「平成狸合戦ぽんぽこ(スタジオジブリ公式)」は1994年7月16日に公開された高畑勲監督による劇場用アニメーション作品。キャッチコピーは「タヌキだってがんばってるんだよォ」であった。誰にも理解されないのだが、スタジオジブリの作品で個人的に一番好きな作品である。
小学生の頃に授業の一環として見せられたことがあった。先生の意図としては「自然を大切にしよう!」というメッセージを受け取ってほしかったのだと思うのだが、「平成狸合戦ぽんぽこ」はそんな生易しい作品ではない。
今回はそんな「平成狸合戦ぽんぽこ」のあらすじと考察をまとめようと思う。ただ、あらすじと言っても全部話してしまうので、ネタバレが嫌な人は途中まで読んで本編を見てください。
この記事の内容を、AIが対話形式(ラジオ形式)で分かりやすく解説してくれます。
- 詳細なあらすじと人物相関図
本作のあらすじを要約すると「都市開発により住処を失った多摩の狸たちは、化け学を復興させ人間に抵抗するが失敗。敗北の末、特攻、自死、『人間として生きる』など、各々が苦渋の選択を強いられた。それでも狸たちはどっこい生きていく。」となるが、より詳細なあらすじ、人物相関図、物語の解説を提供する。 - 様々な考察ポイント
「おろく婆ちゃんの叱責の意味」、「妖怪大作戦の謎」、「声優が噺家だった理由」、「『もののけ姫』や『紅の豚』との比較」といった考察について解説し、より詳細な記事(本ブログ内)を紹介する。
「平成狸合戦ぽんぽこ」のあらすじ(ネタバレあり)
あらすじの要点と人物相関図
「平成狸合戦ぽんぽこ」のあらすじの要点を短くまとめると以下のようになるだろう:
- 故郷の危機
物語は人間による住宅開発等の影響により住処を奪われていく多摩丘陵(たまきゅうりょう)の狸たちの物語として進行する。 - 狸の表現
狸の姿は主に直立二本足歩行で描かれ、極めて人間的な存在として描かれる。 - 多摩丘陵奪還への挑戦
狸たちは人間に対抗し、自らの住処を取り戻す戦いを挑む。 - 変化術と長老の招集
狸たちの主な武器は「化け学(ばけがく)」つまり「変化術(へんげじゅつ)」であり、熟練者から若手への術の伝達から物語はスタート。それと同時に「化け学」の先進地である四国と佐渡の長老狸の招聘を試みる。 - 長老の到着と決戦への準備
若手の育成は順調に進み、人間への決戦の機運が最高潮に高まった頃、四国の長老三人が多摩丘陵に到着。多摩の狸たちに秘術「妖怪大作戦」を授け、本格的な対人間作戦が決行される。 - 人間の狡猾さ
秘術「妖怪大作戦」は人間たちに全く効果がなかったばかりか「ワンダーランド」と呼ばれるテーマパークの宣伝隊であったことにされてしまう。 - 分裂と三派の戦略
悲嘆に暮れる狸たちは次の3派に分かれる:- 人間との肉弾戦を目論む強硬派
- 耐え難い現実から目を背けて涅槃へと向かう踊り念仏派
- 「妖怪大作戦」を狸の仕業だと人間に訴えようとする暴露派
- 犠牲と敗北
強硬派は特攻隊さながらの勇姿を見せたが、人間に駆逐され、念仏派は集団で命を絶った。 - 秘密の暴露と微小な反響
暴露派はテレビ局を巻き込んで、その思いを訴えることに成功したが、その影響も微々たるものだった。 - 変化術による新たな道
すべての戦いを終え生き延びた狸たちは、その変化術を用いて人間として生きる道を選ぶ。
人物相関図
▼ 登場人物の詳細(年齢・声優情報など)はこちら
序盤:化け学の復興と人間への抵抗
ぽんぽこ三十一年秋、人間の都市開発によって住処を奪われた狸同士が、互いの縄張りをかけて決戦に挑んだ。2つの勢力は鷹ヶ森(たかがもり)と鈴ヶ森(すずがもり)。その戦いは筆舌に尽くしがたいものであった。
決定打に欠けるその戦いは膠着状態に陥った。そんな時、火の玉のおろく婆がその戦いの仲裁に入った。おろく婆は狸たちを促し、人間の手によって切り開かれる森の実情を鉄塔の上から観察させた。

森の実情を知った多摩の狸たちは一致団結し、人間に立ち向かうことを決意する。そのために、廃れていた化け学の復興と、四国と佐渡の長老たちの招聘を計画する。しかし長老たちの招聘は長く苦しい旅になるため、若者の育成にまずは注力することになった。
懸命に若手の育成に励む長老たちだったが、その道は容易いものではなかった。「極端な集中力」を必要とする変化術の習得は、そもそも呑気な狸の本来の性質とは相反していたのだ。

それでもなお、様々な修行と卒業試験を経て、若手狸の中には実戦投入に十分な変化術を習得したものも出てきた。そんな血気盛んな若手狸のひとり鷹ヶ森の権太は、有志を集め、人間殲滅を目的とする最初の作戦を提案する。長老たちは極めて消極的だったが、権太を止めることはできなかった。そんな彼らに折れたおろく婆は「殺されても5日間はキツネの死体に見える」という秘術を授け、権太達を送り出した。
雨の夜に、近くの工事現場を狙った権太の作戦は見事に成功し、多くの人間を死に追いやった。そのニュースを見た狸たちは歓喜した。

しかし権太の作戦も「不幸な事故」として片付けられ、開発を止めることができなかった。そしてそんな権太も「祝勝会」の影で、大怪我を負っていたのだった。
中盤:妖怪大作戦の決行と挫折
権太の作戦成功を受け、狸たちはそれぞれに対人間戦を開始した。彼らは彼らなりの本気で「開発阻止」を目的に活動していたが、それは権太が最初に取った作戦とは似ても似つかず、ただ人間をばかしているに過ぎなかった。
そんな姿に大怪我で動けない権太は苦虫を噛み潰していたが、実際に開発は着々と進んでいた。そのように住処が奪われ続ける一方で、狸たちの人口増加が深刻な食糧難を発生させていた。化け学の復興作戦遂行中はその身を謹んでいた狸たちだったが、もはや本来の本能に逆らうことができず、子供を作り始めていたのだ。狸たちは人間の住む街、民家から残飯など食料を集める作戦を決行する。

食料調達は変化狸の仕事であったが、空腹に耐えかねた並の狸も民家に出没し、罠に引っかかることや交通事故に遭うことが頻発し、状況は切迫していた。この状況に権太は人間たちとの決戦に打って出るべきと進言する。権太の傷はすでに癒えていた。
そんな時、玉三郎という若い狸が、使いに出ていた四国からようやく待望の長老を連れて帰ってきた。

長老たちは秘術「妖怪大作戦」を多摩の狸たちに用意していた。狸たちはその作戦に命運をかけ、その準備に勤しんだ。変化できるものもそうでないものも、すべての狸がその準備段階から作戦に参加した。「妖怪大作戦」は苦汁を飲まされ続けた狸達の前に現れた唯一の希望だった。
ぽんぽこ三十三年春、ついに「妖怪大作戦」決行の日が訪れる。気温十三度、湿度六十五パーセント。絶好の妖怪日和であった。
狸たちの変化術によって街中に妖怪変化が大挙する。人々の目に映るその姿は、紛れもなく現実であった。
その壮絶な作戦の遂行中、四国の長老のひとりである隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)が命を落とす。作戦の中枢にいた刑部狸の死で作戦は中断されるが、狸たちは作戦の成功を確信していた。これで人間は変わるはずだった。
終盤(ネタバレ):狸達の敗北とそれぞれの道
狸たちの期待とは裏腹に、妖怪大作戦は全く効果を発揮しなかった。そればかりか、狸達の起こした奇跡妖怪大作戦は「ワンダーランド」というテーマパークの運営者に「便乗」され、その宣伝隊であったことにされてしまった。実際に妖怪大作戦を見た人々はそれを否定したが、状況が改善することはなかった。最後の決戦に敗れた狸たちは涙した。

この敗北を受け、狸たちの統率は完全に崩れた。権太を筆頭とする特攻派、四国の長老太三朗禿狸(たさぶろうはげだぬき)を筆頭とする現実逃避派など、狸たちはそれぞれに終わりの時を迎えようとしていた。そんな中、多摩の長老狸鶴亀和尚がテレビ局に投書を行う。「妖怪大作戦」は自分たちのやったことであること、そして自分たちの住処を奪わないでほしいということを直接訴えようとしたのだ。多くの狸たちが反対したが、この期に及んでは誰も鶴亀和尚を止めることはできず、結局は鶴亀和尚を手伝うことにした。
最初に行動を開始したのは権太ら特攻派だった。権太たちは「環境保護団体」を装い、森に立てこもり警備隊と対決する。

後に続くを信じ特攻をしかけた権太だったが、人間たちとの肉弾戦に狸が勝てるはずもなかった。
権太が若き血潮を燃やしていた同じ頃、鶴亀和尚もその思いの丈を人間にぶつけていた。

権太と鶴亀和尚の最後の戦いの傍らで、絶望した変化できない並の狸は禿狸に先導され、大きな宝船をこしらえていた。その船は彼らを極楽浄土へ導く宝船。船にのって線路へ急ぐ並の狸たち。彼らの最後の戦いは集団自殺であった。その屍に人間は何を思っただろうか。

戦いに敗れ、残った変化狸たちは最後の決断をする。彼らは人間として生きる道を選んだのだ。占いを営むもの、不動産業で成功し野山を切り開くもの、それぞれが様々な人に変化しその生命をつないでいた。もしかしたら我々の隣にも、変化した狸がいるのかもしれない。

我々人間に彼らの戦いは見えない、しかし姿を消した狸たちは自ら姿を消したのではなく、その生命を人間によってうばわれたのである。せめて我々はそのことに自覚的に生きるべきである。
▼ 主要な名台詞・英語表現のまとめはこちら
以上が個人的にまとめてみた「平成狸合戦ぽんぽこ」のあらすじである。続いては本作品の考察とその解説を見ていこう。
「平成狸合戦ぽんぽこ」の考察と解説
おろく婆ちゃんの叱責に込められた本当の意味は?
【トピックA:おろく婆ちゃんの叱責に込められた本当の意味】の要約おろく婆ちゃんが狸同士の争いを止めたのには、表向きの理由(人間との戦いに集中すべき)の他に、裏の意図がある。それは、当初企画で提案された杉浦茂の「八百八狸」路線に対する高畑監督の痛烈な批判である。「今更狸同士の暢気な合戦など描いている場合ではない」という、宮崎駿や鈴木敏夫ら製作陣への意思表示であった。同時に、現実逃避の道具としてアニメを消費する我々視聴者への「こんなことをやっている場合じゃないぞ!」という叱責でもある。
「平成狸合戦ぽんぽこ」という物語の本質的なスタート地点にして、多摩の狸を対人間の闘争に導いたのは、おろく婆ちゃんの「こんなことをしている場合ではない!」という叱責であった。もちろんおろく婆ちゃんの言う通りであり、あのまま狸同士で戦っていたら知らないうちに居場所を追われていただろう(戦っても結果は変わらなかったが)。
このおろく婆ちゃんの叱責は、私の目にはどうしても宮崎駿と鈴木敏夫にも向けられているように思われるのだ。上の結論にも書いているように、「平成狸合戦ぽんぽこ」という企画は杉浦茂の「八百八狸」を映画化してほしいという依頼に始まっている。しかし結果的に高畑勲はそれを突っぱねて、我々が知る「平成狸合戦ぽんぽこ」を制作している。
そういう経緯を前提にすると、おろく婆ちゃんの言葉について上に書いたような「結論」に達するのである。より詳しい解説は以下の記事で行っている。
上の記事では「おろく婆ちゃんが授けた秘術の謎」についても書いている。興味のある人はご一読ください。
狸たちはなぜ「妖怪大作戦」を決行したのか?
狸たちが「妖怪大作戦」を決行したのは、それが彼らの最後の希望であると同時に、狸たちの必死の抵抗が滑稽に空回る「喜劇のハイライト」として描かれているからである。さらにこの作戦は、高畑監督による「アニメ制作」そのものの比喩でもある。狸たち(=アニメーター)が必死で生み出した奇跡(=アニメ)が、世間に正しく評価されない(屋台の客やテーマパーク)構図は、制作者の苦悩と「ぼうっと見るな」という視聴者への叱責を表現している。
対人間戦を戦う多摩の狸たちの最終兵器として登場したのが「妖怪大作戦」だった。しかし「平成狸合戦ぽんぽこ」を見た人ならみんなが思ったことが「それじゃだめだよ」だったに違いない。しかし、それで終わってしまうと「平成狸合戦ぽんぽこ」は楽しめない。
なぜ狸たちは妖怪大作戦を決行したのか、あるいは、高畑勲は狸たちに妖怪大作戦を決行させたのか?この件に関しては様々な考え方があると思うが、一つヒントとなるのは以下のように妖怪大作戦の妖怪たちの中に、宮崎作品のキャラクターが登場している点である。

この事実を元に様々に考えた結果が上に書いた「結論」となっている。より詳しい解説は以下の記事で行っている。
なぜ声優に噺家(落語家)が起用されたのか?
「平成狸合戦ぽんぽこ」は、大真面目に「空回り」しながら破滅に向かう「敗北の物語」である。この「敗北のえぐさ」を人間でシリアスに描けば、『火垂るの墓』のようにもはや見ていられない悲劇となってしまう。高畑監督は、この辛辣な物語を観客が「見ていられる話」にするため、あえて狸を主人公にし、声優に噺家(落語家)を起用した。噺家の語り口という「滑稽噺」の舞台装置によって、悲劇を喜劇へと昇華させたのである。
「平成狸合戦ぽんぽこ」の重要な特徴の1つは、声優に噺家が起用されている点である。その理由はもちろん「この物語は落語ですよ、笑っていいですよ」ということに違いない。実際狸たちのコミカルな空回り話にもなっている。
しかし我々が考えるべきは、なぜそのようにしたかである。私の個人的な「結論」は上にある通りだが、以下の記事で詳しく解説している。
上の記事では「どっこい生きる」とはどういうことなのかについても考察し、物語の最終的なメッセージについても述べている。
「もののけ姫」や「紅の豚」との関係は?
両作は、狸やもののけが敗北すると知っている「結末がわかっている物語」という共通構造を持つ。また、『ぽんぽこ』の鶴亀和尚と『もののけ姫』のモロの君は、共に人間を嫌い切れず、状況によって敵対せざるを得なかった存在として描かれている点も類似する。そして何より、敗北や喪失の後も『ぽんぽこ』は「どっこい生きる」、『もののけ姫』は「情けない復活」として、「それでも生きる」という共通の力強いメッセージで締めくくられるのである。
『紅の豚』のポルコ・ロッソと『ぽんぽこ』のぽん吉の生き様には共通点がある。ポルコが戦後の世界から「いちぬけた」ように、ぽん吉も人間との戦いという狂乱から一歩引き、「タヌキらしく生きる」ことを選んだ「俯瞰する者」である。ぽん吉はポルコのように、自分を見失わずに状況を斜に構えることで、「どっこい生きる」という『ぽんぽこ』のテーマを体現した裏の主人公なのである。
「平成狸合戦ぽんぽこ」の主人公は正吉であり、その姿勢と権太との相克が物語の主軸になってはいるのだが、サブキャラクターであった鶴亀和尚やぽん吉に思いを馳せてみると、そこに「もののけ姫」と「紅の豚」との類似性が見えてくる。
具体的には上の「結論」にあるように、「鶴亀和尚とモロの君」、「ぽん吉とポルコ」という何とも突飛な類似となっている。もちろん、わざわざ類似をたどる必要はないのだが、複数作品の共通点を認識することによって、それぞれの作品理解が深まるという側面もあるので、無駄ということはない。
以下の2つの記事で「結論」についての詳しい解説を行っている。
皆さんは「結論」に述べたような類似性を感じるだろうか。
この記事で使用した画像は「スタジオジブリ作品静止画」の画像です。
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