い物語の「ご都合主義」になんとか理屈をつけて描き直すということがなされていて結構好きですね。

皆さんにとって「ウィキッド 永遠の約束」はどのような作品だったでしょうか?

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