「未来のミライ」と「となりのトトロ」に見る共通点 -孤独が生んだ”夢だけど夢じゃなかった”世界-
「未来のミライ公式」は、2018年に公開された細田守監督による劇場用アニメーション作品である。この作品は一言で言えば「4歳の子供であるくんちゃんの成長物語」ということになるのだが、「親に不満を分かってもらえない兄の苦しみ」や「子育てに悩む親の姿」など、表面上描かれていることは特段目新しいものではない、というより、嫌と言うほど描かれてきたものなのでその点におもしろさを感じることはあまりないとは思う。
したがって、この作品を面白くしている部分があるとすると、それは「くんちゃんが経験した不思議な現象」ということになる。
そして、宮崎駿監督作品である「となりのトトロ公式」と比較することによってこの「不思議な現象」を読み解くと、そこには驚くほどの共通点と、細田監督が描こうとした「子供という存在の本質」が見えてくる。
本記事では、両作品における「不思議な現象」が発生するタイミングを比較し、なぜ彼らはミライちゃんやトトロに出会わなければならなかったのか、その深層心理を考察する。
*この記事は、すでに「未来のミライ」を鑑賞済みで、大まかなストーリーをご存知の方向けの考察となっています。「あらすじや結末を忘れてしまった」「もう一度ストーリーを振り返りたい」という方は、先に以下の記事をご参照ください。
この記事の内容を、AIが対話形式(ラジオ形式)で分かりやすく解説してくれます。
「未来のミライ」と「となりのトトロ」に共通する”魔法”の発生条件
「未来のミライ」と「となりのトトロ」両作品はどちらも、私たちが住む現実世界には存在しない(あるいは見えない)不思議な存在と子供が交流する物語である。しかし、それらの現象は無秩序に発生しているわけではない。物語を丁寧に追っていくと、そこには明確な「法則」が存在していることが分かる。
くんちゃんが不思議な世界に迷い込む5つのタイミング
「未来のミライ」において、くんちゃんが不思議な世界(中庭の変異や過去・未来への移動)を経験するタイミングを整理すると、以下のようになる。
- 人間化したゆっことの遭遇 赤ちゃんのミライちゃんに「ちょっかい」を出して泣かせてしまい、親に一方的に叱られてしまい、自分の「寂しさ」を全くわかってもらえなかったとき。
- 中学生のミライちゃんとの遭遇 母の出張中、父親と遊ぼうとするも、父は自宅での仕事に集中しており相手にしてもらえず、一人寂しい思いをしていたとき。
- 過去の母との遭遇 自転車を買ってほしいという願いが聞き入れられず、逆に出しっぱなしのおもちゃを片付けるように母から怒られたとき。
- 若い頃の曽祖父との遭遇 公園で自転車の練習をしている途中、ミライちゃんが泣き出してしまい、父親がそちらにかかりきりになって自分の練習が中断されたとき。
- 未来の自分・東京駅への迷い込み 家族でキャンプに行く日、お気に入りの黄色いズボンがないことでぐずり、そのこだわりを両親に理解してもらえず置いていかれそうになった(と感じた)とき。
メイとサツキがトトロ(とネコバス)に出会うタイミング
一方、「となりのトトロ」において、メイやサツキがトトロやネコバスといった不思議な存在に遭遇するシーンは以下のようになっている。
- メイとトトロの初遭遇 サツキが学校に行っている間、メイは父と家で遊ぼうとする。しかし、父は書斎で研究に没頭しており、メイは結局一人遊びをしているとき。
- 雨のバス停でのトトロとの遭遇 傘を持たない父のために、サツキとメイが暗いバス停で父の帰りをずっと待っていた時。父の帰宅は遅れ、不安な時間が流れていたとき。
- ネコバスの召喚 母の一時帰宅が延期になり、絶望したメイが行方不明となる。サツキが強い危機意識と孤独を感じ、助けを求めたとき。
魔法はいつも「親の目が届かない死角」で発動する
上記のリストを比較すると、ある共通項が浮かび上がってくる。それは、「子供が感じていながらも周りに気づかれない孤独」を感じた瞬間に、不思議な現象が発生しているということだ。
特に注目すべきは、「未来のミライ」の【2.】と、「となりのトトロ」の【2.】の類似性である。どちらも父親は家にいる。しかし、仕事(研究)に集中しており、子供への意識が途切れている。子供は「お父さんはいるのに、遊んでもらえない」という、物理的な不在よりも質の悪い孤独を感じている。
しかも、以下の画像を比較すれば、細田監督も自覚的(意図的に)そのようなシチュエーションを作ったことが伺える:
誤解のないように補足するが、これは細田監督がシチュエーションをパクったということを言いたいわけではないし、そうはなっていない。これは明確なオマージュを捧げたシーンと認識すべきである。逆に言うと、この作品を作るうえで細田監督の中には明確に「となりのトトロ」あるいは宮崎駿という存在が意識されていたことになり、「となりのトトロ」に真っ向勝負を挑んだという見方もできるかも知れない。
いずれにしても、両作品における「魔法(不思議な現象)」は、親が子供を愛していないから起きるのではなく、親が忙しさや他の事情で子供から目を離してしまった一瞬の「隙間(死角)」に入り込むようにして発生しているのである。
トトロとミライちゃんは「イマジナリーフレンド」なのか?
このように発生条件を整理すると、これらの不思議な存在が子供たちにとってどのような役割を果たしているのかが見えてくる。
孤独と不安を合理化する「心の防衛システム」
「未来のミライ」において、物語の流れは常に「くんちゃんが不満を持つ ⇒ 不思議な現象が発生し、体験を通じて不満が解消(あるいは納得)される」という構造になっている。
これは、子供が抱える孤独や嫉妬、不条理といった処理しきれない感情を、脳内で物語化して処理しようとする「イマジナリーフレンド(空想の友達)」の機能に極めて近い。不思議な現象は、子供が自分自身の精神のバランスを保つために無意識に生み出した「合理化の装置」として機能しているのである。
「となりのトトロ」も同様である。母の不在、父の多忙、見知らぬ土地での生活。サツキとメイを取り巻く環境は、子供にとっては過酷なストレス環境だ。トトロやネコバスは、その過酷な現実(孤独)を埋め合わせるかのように、圧倒的な安心感とワクワク感を持って彼女たちの前に現れる。
つまり、両作品における不思議な存在は、子供の空想の世界と表裏一体であり、「子供の孤独を救済するための必然」としてそこに在るということになる。
「成長」させるミライ、「保護」するトトロ
このように、重要な共通点をもつ両作品だが、そのスタンスについては「不思議な存在が子供に何をもたらすか」という点において、決定的な違いもある。
「未来のミライ」に登場する存在(ミライちゃん、母、曾祖父など)は、くんちゃんを甘やかさない。時には叱り、時には冷たく突き放し、彼に新しい視点を与える。つまり、彼らはくんちゃんの「成長(社会化)」を促す教育係のような役割を果たしている。
一方で、「となりのトトロ」のトトロは、何も言わず、ただそばにいて、ふわふわのお腹でメイを受け止め、木の実をくれ、コマに乗って空を飛ぶ。トトロは、不安に震える子供たちを現実の恐怖(母の死の予感など)から守る「シェルター(避難所)」としての役割を果たしている。
同じ「孤独」から生まれた存在であっても、4歳のくんちゃんには「成長」が、母の病気という重荷を背負ったサツキとメイには「癒やし」が必要だったのかもしれない。
結論:「夢だけど、夢じゃなかった」を描く物語
ここまで語ってきたことは、未来のミライちゃんやトトロという存在が、どちらかと言うと子供の「幻想(イマジナリーフレンド)」という側面で語ってきた。
その一方で、くんちゃんが見た過去はくんちゃんが知り得ないことであるし、トトロの存在(物語の中においての「実在」としての存在)を否定することは物語上の矛盾を生むだろう。したがって、トトロやネコバスは「存在」していると見るのが自然である。
その上で、ここまで考えてきたように、それらが持っている意味合いを考えると、そこには「子供の幻想」という側面が見えてくることになる。
そして、「となりのトトロ」におけるメイの有名な台詞「夢だけど、夢じゃなかった!」は、ものの見事にこれらの作品の本質を突いていることが分かるだろう。
大人や客観的な視点から見れば、くんちゃんの体験はただの空想かもしれないし、トトロは森が見せた幻かもしれない。しかし、その体験の結果として、くんちゃんは自転車に乗れるようになり、サツキとメイは絶望の淵から救われ、笑顔で家路につくことができた。
子供の心に「成長」や「救い」という確かな現実をもたらした以上、それは単なる夢ではなく、紛れもない『現実』であった。
「未来のミライ」と「となりのトトロ」。作風は異なれど、両作品とも「親の目が届かない孤独な時間」を、自らの想像力で生き抜こうとする子供たちのたくましさと、それを肯定する「夢だけど夢じゃなかった」世界を見事に描いた作品ということが出来ると思う。
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