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逆襲のシャア】最後の最後までシャアをわかってあげられないアムロの無慈悲

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「機動戦士ガンダム逆襲のシャア」は1988年に公開された富野由悠季監督による劇場用アニメーション作品である。「アムロとシャアの物語」としての宇宙世紀シリーズの完結編であり、今なお人気を保ちつつも「なんだかよくわからない」と言われる作品だと思われる。

私自身としてはとても好きな作品である。もちろん「理解している」とは言い難いが、個人的に面白ポイントは存在している。

注目スべきはやはりラストのシャアとアムロの対話シーンであろう。

ファーストガンダムでのチャンバラシーン以来の「本音」の対話シーンだったかもしれないが、結局あのシーンでは何が起こっていたことになっているのだろうか?

今回はそんなことを考えていこうと思う。まず考えなくてはならないのは、「逆襲のシャア」に至るまでの2人の人生であろう。特に、シャアに思いを馳せるのが寛容だ。


監督:富野喜幸
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シャアの空回り人生とアムロの成功

不運の男シャア・アズナブル

私がシャア・アズナブルという自物に思いを馳せるときに、まず想起される言葉が「空回り」である。彼の空回り人生はファーストガンダムの頃から始まっていた。もちろんきっかけは「ガルマの殺害」である。

全然うれしくなかったガルマ殺害

ファーストガンダムの序盤でシャアは「ザビ家への復習」に動いていた。それは長い長い旅路の先にあったもので、キャスバル・レム・ダイクンという名前を捨て、シャア・アズナブルという偽りの名前を自らのものにする旅路でもあった。

そして「機動戦士ガンダム」第10話「ガルマ散る」で彼はようやく復讐の第一歩を踏み出したのだが、その直後のシャアの様子がどうもおかしい。

我々は有名な「坊やだからさ」というシーンを目にすることになるのだが、どうにもシャアは嬉しそうではないのだ。

おそらく本当に嬉しくなかったのだろう。そしてなんの達成感もなかったのだろう。

シャアは「復讐こそ我が人生」と思って生きてきたのに、彼の人生で唯一とおもわれる友人ガルマを殺害し、自分が望んでいたことは何の意味もなかったことに気がついてしまった。

そんな彼はキシリアの指揮下に入るが、彼がキシリアを殺害したときの言葉「ガルマへのたむけ」とは「ガルマごめん」ということでもあったかもしれない。本当に恨んでいる相手にたむけなんていらないのだから。

何れにせよ、彼は親友ガルマを殺害することによって最初の空回り状態に入ってしまった。どのように生きるべきか分からなくなったのである。しかしそんな彼の前にララアが現れた。

ララアという福音

シャアにとってララアとは「復讐以外にも人生はある」と思わせてくれた重要人物である。シャアはララアという存在を前に「人類の革新」という自らの父親の見た理想を思い出したのだろう。「そうだ!俺は復讐のためではなく、人類の革新のために生きるんだ!これで俺はキャスバル・レム・ダイクンに戻れるんだ!」と彼は思ったに違いない。

「ララアは母になってくれるかもしれなかった女性だ」という「逆襲のシャア」におけるもっとも不可解な発言はこの「キャスバル・レム・ダイクンとしての新生」を意味していたのだろうと思われる。

何れにせよ我々がよく知るように、ララアは何やらアムロと通じた上に、アムロの手によって葬られてしまった。しかもほとんど自分のせいで。

ララアという福音を失ったシャアはもはや「空回り」を運命づけられてしまった。

ハマーン and シロッコ VS 俺

彼の空回り人生は「機動戦士Zガンダム」でも描かれていた。そもそも「クワトロ」という別の名前で活動しているところに「自分探し」が見て取れる。彼は何か新しい生き方を探していたのだ。

それはおそらく「人類の革新」を逆手(順手か?)にとって「地上の人々の目を覚まさせる」という「上から目線」の活動にのめり込むことだったのだろう。

それは「機動戦士Zガンダム」第37話「ダカールの日」で結実はしたのだが、結局世界は変わらなかった。わざわざ「シャア・アズナブル」という名前まで出したのに。

あの辺でシャアは「あれ?俺ってあんまし政治力ないのかな?」ということに気がついたのかもしれない。「機動戦士Zガンダム」とはシャア・アズナブルにとっては「結局折れはパイロットか・・・」という諦めの物語だったかもしれない。

しかし悲劇は続く。

「Zダンダム」の終盤、シャアはハマーンとシロッコという強敵を1人で相手にすることになる。彼は善戦したのだが、結局は負けてしまった。

あの時彼は何を思っただろうか?

別にそれぞれに対して劣っていたわけではない。でも、わざわざ2人でかかってくることはないじゃないか。シャアは自らの不運の人生に想いをはせたことだろう。

その後のシャアに関する妄想

ここから「逆襲のシャア」までの彼の人生は想像、あるいは妄想するしかない。しかし俺はこんなふうに思ってしまうのである。

ハマーンとシロッコの挟撃に倒れたシャアは、自らの人生に想いをはせた。「嗚呼、俺の人生って何だったのかな、俺はこの先どうすればいいのかな。」

そんな彼の脳裏にアムロの「宇宙が怖いんだ」という言葉が浮かぶ。

「そうか、アムロも苦しんでるんだ。地球に言ってアムロと農家でもやるか」と思ったシャアは、お忍びで地球に再び降り立つ。

しかしそこで目の当たりにしたアムロの姿は、1年戦争を彷彿とさせるもので、結局平気な顔をして宇宙に上がってしまった。

そんなアムロの姿を見たシャアは絶望し、とあるバーに立ち寄った。そこで一杯のウィスキーを飲み干すと、黒ずくめの男に肩を叩かれる。

「あなたはクワトロ、いや、シャア・アズナブルですね。」

シャアは自らの命運を悟る。結局俺は「道化」しか演じられないのだ。それなら盛大に道化を演じよう。そしてせめてパイロットとしてアムロと戦おう。そう思ったシャアは「ネオ・ジオン」の策謀に自らを委ねることにする。

本当に100%妄想なのだけれど、「逆襲のシャア」を見ているとどうしてもこういうことを考えてしまう。シャアは自らの空回り人生を攻めてアムロとの対決で終わらせようとしたのだろう。もはや彼にはそれしか残っていなかったのだ。

しかし我々は、そんな彼が愛おしくてしょうがないのである。

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伝説の男アムロ・レイ

ここまで考えてきたシャアの空回り人生と対極をなしているのがアムロ・レイである。

アムロ・レイはあまり理想とは言えない家庭環境に育ったが、少なくとも親を暗殺されてはいない。父は酸素欠乏症を患って「あほたれ」になってしまったが、母は健在である(少なくとも劇場版では父は階段から落ちて死んだものと思われる)。

もちろん母とは「再会、母よ」で決別してしまったが、私が思うに一年戦争の終結後、もう一度会いに行ったのではないだろうか?アムロってそういういい子だと思うのだ。

思えば引きこもり生活をしていても、近所の女の子フラウ・ボウに気を使ってもらえる存在だったし、結局RX-78を操縦して一年戦争の英雄となった。

一年戦争終結後に少々待機時間はあったが、再び発生した動乱が彼を再び戦場の英雄にしていった。

「逆襲のシャア」の時代ではおそらく彼は生きる伝説である。

アムロはブライトと並んで、1年戦争から第一線で生き抜いてきた戦場の英雄である。実際にパイロットとしての技術も超一流であっただろうから、地球連邦軍の中で彼は尊敬され、現場レベルでは相当なわがままが許される状況にあったと思われる。

これは「逆襲のシャア」という世界で「全然尊敬されていないのに権限だけはあるシャア」と完全に対をなしている。

しかし重要なポイントは、そんなアムロはシャアを「尊敬」しているという点だろう。「逆襲のシャア」本編でも「お前ほどの男がなんで」という表現を用いている。

つまりアムロは、シャアが空回っていることも認識していないし、自分に対してある種のコンプレックスを抱いているなんてこれっぽっちも分かっていないということになっている。

ララアに関しても、「愛するものを自ら殺してしまった」とは思っていても「シャアにとってかけがえのない存在を奪った」という事実については思ってもよらない。

アムロにとってシャアとはそういう存在として描かれている。

シャアとアムロの最終決戦

このような形で2人の人生を振り返ってみると、シャアとアムロの最後の対話の意味がようやく分かってくる。

あの会話中ずっとアムロは「シャアには何か大義があるはずだ!」と思って話しているのだが、「母になってくれるかもしれなかった女性」という言葉でようやく状況を理解し始めている。

あの瞬間のアムロの内面を想像するなら、

お母さん、お母さん・・・、えっと、ララアがお母さん・・・、つまり・・・うん?愛していたとかじゃなくて?・・・・え!お母さん?ララアが!?

アムロにとってララアは、憧れのマチルダさんの先にいた、本当に惚れた相手だっただろう。でもそういう存在に過ぎず、恋慕の思い以上のことはないのである。

結局の所、アムロはシャアにとってララアが「恋慕の対象」以上の存在であることなど理解できなかったし、自分程度の存在にシャアが何やらコンプレックスなどあるなんてことは想像もできなかったということになる。

アムロは自分が歩んできたサクセスストーリーを、シャアも歩んだと思い込んでいるのである。自分が連邦軍の現場レベルで尊敬されているならば、シャアはネオ・ジオンという組織全てで尊敬されているはずだし、彼がすべてを牛耳っていると思い込んでいる。

しかし現実は違った。

シャアはネオ・ジオンで尊敬などされていないし、シャアはアムロに対してコンプレックスを抱き続けていたのだ。

「機動戦士ガンダム逆襲のシャア」の面白さは、こういった「シャアとアムロのすれ違い」が存在していたことに気付かされると共に「すれ違い」が解消する寸前に物語が終焉することにあると個人的には思う。

これを思う時、この記事で行ったように、2人の人生を振り返りたくなるのだ。

言いたいことを伝えられる文章ではなかったと思うのだが、少なくともここに書いたすべてのことが、私にとっての「逆襲のシャア」の面白さなのです。

シャアとアムロはどうなったと思いますか?
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シフルはどう思ってるんだい?
俺は残念ながらどちらも戦死だと思っているね。最近の宇宙世紀ものを見ると「なにか」ということになるのかもしれないが、それはニュータイプではなく「輪廻」といったものの取り扱いに近いと思うね。

おまけ:「隕石落とし」の謎とギレンの呪い

逆襲のシャア」最大の謎は「隕石落とし」という作戦そのものである。

あの作戦の謎は、ネオ・ジオンにとって地球が寒冷化されることは何のメリットもないという悲しい事実に集約される。

そもそも一年戦争の段階から、ジオンの目標は2つしかありえない。一つは「地球を含む連邦政府が持っていたすべての簒奪」でありもう一つは「国家として独立しつつ地球と外交する」というものである。

地球というのは極めて重要な経済圏であり、それを失うことはジオンにとって良いことではまったくない。

むしろ地球をどれだけ温存できるかが勝負である。

一年戦争のターニングポイントが「オデッサ作戦」であったことも象徴的だろう。地球の資源そのものがコロニーにとっても大切な資源となっていたのだ。

そんな地球を寒冷化して、開発しづらくするという作戦を実行しているネオ・ジオンそのものが空回っているのである。

個人的には作戦の立案はシャアだとは思っていない。その作戦に乗っかることによってアムロと戦えると思ったのだろう。

何れにせよあの段階のネオジオンは組織を存続させることが目的になっており、そのためなら「地球寒冷化」というわけのわからない作戦を取ることも厭わなかったのである。

物語のラストでギラドーガがアクシズをはねかすために参加するのも当然である。どでかい作戦に胸を踊らせながらも、それが間違っていることも彼らは認識しているのだから。

では、ジオンがこんな狂った作戦を実行するに至った諸悪の根源は誰か?もちろんギレン・ザビである。

一年戦争の最終局面で、彼の父デギン・ザビは連邦との講和を実行しようとした。

しかしアホのギレンはその父と連邦をソーラ・レイで焼き尽くしたのである。

あの光が「逆襲のシャア」に至る全ての混乱を巻き起こしたのだ。ガンダムファンの中にはギレンを好きな人もいるかも知れないが、宇宙世紀最大の戦犯は間違いなくギレンである。

シャアが悔やむべきだったことは、最初に殺したのがギレンではなかったことだろう。

私は本当にそう思っている。


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北国出身横浜在住の30代独り身。日頃は教育関連の仕事をしていますが、暇な時間を使って好きな映画やアニメーションについての記事を書いています。利用したサービスや家電についても少し書いていますが・・・もう崖っぷちです。孤独で死にそうです。でもまだ生きてます。だからもう少しだけ生きてみます。
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POSTED COMMENT

  1. はやとこばやし より:

    ダカール演説の前後のアムロとシャアの会話をぜひ見直して欲しい。あの時確かにアムロはシャアに全幅の信頼を寄せていた。最後に乾杯をして別れて以来2人のやり取りは描かれていない。
    それなのにも関わらず、なぜ本作品では、アムロはシャアを
    「所詮人殺しでしか世直しができない男」
    とまで酷評をするようになってしまっただろう。
    ここの経緯がぶっ飛びすぎていて違和感を覚えてしまう。

    • Sifr(シフル) より:

      コメントありがとうございます。

      久々に「ダカールの日」を見直しました。
      「逆襲のシャア」までの展開を知っている身としては、「人身御供の家系かもな」というアムロの一言に涙がこみ上げてきましたよ。
      その後のカミーユの台詞も希望に満ち溢れていて、ガンダム史上最も幸福な時間が流れていたと言えるような気がします。

      あのときのアムロとしては「政治的に」人類を革新へと導いてくれるという期待をしていたのでしょう。それが結局他の連中と同じように「軍事的に」人類を変えようとしたことに不満を持ったということではないでしょうか。
      全幅の信頼が裏返ってしまい、所謂「恋しさ余って憎さ百倍」状態にあったということです。ナナイの言葉はシャアに向けられたものでしたが、結局はアムロの内面を捉えた言葉だったということになるのではないでしょうか。

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