日本各地に伝わる「天女伝説(羽衣伝説)」は、天から降りてきた天女が水辺で羽衣を脱ぎ、地上の者がそれを隠すことで“帰れなくなる”という骨格を持つ説話群である。地域によって結末(昇天する/地上に残る/子や一族の起源に接続する)や、天女の役割(福をもたらす神・祖先・悲劇の象徴)が大きく変化するのが特徴である。

本記事では「現存する伝説」のうち、文献で内容が確認できるものを優先し、可能な限り古い伝承(文献)順に、各話の筋が追える形で整理する。なお、羽衣伝説は全国に多数の異伝があり、ここで扱うのは“代表例(かつ出典が追える例)”である。

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AIによる音声サマリー

この記事の内容を、AIが対話形式(ラジオ形式)で分かりやすく解説してくれます。

地域別の天女(羽衣)伝説(文献で確認できる順)

水辺の松の枝に掛かる白い衣を描き「各地で奪われ続ける羽衣」というテキストを載せた挿絵

近江(滋賀)・余呉湖の天女(近江国風土記逸文/『帝王編年記』引用)

成立時期(文献):この説話は、室町時代に編纂されたとされる『帝王編年記』の元正天皇・養老七年(723)条に、散逸した『近江国風土記』を引く形で記載が見える。ただし、元になった『近江国風土記』が現存しないため、説話そのものの成立時期をここから確定することはできない。

あらすじ(物語の流れ):近江国伊香郡与胡郷の伊香小江(郷の南にある水域)へ、天の八乙女白鳥となって天から降り、水浴びをする。西山にいた伊香刀美はその姿を遠望し、神人ではないかと疑いつつも恋心を抱き、白犬を遣わして末の天女の天衣(羽衣)を盗ませ、隠してしまう。天女は気づき、姉七人は天へ帰るが、末妹だけは羽衣がないため帰れず、地上の民となる。水浴びした浦は後に神浦と呼ばれる。伊香刀美は末妹と夫婦となって暮らし、男二人・女二人の子をもうけ、これが伊香連の祖であると語られる。だが後に天女は羽衣を探し当てて身に着け、天へ帰ってしまい、伊香刀美は空床を守って嘆き続ける。

出典(リンク)miko.org(『近江国風土記逸文』「伊香小江」本文:『帝王編年記』養老七年条の引用として収録)シガブンシンブン(余呉湖の羽衣伝説と『帝王編年記』養老七年条の紹介・解説)

丹後(京都)・奈具社と「比治の真奈井」の天女(丹後国風土記逸文)

成立時期(文献):この説話は、散逸した『丹後国風土記』の逸文として「丹後国風土記曰」と明記され、神宮文庫蔵『古事記裏書』を底本とする本文で確認できる(逸文)。ただし、逸文は「どの時点で(いつの形で)書き留められたか」を一本化して断定しにくく、成立時期が明確に言い切れる段階の史料ではない。

あらすじ(物語の流れ):丹波郡比治の里、比治山の頂にある真奈井へ、天女が八人降りて水浴びをする。その姿を見た和奈佐(わなさ)の老夫婦は、天女の羽衣の一つを隠す。すると羽衣を失った天女は天へ帰れず、嘆きながらも老夫婦に「子にしてほしい」と願い、老夫婦はこれを受け入れる。天女は家に留まり、やがて万病に効くという酒を醸す。その酒は一杯で病が癒えるほどだとされ、家は急速に富む。しかし富に心が変わった老夫婦は、天女に向かって「自分たちの子ではないのだから出て行け」と言い放ち、天女を追い出してしまう。天女は天を仰いで嘆きの歌を詠み、さまよいながら荒塩村へ至り、村人に「老夫婦の心と我が心は異ならない」と語ったことから地名の由来が語られる。さらに哭木村では槻の木に寄りかかって泣いたのでその名が起こったとされる。最後に竹野郡舟木里の奈具村へ至り、「ここで心がなぐしく(平らかに良く)なった」と言って住み着き、この天女こそが奈具社に坐す豊宇賀能売命である、と結ばれる。

出典(リンク)miko.org(『丹後国風土記逸文』「比治真奈井・奈具社」本文:底本=神宮文庫蔵『古事記裏書』の注記あり)京丹後歴史文化めぐりマップ(京丹後市:奈具神社=『丹後国風土記逸文』の「奈具社」として伝承要旨を提示)

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陸前(宮城)・竹島と天女塚(安永三年「風土記御用書出」に言及)

成立時期(文献):南三陸町の案内では、安永三年(1774)の「風土記御用書出」をはじめ複数の記録に言及しつつ、天女伝説の舞台として古くから知られていたとする(町指定史跡の解説)。

あらすじ(物語の流れ):沖合の小島(竹島)で、ある家の先祖が衰弱して倒れている天女を見つける。天女の傍らには子犬もいて、先祖は天女と子犬をともに連れ帰り、手を尽くして看病する。しかし看病の甲斐なく天女は亡くなってしまう。人々はその死を悼み、天女のための塚(天女塚)と、共にいた犬のための狗塚(いぬづか)という二つの塚を築いて祀る。ここでは「羽衣を隠して妻にする」型ではなく、来訪者(天女)の死を弔う型へ強く傾く点が特色である。

出典(リンク)南三陸町(天女塚・狗塚:安永三年風土記御用書出への言及と伝説要旨)南三陸観光ポータル(竹島と天女伝説の概要)

下総(千葉)・羽衣の松(『下総名勝図絵』/『妙見実録千集記』)

成立時期(文献):千葉市立郷土博物館の研究員コラムは、『下総名勝図絵』(弘化三年=1846のはしがきあり)に「羽衣の松」由来が見えること、さらに『妙見実録千集記』に代表的な本文があることを明記している。

あらすじ(物語の流れ):千葉の湯之花城下にある池田の池には、千葉(せんよう)に咲く蓮があり、夜更けに天人(天女)が天下る。天人は傍らの松の枝に羽衣を掛け、池のほとりで蓮を愛でる。やがて天人は城へ影向(ようごう、神仏が仮の姿をとって現れること)し、土地の領主である千葉介常将と夫婦になる。ほどなく懐胎し、翌年夏に男子(常長)を産む。さらにこの説話は、蓮(千葉)の瑞祥によって「千葉」を名乗るという筋へ接続し、千葉氏の起源・神聖性を語る物語として組み立てられる。天女は最後に「妙見大菩薩の御変化(化身)」であったという種明かしを伴い、天女伝説が氏族神話・信仰へ編み込まれていく点が大きな特徴である。

出典(リンク)千葉市立郷土博物館(研究員コラム:『下総名勝図絵』と『妙見実録千集記』を明記し本文要旨を紹介)

駿河(静岡)・三保の松原と「羽衣の松」(鎌倉期『海道記』/室町期の能『羽衣』/江戸期『本朝神社考』)

成立時期(文献):文献上、まず鎌倉時代の紀行文『海道記』に、三保松原近傍の有度浜(うどはま)で「天人が舞った」とする由来譚が紹介されている(※ただし、ここでは「三保の松原の松に羽衣が掛かる」筋そのものというより、天人来訪・舞のモチーフが語られている段階である)。ついで、三保松原を舞台にした「羽衣」型の物語は、一般には室町時代の能『羽衣』によって広く知られるようになったと説明されることが多い(15世紀作とされる紹介もある)。一方で、能研究の報告書は、能『羽衣』の作者は近年「作者不明」とみなすのが定石であり、成立時期も「遅くとも16世紀前半までに存在していた」以上を確定しにくい点を整理している。また、三保松原側の展示解説は、能『羽衣』が作られた頃に、現在よく知られる筋の羽衣伝説がすでに広まっていたかどうかは定かではないとも明記している。さらに江戸時代には、林羅山『本朝神社考』が『駿河国風土記』として三保の羽衣説話を引き、後世の「風土記逸文」理解とも結びつけられている。

あらすじ(物語の流れ):三保の村の漁師(伯梁/白龍)が、浜辺の松の枝に見たこともない美しい衣(羽衣)が掛かっているのを見つける。周囲に持ち主は見当たらず、漁師は「忘れ物なら国の宝に」と持ち帰ろうとする。すると天女が現れ、「それは天人の羽衣で、返してもらわねば天に帰れない」と嘆願する。漁師は最初は惜しむが、涙ながらに訴える天女を哀れに思い、条件として「天上の舞を見せてくれるなら返す」と約束する。ところが天女は「舞うには羽衣が要る」と言い、先に返すよう求めるため、漁師は「返したら舞わずに帰るのでは」と疑う。天女は「疑い・偽りは人間のもの、天上に偽りはない」と言い切り、漁師は恥じて羽衣を返す。天女は羽衣をまとい、笛や鼓の音も聞こえる中で優雅に舞い、やがて空高く舞い上がって天へ帰っていく。三保では、この羽衣の切れ端が御穂神社に残る、とも語られている。

出典(リンク)静岡県(清水海岸ポータルサイト:羽衣伝説の本文・要旨)静岡市シティプロモーション(三保松原の羽衣伝説:15世紀の謡曲『羽衣』で著名化、芸能・芸術への波及)みほしるべ(三保松原文化創造センター)展示補足解説(『海道記』言及/能成立期に伝説が広まっていたか不明、等)京都市立芸術大学 伝統産業技術後継者育成事業 報告書(能『羽衣』の作者・成立・典拠整理)

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沖縄(宜野湾)・森の川の「はごろも伝説」(察度王伝承へ接続)

成立時期(文献):成立年代の断定は難しいが、宜野湾市が公式に「伝説」として紹介している(更新日も明記)。

あらすじ(物語の流れ):昔、貧しい奥間大親が、畑仕事の帰りに“森の川”で水浴びする美女(天女)を見つける。枝に掛かった衣(羽衣)を見た奥間はそれを草むらに隠し、天女は「羽衣がなければ天に昇れない」と泣き崩れる。奥間は親切を装い、羽衣を倉の奥深く隠したまま天女を家に迎える。やがて二人は暮らし、十年を経て一男一女が生まれる。さらに年月が過ぎ、娘が偶然羽衣の在り処を知り、弟と遊びながら歌う。その歌を聞いた母は喜び、夫の留守に羽衣を取り出して身につけ、天へ舞い上がってしまう。夫と子の泣き声に空を巡りつつ、ついに大空の彼方へ去る。その後、残された男児は成長して才覚を示し、勝連按司の娘との婚姻を経て人々の信望を集め、浦添の按司となり、中山王察度へ至った――という具合に、天女伝説が王統(政治的起源)へ接続する。

出典(リンク)宜野湾市(はごろも伝説:物語の筋と「察度」への接続までを記載)

共通点と違い―諸伝承から見える骨格と物語としての「悲惨さ」

各伝承の共通点の第一は、水辺(湖・井戸・川・池)での水浴びである。天女が地上へ降りる“入口”であり、異界との境界線として、水辺が設定されている点は一貫している。

幻想的な水辺と鳥居を背景に「人は何故『天女』から奪うのか?」という問いかけが配置されている

共通点の第二は、羽衣(帰還手段)の喪失である。盗難・隠匿・偶発的な紛失のいずれであれ、「帰る手段を絶たれる」ことによって物語が起動する。

一方でその結末には、地域や伝承の目的によっていくつかの明確なパターンが存在している。

  1. 昇天して別離する(悲劇・七夕伝説等の類型へ接続)、
  2. 地上に残って神・土地神化する、
  3. 子や氏族・王統の起源へ接続する。

しかし、ここで注目すべきなのは、やはり多くの天女伝説が孕んでいる「構造的な悲惨さ」だろう。

この記事で紹介した中では、下総(千葉)の伝説と、天女が既に衰弱していた陸前(宮城)の伝説を除き、ほとんどのケースで男(または老人)が意図的に羽衣を隠している。現代的な視点で見れば、それは明確な窃盗であり、帰還の強制的な妨害に他ならない。

さらに理解しがたいのは、「被害者である天女が、加害者である男(またはその家)の妻や娘として組み込まれてしまう」という展開である。望まぬ形で地上に縛り付けられたにもかかわらず、なぜその犯人と長年連れ添い、子を成す(あるいは富をもたらす)という筋書きが成立するのか。そこには「高貴な女性(天女)を捕らえて妻にすることで、家の格や血統を正当化する」という、古代的な「略奪婚」の論理が生々しく残っているように見える。

現在、我々が一般的にイメージする「羽衣伝説」は、三保の松原(能『羽衣』)のバージョンであることが多いと思われるが、あれは漁師が天女の「疑いは人間にあり、天に偽りなし」という言葉に心を動かされ、羽衣を返却している。つまり、信頼と交流が成立した稀有な「ハッピーエンド(救いのある)」の例となっている(羽衣を盗んではいるけど)。

千年以上前の説話を現代の倫理観のみで断罪するのは野暮かもしれない。しかし、多くの羽衣伝説の根底にあるのが、美しいロマンスなどではなく、「帰る場所を奪われた者の嘆き」と「一方的な拘束」であることは、文献を読めば疑いようのない事実だろう。


以上が私が個人的に集めてみた「羽衣(天女)伝説」でございます。元々は高畑勲監督作品である「かぐや姫の物語」で採用された「羽衣伝説」が自分がよく知るものと異なっていることがこの記事を作ったきっかけでした。高畑監督が想定していたのはおそらく余呉湖の伝説だと思われます。

「かぐや姫の物語」の物語は有名な「竹取物語(9世紀後半から10世紀前半頃に成立したとされる)」をその原作としており、それも「天女の物語」と見ることができると思います。そのような物語の類型は随分昔からあっということができるとおもいます。高畑監督が「羽衣伝説」とつなげた背景にはそのようなこともあったのかも知れません。

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北国出身横浜在住の30代独り身。日頃は教育関連の仕事をしていますが、暇な時間を使って好きな映画やアニメーションについての記事を書いています。利用したサービスや家電についても少し書いていますが・・・もう崖っぷちです。孤独で死にそうです。でもまだ生きてます。だからもう少しだけ生きてみます。
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