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【君の名は】ラストの三葉と瀧の再会は何を意味するのか?

前回は町長の避難指示について考えた。

今回はラストシーンで三葉と瀧が再び出会うシーンについて考えて行こうと思う。

ラストに関して、歩道橋ですれ違うシーンで終わったほうが良かったという声も聞かれ、必ずしも好意的に捉えられているとは限らないといったところだと思う。

私の初見を思い出すと、歩道橋で終われば良いとは思わなかったが歩道橋で終わるとは思った。当時は公開から1ヶ月ほど経過しており、すでにヒットしていた。そのため歩道橋のシーンを見たときには、こんないつもの新海作品っぽいものがよくヒットしなあ~と思ったのだが、もう少しだけ続き、作品に登場した人々の日常生活が描写された。なるほど、日常生活を描く事によって『めでたしめでたし』ということにするんだな!とも思ったのだが、あと少しだけ続いた。少しずつ音楽が盛り上がり、最後の最後に2人が再会したときにはいいもん見た!と大変気持ちよかった。

このように、基本的に私はラストが気に入っているのだが、今回はもう少しだけ踏み込んで、君の名はの物語性から2人はどうしても再会しなくてはならないというところまでたどり着いてみようと思う。

そのために君の名はという作品を大まかに、そして少々冗談めかしながら振り返ることから始めたい。

さて、君の名ははどういう物語だったのだろうか?

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君の名はのラストまでに描かれたもの

組紐、神楽、繋げなかった思い

君の名はの作中で、一葉おばあちゃんが繋ぎについて話す場面がある。もちろんそれは君の名はにとって繋ぐということが極めて重要なキーワードとなっているからである。

実際宮水神社は、組紐や神楽の舞を用いることによって、巧妙に隕石の衝突を伝える努力していたこの辺は映像を見ているだけでは分からないが、設定上そうなっている

しかしながらその巧妙さ故に、宮水神社の人間ですらそれらがなんのためにあるのか全くわからなくなっている。僅かに残っていたと思われる文献も真由吾郎の大火によって消失している。

結局の所宮水神社の人々は、1200年というあまりにも長い時間の中で、大切なものを繋ぎそこねてしまったということになる。

別の言葉を使うならば忘れちゃった物語ということになる雲のむこう、約束の場所が懐かしいね

発動する宮水DNAの本領—無自覚な魔女三葉と瀧の狂気—

さて、あまりにも長過ぎる時の中で、人々は大切なものを忘れてしまったのだが、宮水神社の人々が受け継いできたDNAはある決断を下す。

つまり、組紐や神楽を使って事実を伝えるのではなく、『口噛みタイムマシーン口噛み酒』を利用して未来から使者を派遣し、危機を脱するという作戦への変更である。

ここで一番重要なのは、誰に口噛み酒を飲ませるかである。

皆さんも映画を見た時思いましたよね口噛み酒なんて飲めるわけねえだろと。

瀧はまるで当たり前のことのように口噛み酒を飲んだが、傍から見ていればまさに狂気の沙汰である。しかしながら、あのような行動を取ることが出来る文脈が少なくとも1つ存在している。

つまり、口噛み酒を作った女性に心底惚れてしまっている場合である。

このように考えてみると、君の名はという作品における三葉の役割は瀧を自分に惚れさせることということになる。そしてそれを実現するために三葉が無自覚に行ったことは、結果的にはなかなかエグい。つまり、

瀧が惚れている先輩と瀧と入れ替わっている間に仲良くなることで、相対的に等身大の瀧の魅力をなきものにし、瀧の恋を完全に消滅させる

というものであるある意味瀧は失恋することすら出来なかったといえる惚れた女より多くの本を読むという天沢聖司がとった作戦に勝るとも劣らない素晴らしい作戦である。しかも三葉自身は自分がとった行動の意味に関してまったくもって無自覚である。

結果的に瀧は先輩に後ろ髪を引かれることもなく、特別な体験を共有した三葉への思いに突っ走ることとなる。

結果として宮水DNAが生み出したタイムマシーンである口噛み酒を口に含んだ瀧はメッセンジャーとして3年という時間を遡るそう、瀧は単なるメッセンジャーである

瀧よ、いいようにやられたな。此の文脈において三葉は、一人の男の恋を終わらせ、自らに溺れさせるという、無自覚な魔女である。これも宮水DNAの為せる技なのだろう。

何れにせよ、入れ替わりの奇跡を用いて、三葉と瀧は、災害から糸守町を救ったのである。

ラストの再会が意味するもの

成功の物語としての君の名は

以上のことを表面的にまとめると、君の名はとは

1200年という長い時間の中で忘れ去られてしまった隕石の再衝突による災害を、2人の若者が時空を超えて防いだ物語

ということになるだろう。つまり君の名は成功の物語ということになる。もちろんそれでも良いのだけれども、そのように考えると世界を救った2人が歩道橋ですれ違う切ないラストでも一向にかまわない。成功の喜びすれ違う切なさでちょうどバランスが取れていい作品になるのではないだろうか。

しかしこの記事の目的は再会の必然性にたどり着くことなので、上述のような立場は取らない。

失敗の物語としての君の名は

君の名は失敗の物語と捉えると次のようになるだろう:

2人の若者が時空を超えて入れ替わるという奇跡を起こすことによって何かがうまく行ったように見えるけれど、実際のところは、1200年という長い時間の中で人々は大切なものを繋ぎ損ねてしまい、人々は隕石の再衝突という災害の中で命を失うこととなった。

文章の前後を入れ替えただけのように見えるけれども、君の名はにおける本当のことは上述のような悲劇的な失敗である。つまり、繋ぎそこねたということである。

なぜ2人は再会を果たすのか

君の名は失敗の物語として捉えた時、隕石の衝突という事実の伝達に失敗以外にも重要な失敗を犯した登場人物がいる。もちろん、三葉と瀧である。

2人は黄昏の山頂で、決してその名前を忘れないという約束を交わすのだが、結局忘れてしまう。人々の忘却と、三葉と瀧の忘却は見事に対比されている。したがって、もし歩道橋でのすれ違いがラストになった場合、最終的なメッセージは次のようになる:

我々は長い時間のなかで大切なことを忘れてしまい、そのために多くの問題が発生してしまう。そして三葉と瀧が大切な名前を思い出せず歩道橋ですれ違ったように、結局我々人類は忘れ続けて、同じ失敗を繰り返す。

なんとも中学生が考えそうなニヒリズムである。結局人間なんてという例のあれである。まあこういう映画があっても良いし、こんなのが好きな人もいるだろう。私もあの頃はこんなのが好きだったような気もするのだが、こういうニヒリズムに酔うというのは、いい年になるとどうもみっともない。

やはり我々はだけれどもの精神で、その先を信じ行動しなくてはならない。

特に、大切なことを忘れずに憶えているという観点に立つならば、これまでの1200年とこれからの1200年は絶対に違ってくる。単純に記録の質が変わっている。

例えば津波。小学生の頃に教科書や色々な報道でとんでもないものという知識を得てはいたのだが、津波という現象がどうも信じがたく、とんでもないものという実感はまったくなかった。しかし東日本大震災ではその映像が残った(もちろんそれ以前にも映像はあったのだろうけれど、これからは間違いなく様々な映像が残る)。あの映像を見て津波なんか大したことはないと思う人はいないだろう。

君の名はにおいて、組紐や神楽の舞といったような方法論で何かを伝えようとしたことによって失敗したように、これまでは何かを直接伝えることが出来なかったために、大切なメッセージの伝達に失敗してきた。でもこれからは違う。そして違わなくてはならない。

そういった新海監督のメッセージがラストの再会シーンとして表現されているのだろう。つまり

我々はともすれば忘れてしまう存在である。実際これまでも多くの大切なことを忘れてきてしまった。しかし、三葉と瀧が忘れていた大切なものをラストで思い出したように、我々も思い出さなくてはならない。そして今度こそ忘れずに、その思い、事実を繋いでいかなくてはならない。これまでの1200年では出来なかったかもしれないが、これからの1200年ならきっと出来る!

というメッセージがラストの再会シーンに込められていたのではないだろうか。そして

こういうメッセージを伝えなくてはならなかったので、ラストで2人は再開を果たした

と私は思っている。東日本大震災の後に、くだらないニヒリズムの映画なんて作るわけがないのである。

三葉と瀧のロマンスを中心に考えるとラストの再会シーンはうまく行き過ぎに見えるし、歩道橋で終わった方がいいけど、こう考えると再会も悪くない気がするね。
そうだろ?

一番好きな新海誠監督作品は?
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シフルはどうなんだい?
ひじょう~に難しいが、一番最初に見た雲のむこう、約束の場所かな。明日は違うことを言ってるかもしれないけど。

おまけ:あと2つの君の名は入れ替わりの発動条件

君の名はを見ていると不可解な発言がいくつかあった。そのうち町長の不可解な発言を中心に考えたのが前回の記事であった。

ここでは一葉おばあちゃんの気になる発言について考えたい。その気になる発言は、口噛み酒を飲んで再び三葉と入れ替わった瀧が一葉おばあちゃんと話しているときの発言である。つまり私も『少女の頃』誰かと入れ替わっていたような気がするである。この発言の不可解な点は少女の頃という表現である。なぜ子供の頃ではないのだろうか?

これについては根拠となるものがまったくないので、完全に想像するしかないのだけれど、少女の頃の意味は子供ではあったけれどもすでに恋をしていたころというくらいの意味ではないだろうか。別の言葉で言うならば同年代の男ならたぶらかせるころであろう。この記事の本編で述べたように、三葉の果たさなくてはならなかった使命は瀧をたぶらかすことであった。どうも宮水DNAは1200年に渡って男をたぶらかしてきたようだ別にそれでいいのだけれど。では、一葉おばあちゃんは誰と入れ替わり(誰をたぶらかし)、何をしたのか?

ここからはさらに想像だけの世界になってくるのだが、恐らく一葉おばあちゃんは、長野空襲で命を落とすはずだったのではないかと思われる。一葉おばあちゃんは設定上82歳2016年現在であるので、空襲のときには11歳くらいだろうか。一葉おばあちゃんは死の直前に、誰かと入れ替わることによって、自分を救わせたのではないだろうか。そしてこの場合、おばあちゃんの使命は生き延びることということになる。

11歳のころのおばあちゃんは、当然のことながら宮水DNAを次世代に受け渡していない。つまり、少々いや~な話ではあるが、宮水DNAはおばあちゃんにDNAを次世代に受け渡すまでは死ぬなと命じたことになる死んではならないのはDNAを受け渡しているかどうかには本来関わらない

これまたいや~なまとめになるが、結局の所入れ替わりの発動条件は宮水DNAを次世代に受け渡す前に死ぬことということになるだろう。

もちろん三葉の使命は口噛み酒を飲むメッセンジャーを惚れさせることなのだけれども、よく考えると1200年後にはまた隕石が落ちるんだから宮水DNAの意思としては三葉にもDNAのバトンタッチをさせようとするに違いないのだ。そういう理由で三葉の入れ替わりもあのタイミングで発生したとも考えられる。もはや特殊能力と言うよりは呪いである。もしかしたら、ラストで再会することによってその呪いから三葉は開放されたのかもしれない。宮水DNAが起こす奇跡なんかなくても大切なものを繋いでいけるというラストだったからね。

このように女性にかけられた『呪い』という側面も、君の名はには隠されているように見える。流石にこれはこじつけだけどね

さて、このおまけの題目はもう2つの『君の名は』である。もちろんひとつは一葉おばあちゃんである。さらにもう一つは誰か。二葉おかあさんじゃないですよそれは前回すでに書いたので

私が思うに、君の名はの劇中で、三葉、二葉町長、一葉誰か以外に入れ替わりを経験したのは……繭五郎である。

繭五郎は作品の序盤の序盤に一葉おばあちゃんのセリフの中にのみ現れる。繭五郎の大火を引き起こし、宮水神社に伝わる組紐や神楽の意味を消失させた大罪人である。

なぜ私が繭吾郎も入れ替わりを経験していると考えるのかというと、繭吾郎の大火が町長を糸森町に引き寄せたと思われるからである。

町長はかつて民俗学者であった。町長はその研究過程で今はその意味が失われているものの、その意味を記した文献が大火事によって消失するというおもしろ話を持っている宮水神社の歴史について調査に来たのではないだろうか。そこで二葉と恋に落ちて、宮司に落ち着いたのだろう。

まあ根拠と言えるものはまったくないし、単なるこじつけなのだけれど、繭吾郎も宮水神社の誰かとの入れ替わりを経験し、その人生を捻じ曲げられてしまったのだろう。

思えば君の名はにおいて道具に過ぎず、その人生は宮水DNAによって捻じ曲げられていた。

瀧は知らないうちに失恋させられメッセンジャーとして過去に飛ばされる。

町長は民俗学者としてのキャリアを終わらせられ、避難指示をだすその日のためだけに出馬をした。

そして繭吾郎も、町長を宮水神社に引き寄せるためだけに大罪人となった。

君の名はには女性にかけられた呪いが隠されているようにも思えるが、男どもも十分可愛そうである。

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