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夢と狂気の王国」に学ぶドキュメンタリーの見方

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「夢と狂気の王国」は2013年11月16日に公開された砂田麻美監督によるドキュメンタリー映画である。撮影は2012年秋から行われており、「風立ちぬ」や「かぐや姫の物語」の制作期間と被っている。

同時期の取材をもとに作られたドキュメンタリーに「映画監督 宮崎 駿の仕事(PR)」、「高畑勲、『かぐや姫の物語』をつくる。(PR)」がある。

個人的にスタジオジブリのドキュメンタリーシリーズがとても好きで、ほぼすべてを見ていると思うのだが、この「夢と狂気の王国」は少々他と違った味わいがある。

そもそも映画として公開されているという特徴があるのだが、それ以上に「ドキュメンタリーの危険」を私達に教えてくれているように感じる。

今回はこの「夢と狂気の王国」の内容を振り返りながらその面白さと「ドキュメンタリーとはなにか」ということを考えていこうと思う。

一応強調しておきますが、この「夢と狂気の王国」はとてもおもしろいドキュメンタリーでございます。でも、だからこそ、その面白さ以上のものが見えてくる。そういう話です。

まずは、これだけでも「夢と狂気の王国」見る価値があると思えてしまうドキュメンタリーのおもしろシーンについて触れていこうと思う。


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夢と狂気の王国」のおもしろシーン

庵野秀明の抜擢

このドキュメンタリー最初のおもしろポイントは、なんといっても「風立ちぬ」の主人公堀越二郎の声優が庵野秀明に決定する過程だろう。

スタジオジブリのとある部屋で声優のキャスティングに関する会議が行われている姿が映し出されるのだが、そこで問題となっていたのは主人公堀越次郎を誰にするかということだった。

スタッフの一人が「二郎は声の線が細い感じがする」と発言するのだが、そこで宮崎駿は以下のように応えている:

「先は細くないんですよ。昔のインテリって滑舌がはっきりしててりょっと高いんですよ。だからはっきり言って言葉数少ないだけなんです。頭よすぎてあっっまり余計なこと言わないだけなんですよ。内気だから喋んないんじゃないの。そういう人物を演じてもらうしかないよね。そういう人物がいるわけじゃないから。ここに出てるラインナップ見ても違うと思う。違うこと要求されている人たちだと思うんですよね。」

さらに鈴木敏夫も「素人がやったほうがまだ感じが出そうですよね。」と状況の舵取りを行う。スタッフも流石に素人はまずかろうと狼狽しながら候補をあげようとするのだが、そこで鈴木敏夫が小さく「庵野・・・」とつぶやく。すると宮崎監督はたいそう嬉しそうに、

「庵野ですか?庵野面白いね。」「庵野にやらせるわけにはいかない・・・」「庵野やったらどうなるんだろうね?」「庵野のこえねぇ。」「庵野どうなんだろうね。ちょっと真面目にやってみたいね。」

宮崎駿と鈴木敏夫としては「色々と考えた結果としてどうしても庵野秀明しかいないんだ」という文脈で庵野秀明を抜擢しようとしているのだが、どう見ても話し合いをする前から庵野秀樹に決めていたようにしか見えない。

宮崎監督はそのように決めていたが、自分の口から背曲的に庵野秀明の名前を出すわけにはいかない。それを汲み取った鈴木敏夫が見事なパスを出したといった。少なくともそのように見える。

結局宮崎駿と鈴木敏夫の会話はどんどん盛り上がっていくのだが、そんな二人を前にしたスタッフ三人の疲弊した表情ががなんとも印象的である。彼らは心の底から思ったのだろう「決まってるなら初めから言ってくれ」と。

零戦の模型で遊ぶハヤオと庵野

ドキュメンタリーの中で宮崎駿がいわゆる「オタク」に対する見解を述べているシーンがある。彼が言うには、

「『零戦好き』好きじゃないんですよ僕。なぜなら、ほとんどオタクのものだからです。こういうの好きだって言ってるのオタクなんですよ。オタクは何も学ばないのをオタクっていうんですからね。」

さらに砂田監督の「監督はオタクじゃないんですか?」という問に「僕はオタクじゃないです」とキッパリ言い切った。

「なるほど、監督は『オタク』なる状況に否定的なのだな~」と思っていると、その直後のシーンで宮崎監督と庵野秀明がウッキウキで戦闘機(零戦)の模型で遊んでいる姿が映し出される。

ちょっと楽しんでいるなんてものではない。五歳の子供のような無垢さで楽しんでいる。

そして私達は思う。やっぱり戦闘機オタクじゃないかと。

宮崎監督がいわゆる「ミリオタ」に属することはある程度有名なのだが、左翼活動家という側面も持っている。別にその状況に矛盾はない(と私は思う)のだが、監督の内面には酷く矛盾が感じられている可能性は高い。

最終的には「どのような人として見られたいか、どのような人として見られるべきか」という個人の趣向によってその対外的所作は決まるわけだが、宮崎監督としては「『ミリオタ』とバレることは酷く恥ずかしいことである」という内面的真実が存在しているが故に、結果として「自分批判としてのオタク批判」がなされるに至ったのだろう。

もう本当にめんどくせえよ、宮崎駿は。そして、だからこそ面白い。

ドキュメンタリー本編の「検証」

ここでは「ドキュメンタリー」とはなにかということを考えるための準備として本編の「検証」を行ってみようと思う。基本的なトピックスは上で上げた二つの「おもしろシーン」という事になるのだが、あのシーンを「検証」することによって「ドキュメンタリー」というものの真実に近づいていこう。

検証①:庵野秀明の抜擢

まずは堀越二郎の声優の候補として庵野秀明が出るまでのシーンについて。このドキュメンタリーの中でも最高におもしろいところだが、ここで検証すべきもっとも重要なポイントは、疲弊する3人のスタッフだろう。

この一連のシーンでは、宮崎駿が発言して以降、全くスタッフにはカメラが向いていない。そしてどんどん盛り上がる宮崎駿と鈴木敏夫が映し出され、その締めくくりとして再びスタッフの姿が映し出される事になる。

つまり、スタッフは落ちに使われていることになる。

しかしあの会話中、スタッフはず~っとそこに存在しており、様々な表情を見せていたはずである。その全てが削ぎ落とされて最後の表情だけが使われている。つまり、一番悪い言い方をすると彼らの表情は「切り取り」という事になる。

実際問題として、「疲弊している」というよりは宮崎駿の意向である「声優庵野秀明」をどのように実現するかを悩んでいる姿にも見えなくはない。

つまり、実際の内面の真実はわからないしインタビューすらしていないのに、カット割りの妙技によって我々の中に特定の予測を作り上げていることになる。

ドキュメンタリーにおけるカメラワークとカット割には十分に気をつける必要がある。実際の世界にはカメラフレームなどないのだから。

検証②:零戦の模型で遊ぶハヤオと庵野

次に検証するのは宮崎駿と庵野秀明が楽しそうに遊んでいるシーンだが、ここもカット割りが強烈に効いていることになる。

宮崎監督の「オタク」なるもののへの批判は、よ~く考えながら聞けば自分の中にある「反戦」という思いと「戦闘機への愛着」という矛盾する思いを懸命に自分の中で両立させようとしているために発生していることが分かる。

別の言い方をすると、宮崎監督は「オタクじゃない」という発言で「オタクである自分」を相対化しある種の「反省」を行っているのである。つまり、実のところ監督は「自分はオタクじゃない」などと言ってはいないのである。

したがってそんな宮崎監督が零戦の模型で楽しく遊んでいてもなんの問題も矛盾もない。むしろ当然である。

しかし「カット割り」という瞬間芸をもって発言の直後にそのシーンを持ってくることによって、ドキュメンタリーを見ている私達に「オタクやないか~い!」というツッコミをさせている、させようとしている事になる。

もちろん大変に面白い演出ではあるのだが、これは間違いなく砂田監督の「悪意」である。

さて、ではそのような「悪意」があってはならないのだろうか?

ドキュメンタリーとは「作品」である

ここからは上の検証を受けて、ドキュメンタリーの本質を探っていこうと思う。その第一歩として、ドキュメンタリーとはそもそも何を映すものなのかを考えていこう。

主観としての真実

我々がドキュメンタリーを好む理由は、そこに何かしらの「真実」を見出すからだろう。そしてなぜそのように考えるかといえば、ドキュメンタリーは「事実」が元になっているから、という事になる。

ちょっと大事な注

以下の文章では「事実」と「真実」という二つの単語が多用される。この単語は現代的には使う人によって絶妙に意味が異なるものとなってしまっていて混乱の元となっている。

この文章では以下の意味において「事実」と「真実」を使うものとする:

  • 事実とは発生したこと。
  • 真実とはその人の中にある本当のこと。

「事実」に関しては特段問題ないとは思うが「真実」についてはもう少し説明する。

「真実」とはその人が認識したと本当に思っていることのことで、たとえそれが事実と異なったとしても本当に思っている以上「真実」となる。

さらに言うと「嘘」とは「真実」と反することを意識的に主張することを言う。

例えば、ある人がAさんが窃盗を働いたと認識いる場合に「Aさんが盗みました」と主張する場合、事実としてAさんが盗んでいなかったとしてもその人は「真実」を述べている。一方で、Aさんが盗んだと認識しているのに「Bさんが盗んだ」と主張すると、たとえBさんが盗みを働いていたとしても嘘をついていることになる。

少なくとも実際に発生した現象をカメラに収めているので、それはいわゆるフィクションに比べて「真面目になる価値がある」ものと捉えられやすいし、だからこそその中に「真実」を見ようとする。

では、このドキュメンタリーで我々が見た「真実」とは何だったか?例えばそれは、

  • 宮崎駿と鈴木敏夫は庵野秀明の起用を初めから企んでいた。
  • その茶番につきあわされてたスタッフはその状況に疲弊していた。
  • 宮崎駿は自分が零戦オタクである自覚がないばかりではなく他の愛好家に対して攻撃的である。

といったことが挙げられるだろう。

以上のことは何かしら明確な証拠があるわけではなく映し出された「映像」から私達がかってに推察した彼らの内面的真実である。

では、明確な証拠がないのにも関わらず我々はなぜこのように考えるのか?

それは、このドキュメンタリーの監督である砂田麻美がそのように仕向けているからである。

検証のセクションでも述べたように、上に挙げたような「真実」は見事なカメラワークとカット割によって我々の中に植え付けられている。

逆に言うと、あれらはすべて砂田監督が思ったことにほかならない。

となると、私達が映像に写っていた人々の「真実」と思っていたものは彼らの真実でもなんでもないことになる。それはいわば、砂田監督の主観としての真実という事になるだろう。

そしてこれが「ドキュメンタリー」というものの本質である。

ドキュメンタリーは「作品」である

これまで述べてきたように「夢と狂気の王国」というドキュメンタリーの魅力的なシーンで私達が受け取ってしまう「真実」は砂田監督の真実という事になる。

ドキュメンタリーという形式上、これは砂田監督の越権行為のようにも思えるのだが、実のところドキュメンタリーとはこのようにつくつべきものであり、そのように作られているということを強く認識しながら見るべきものである。

ドキュメンタリーとは発生したことを定点観測した映像を垂れ流すものではない。何かしらの興味を抱いた主体にとってそれがどう見えたか、それはどうあるべきと考えているのかを主張するものである。

つまり、ドキュメンタリーは事実をつなぎ合わせて監督の真実を伝える「作品」である。そしてそのようにあるべきものである。

そしてその作品性を生み出すために様々な手法が使われる、例えば、

  • ナレーション
  • BGM
  • カメラワーク
  • カット割り
  • 構成(映す順番)

が挙げられる(つまりは編集ということだね)。そしてこれらすべてを駆使して映像を演出することによって本来はそこになかったはずのメッセージ性をもたせることになる。もちろん誰にでもできることではない。今回は砂田監督に才能があるからできていることである。

ただ、ドキュメンタリーが作品であるということを忘れてしまうと少々困ったことにもなる。

扇動装置としてのドキュメンタリー

先述の通りドキュメンタリーとは作品であり、そうあるべきものなのだけれど、結果としていくらでも悪用可能な代物である。

ドキュメンタリーが作品である以上何かしらの扇動装置になっていることは確かだが、編集を駆使することによって意図的に造り手が認識した事実と異なる状況を作り出し、都合の良い真実を視聴者に植え付けることだってできる。

それは何も「夢と狂気の王国」のような長編のドキュメンタリーだけではない。日々放送されるテレビのニュース、新聞の報道、SNSでの情報発信、その全てに言えることである。

その情報は一応「事実」をもとにしているのでついついその情報を事実の全体と思ってしまうが、十中八九そんなことはない。そもそも「事実の全体」などと言うものを認識できるほど人間の脳は優秀ではない。

だからこそ断片的な情報をつなぎ合わせる必要があるのだが、そうしてできたものはいつだってある種の「作品」である。その「作品」を見て生じた内面的な「真実」は、自発的なものというより植え付けられたものであることを強く自覚すべきである。

まとめ:ドキュメンタリーの見方

さて、以上のことを前提に、我々がドキュメンタリーをどのように見て楽しむべきかを考えてみると

  1. ドキュメンタリーは作品であることを認識し、
  2. その上で制作サイドのメッセージに寄り添う、
  3. 一方で、映像見て植え付けられた内面の真実を相対化し「本当にそうか?」「別の見方があるのでは?」と一考し、
  4. もう一度本編に戻って制作サイドのアイディアを楽しむ

くらいのものだろうか。結局は「ドキュメンタリーは作品」という前提に立てば、そこにどれほどの悪意があろうとも特に問題にはならない。

大事なことはいつだってこちらの認識である。

そして、いつか貴方がドキュメンタリーを作る時、大切になるのは客観性などではなく、貴方にとってそれがどのように見えるか、どのようであるべきと考えているかである。もしかしたら、フィクションを作るときにも同じことが大切になるかもしれない。

俺はどっちも作らないけど。

この記事は「スタジオジブリ作品静止画」の画像が一部利用されています。


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Sifr(シフル)
北国出身横浜在住の30代独り身。日頃は教育関連の仕事をしていますが、暇な時間を使って好きな映画やアニメーションについての記事を書いています。利用したサービスや家電についても少し書いていますが・・・もう崖っぷちです。孤独で死にそうです。でもまだ生きてます。だからもう少しだけ生きてみます。
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