「火垂るの墓(スタジオジブリ公式)」は1988年に公開された高畑勲監督による劇場用アニメーションである。
「昭和20年9月21日夜。ぼくは死んだ」という極めて印象的な台詞から始まるこの映画は、多くの人々の中に「なにか」を刻み込んだものと思うし、私もそうであった。
上の台詞を含めたオープニングの描写によって、主人公である清太と妹節子は非業の死を遂げていることが直ちに分かる構造になっており、ある意味で「ネタバレ」状態で映画が進むことになる。「ああ、この兄妹が死んでしまうのか」と。
さらに、映画のラストの描写によって、清太と節子は現代至るまで「幽霊」として「この世」に存在し続けていることが分かる。
オープニングで蛍の光に包まれながら現れる清太と節子、そして電車に乗る2人の姿だけなら「これから成仏する」というようにも見えなくもない。しかし、ラストで描かれれる開発されたビルの風景によって、2人は成仏することなく現代に至るまで「そこ」におり、成仏していないことが確定してしまう。
しかし、清太と節子はなぜ成仏することなく浮遊霊のように現代に至るまで存在し続けているのだろうか?
もちろん、2人の死に方を考えれば「成仏」なんてことができないことは当たり前のように感じるのだが、それならあの戦争でなくなった人々すべてがそうであって、少なくともラストシーンでそういった人々の姿が描かれることが自然なように思われる。少なくとも父と母はいるべきではないだろうか。
この違和感を解決するキーワードが「心中」である。
この「心中」というキーワードを中心に据えることで、清太と節子が幽霊として現代まで存在し続けてい理由、そして物語のラストで清太が我々を見つめる理由を考えていこうと思う。
これらの「理由」が明らかになったときに、「火垂るの墓」という映画の切ないメッセージが浮かび上がってくると思う。
まずは高畑勲監督の発言から振り返ることにする。
この記事の内容を、AIが対話形式(ラジオ形式)で分かりやすく解説してくれます。
- 高畑監督が語る「心中もの」としての構造
高畑監督は『火垂るの墓』を、清太と節子が社会から孤立し、二人だけの閉ざされた世界で死に向かっていく「心中もの」の物語として捉えていた。この悲劇的な構造をアニメーションで表現することに強い意欲を持っていた。 - 清太と節子が幽霊であり続ける理由
二人が成仏できずに幽霊として彷徨い続けるのは、戦争によって兄妹として過ごす「子供らしい大切な時間」を奪われたため。彼らは幽霊となることで、生きている間には叶わなかった満ち足りた日々を取り戻そうとしている。 - 作品が伝える「失われた時間」という悲劇
ラストシーンで清太が観客を見つめるのは、この物語の核心的なメッセージを問いかけている。それは、戦争が多くの命だけでなく、二度と取り戻すことのできない「大切な時間」をも奪い去るという、もう一つの悲劇性を訴えかけるものである。
高畑勲監督の発言ー「心中もの」ー

高畑勲監督は、朝日新聞のインタビューで「火垂るの墓」について以下のように語っている:
野坂昭如さんの原作にひかれたのは、2人がいかに死に向かっていったかを閉じた世界の中で描くという「心中もの」の構造があったこと。アニメなら新しい求心力で描けるのではないかという表現上の野心が強かった。
空襲の経験、きちんと映画に 「火垂るの墓」高畑勲監督より
ここで問題となるのは以下の2点であると思う:
- 高畑監督の言う「心中もの」の構造とはなにか?
- なぜ「心中もの」の構造に惹かれたのか?
これらの疑問点を胸に秘めながら、この記事の本筋である「清太と節子が幽霊として存在し続けている理由」を考えていこうと思う。
清太と節子が幽霊として存在し続けている理由と物語のメッセージ

ここからは清太と節子が幽霊として存在し続けている理由、つまり、2人が「成仏」できない理由を考えていく。まずは、その理由が分かりやすい思われる清太から考えていこうとう思う。
清太が成仏できない理由①-節子を死に追いやってしまったこと-
ストレートに考えるなら、清太が成仏できなかった理由として考えられるのは「節子を死に追いやってしまったこと」ということになるだろう。
この考えに立つと「だったら一言おばさんに詫びを入れればよかっただけじゃないか」とツッコミを入れたくなってしまうのだが、最初に考える可能性としては妥当なものだと思う。しかし、彼が成仏できない理由をこのように考えると少々疑問が残ってしまう。
というのも、清太は映画のスタート時点で幽霊として再会を果たしており、節子は満面の笑みを見せている。節子は清太より1ヶ月ほど早くなくなっているので節子も成仏できていないということにはなるのだが、あの再会を持って清太も節子も成仏して良いような気もする。
そしてもし清太が成仏できない理由が「節子を死に追いやってしまったこと」だとすると、彼は幽霊として節子に再会した際にひどく謝罪する描写がなくてはおかしい。
しかし彼もまた、満面の笑みで節子と再会を果たし、映画のラストシーンにたどり着くのである。
となると、彼が成仏できない理由を「節子を死に追いやってしまったこと」と捉えるのは実のところ無理があるように思われる。
では彼が成仏できない理由は一体何か?
それを考えるためには、節子が成仏できていない理由を考えることが重要であると思われる。
節子が成仏できない理由-満ち足りた日々を奪われたこと-
清太の成仏できない理由を考えると、一応「節子を死に追いやってしまったこと」ということを思いつくことはできるのだが、節子が成仏できていない理由となると突如難しくなる。
それでもある程度考えると仮説として考えられることとして「あれほど求めた母に会えずに死んでしまったから」を挙げることができるかも知れない。
そのように考えると、ラストまで節子が成仏できない理由も説明がつくし、節子が成仏できないから清太も成仏できないということで、清太についても説明がつくと思う。
ところが、節子が成仏できない理由が「母と会えなかったこと」だとすると、オープニングからエンディングまで描かれる幽霊の節子が、一度も寂しそうな表情を見せない理由を説明できない。
そして、何故かわからないが、節子とても安心していて、満ち足りた表情を浮かべているし、清太の膝の上で健やかに寝ている姿でエンディングを迎える。どう見ても母親に会いたいようには見えない。むしろ、清太との再会こそが節子の目的であったようにも見える。
この辺の描写にこそ、高畑監督のいうところの「心中もの」の構造が利用されているのだと思う。
つまり、節子が成仏できなかった理由は、「兄である清太との満ち足りた日々を送りきれなかったこと」ということになるのではないだろうか?
ここでWikipediaに掲載されている高畑監督の言葉を引用しよう、原典は 『スタジオジブリ作品関連資料集II』と記載されている:
「本作は決して単なる反戦映画ではなく、お涙頂戴のかわいそうな戦争の犠牲者の物語でもなく、戦争の時代に生きた、ごく普通の子供がたどった悲劇の物語を描いた」
ここで語られた「ごく普通の子供がたどった悲劇の物語」とはなにか?つまりは、子どもが子供らしくいられる時間を奪われたということもできると思う。
このように考えてみると、清太が成仏できなかった理由も見えてくるだろう。
清太が成仏できなかった理由②-子どもでいられなかったこと-
映画の序盤で描かれた清太が、ひどく大人であったこと、叔母との関係が悪くなりながらも節子の事は気にかけ続けたことも、14歳の少年が少年らしく生きる時間を奪われたことを表しているように思える。
となると、実のところ清太が成仏出来ない理由も「節子と満ち足りた日々を送りきれなかったことあるいは「子どもらしい日々を送れなかったこと」と言えるのではないだろうか。
さらに、清太の「兄」という側面を考えれば「節子に子供らしい日々を送らせてあげられなかったこと」という言い方もできるかもしれない。
叔母さんの家を離れて「横穴」で暮らすことことを決めた清太を全面的に指示することは難しいのだが、彼の行動が「子供らしくいたかった」、「節子に子供らしい日々を遅らせてあげたかった」という思いから来ていると考えれば、わずかに同情もできるのではないだろうか。
高畠監督のいうところの「『普通の子供』がたどった悲劇」とは、「子供が子供らしく生きることを否定されたこと」と言い換えることができるかもしれない。
そしてこのように考えてみると、幽霊として再会を果たした節子と清太が、現代に至るまで幽霊として彷徨っている理由、あるいは、幽霊として何をし続けているかも見えてくるように思える。
幽霊としての清太と節子がし続けていること-子供らしい兄妹としての日々を取り戻す-
清太と節子が成仏出来ない理由が「子供らしく生きることが出来なかったから」と考えると、彼らが幽霊として何をしているのかも見えてくる。彼らはず~っと兄妹で遊び続けているのだろう、現代に至るまで、そしていつまでも。
ただ、普通に考えると、どこかでその時間に満足して、2人で成仏しそうなものではあるのだが、それが叶わないという事実が、戦争が2人から奪った「子供らしい時間」の大切さを表現しているのだと思う。
そしてここにも、高畑監督が考えた「心中もの」としての構造が見えてくるだろう。「心中」というのはつまり「この世で2人は結ばれないので、せめてあの世で幸せになりましょう」ということだと思うが、清太と節子は幽霊として「現世」でそれを実現しているのである。
最後に、そんな清太が映画を見る私達を見つめる理由を考えてみよう。
こちらを見つめる清太の思いと作品のメッセージ
映画のラストで、清太は私達をじ~っと見つめてくる。これは完璧にメタ的な表現になってしまっているが、ここまで考えてきたことを前提にすれば、その清太の思いもわかってくると思う。
そして、そんな清太の目線で終わりを告げる「火垂るの墓」という映画のメッセーじを言葉にしてみると以下のようになると思われる:
戦争は、多くの命が奪われる悲劇である。そしてそれに匹敵する悲劇として「大切な時間」が奪われるということも発生してしまう。命と同じように「大切な時間」も二度とは帰ってこないのだ。
皆さんはどう思うだろうか?
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