「おおかみこどもの雨と雪(公式)」は、2012年7月21日に公開された細田守監督による劇場用アニメーション作品である。
今でも映画館でこの映画の予告編を見たときのことを覚えているが、僅かな映像と「おおかみこども」というキーワードだけで「これはしんどい映画になるな」と痛烈に感じた。前作の「サマーウォーズ」が好きだったので、見に行こうとは思ったのだが、映画の「しんどさ」に耐えられるかどうかがわからなかったがために結局映画館に行くことはなかった。
結局は「バケモノの子」か「未来のミライ」が公開されたときに、そういえば見ていないなとネット配信で見たのが最初であったと思うが、映画館に行かなかったことをひどく後悔したね。とてもいい映画だった。
今回は、そんな「おおかみこどもの雨と雪」の様々な側面について考察をしていこうと思う。この映画はどんな映画だったのだろうか。
なお、この記事はネタバレを前提としての考察となっているので、詳しいあらすじなどを振り返りたい場合は「『おおかみこどもの雨と雪』のあらすじ(ネタバレあり)-結末までのストーリーを解説-」を御覧ください。
この記事の内容を、AIが対話形式(ラジオ形式)で分かりやすく解説してくれます。
「おおかみこどもの雨と雪」の考察
考察①:なぜ反抗期前で物語が終わるのか?-花との明確な対立が描かれない意味-
「おおかみこどもの雨と雪」は子育ての大変さやコミュニティの重要性が明確に描かれているのだが、私としては「最もしんどい描写」になると予想していた部分がまるまる抜け落ちていた。つまり、この映画では中学生となった雨や雪と母親である花との対立が描かれていない。
「おおかみこども」であるがゆえにただでさえ「しんどい」作品になっているのだから、そんなところまで描いてしまったら辛すぎて見ていられないということもあるかもしれないし、何よりも上映時間の問題もあり、そこまで描くことが出来なかったと考える事もできる。
しかし、個人的には、あそこで終わったがゆえにある強烈なメッセージ性が生まれたと思う。つまり、「おおかみこどもの雨と雪」という映画は「子供が反抗期になったら子育ては本質的に終わっているのだ」ということを描いたと見ることが出来るのではないだろうか。
子供の反抗期には多くの親が悩んできたことと思うが、少なくともその意味合いだけを考えれば「正しく自我が芽生え始め、自分の道を歩み始めている」ということになる。
そこで厳格に大人扱いをすれば全ては済むのだが、現代社会ではなかなかそうもいかないだろう。そうなると、自我が芽生えた対象を庇護下に置こうとするのだが、それが必然的に対立を生んでしまう。親としてはなんとも苦しいことである(何よりも「かわいい」からね)。
このような現実的な問題や困難はあるものの、子育ての本質的なことを見れば「自分はこの道を進むのだ!」と子供が言うのであればそれで子育ては終わっているという判断で基本的には構わない(別に家を追い出せというわけではないよ)。
この文脈だと、映画のラストで「おおかみとして生きる」という判断をした雨のことを主に想定しているようになっているのだが、雪も中学生となり寮生活を始めて家を出ているという事実も重要だろう。雪も「人間として生きる」という自分の道を決めたのだから、雨とやっていることは本質的に変わらない。草平という理解者を得たことによって、雪もようやく「腹をくくる」ことができたということだろう。そして親元を離れた。
結局この映画では「子供が反抗期になったら子育ては本質的に終わっているのだ」ということを雨だけでなく雪を通じても描いていることになる。
反抗期の直前で終わったことが意図的なことなのか結果的なことなのかは判断できないが、見事なメッセージ性を持ったということができると思う。
考察②:雨と雪という2人の子供が描かれた理由-父(彼)の過去とその死因との関係-
「彼」が抱えていた苦悩の鏡
次に、花と「彼」の子供が2人だったことの意味を考えていこうと思う。もちろんそれは「物語に広がりができるから」ということになるのだが問題は「どのように広がったのか?」ということになると思う。
結論としては、「雨と雪の『おおかみ』と『人間』という対立軸は父親が抱えていた思いそのものだった」ということになると思う。
結局我々は「彼」について知ることはできなかったのだが、実のところ雨と雪が過ごした日々とその苦悩がそのまま彼の過ごした日々だったということになると思う。
花は「おおかみ」としての雨と雪の育て方に悩んでおり、「彼」に聞いておけばよかったといっていたが、考えてみると「おおかみおとこ」として生まれてしまった以上、花のした子育て以外に手はないように思われる。
たとえ親が同じ性質を持っていたとしても、「これが正解の生き方!」と言えるものがないところが「おおかみおとこ」の辛いところであって、心の中に葛藤を抱きながら生きるしかない。「彼」の一族の親たちもきっと花と同じように悩んで生きてきたのだと思う。
そして、「人間」として生きようとする雪と同じ思いを「彼」は持っておりその結果として人間社会で生きていた。その一方で、雨のように「おおかみ」として生きるという選択肢も彼の中には強くあっただろう。
我々は雨と雪という2人の子供を通じて、3人分の人生を目撃したのだと思う。だからこそ「彼」の子供時代のことは描く必要がなかった(描かれなかった)と見ることもできると思う。
そして、このように考えてみると序盤の悲劇の理由も少し見えてくるような気もする。
「彼」はなぜ亡くなったのか
物語の序盤、生まれたばかりの雨と雪をおいて父親である「彼」はこの世を去ってしまう。
おそらくは鳥を狩ろうとして川に落ち、落ち方が悪かったがために死に至ったということだと思うのだが・・・なぜ落ちたのだろうか?
これには様々な可能性があるだろうと思うのだが、一つヒントになると思われるのが、雨が川で溺れたシーンだろう。
雨も鳥を狩ろうとして事故にあったわけだが、「このシーンでお父さんのことを思い出して!」と制作サイドが叫んでいるようなシーンとなっている。あのシーンから何かを読み取るべきだろう。
一つ考えられるのは、「雨と『彼』が川に落ちた理由は同じである」ということだと思う。
雨が川に落ちた理由を一言で述べれば「まだ自分の身体の使い方を知らなかったから」と言えるのではないだろうか。直接的にはマフラーを踏んでしまったことによって落ちているのだが、例えば、物語のラスト以降の雨ならそんなことをしないだろう。つまり、雨はまだおおかみとしての自分の身体の使い方に慣れていなかったということになる。
実のところ「彼」も同じだったのではないだろうか。彼は大人の「おおかみ」だが、ずっとその姿でいたわけではなく、多くの時間を人間として過ごしている(たまには山を走っていたかもしれないけど)。となれば、「彼」だって「おおかみ」としての体の使い方はそこまでうまくなかったかもしれない。
実際、雪を妊娠した花のための鳥を狩ってきた姿は「狩りの名手」というよりは「ちょっとやってみましたアハハ」という描写であったと思う。
彼が幼少期から「おおかみ」としての生き方を仕込まれ、その身体を自在に操れる状況、つまり、雨にとっての先生(老いたキツネ)のような存在がいれば、実はあの悲劇は発生しなかったのではないだろうか。
そう考えると「彼」が両親を幼少期に亡くしていることも悲劇の理由の一端を担っていると言えるかもしれない。
いずれにせよ、「中間の存在」として生きざるを得なかった「彼」の人生そのものがあの悲劇を生んでしまったということができると思う。
そして、雨が先生と出会えたことは大きな福音であった。
考察③:「おおかみこども」であったことの効能-人が抱える「秘密」-
ここからは少し目線を変えて「おおかみこども」であったことによって映画にどのような効果・効能があったのかということを考えていこうと思う。
その一つはもちろん、「幼児の持つ『凶暴性』や『予測不可能性』」を「おおかみ」によってうまく表現されているということになると思う。
しかし、雪が草平を傷つけてしまったシーンを考えると、それ以上の効能があったことがわかると思う。
雪は草平に自分の真実がバレることを恐れ草平から距離をとろうとするのだが、そんな草平に詰め寄られてしまう。
あのシーンでの具体的な「秘密」は「雪が『おおかみこども』」であることだが、あれはより抽象度を上げて「誰かが抱えている秘密」が対象となっているシーンと見ることもできるだろう。
特に子供の頃は、自分の興味関心でしか行動しないので、その人が触れてほしいかほしくないかなんてことを全く考えずに発言したり行動したりする。しかし、悪気があろうとなかろうと、その「秘密」に土足で上がり込もうとする言動は、本来的には大きな復讐を食らうほどの凶行であることをあのシーンは訴えているのだと思う。
ただその一方で、この映画であるからこそ草平にも同情的になることができる。つまり、「『おおかみこども』であるという事実」は、通常想定できる「秘密」を明らかに超えている。そのような想定をしながら生きるのはむしろおかしな人間と見られるだろう。
つまり、我々は草平を責めなくて済むようになっている(その後の彼の行動も大きかったと思うけど)。
まとめると、「おおかみこども」であったことの効果・効能は、
- 子供の「凶暴性」、「予測不可能性」といった性質を直接的に表現し、
- 人が抱える「秘密」をも描くことに成功し、
- その結果として「秘密」に迫る人間の存在というドラマ性を生み出し、
- 「秘密」に迫った人物へのある種の「同情」まで作り出している。
ということになるだろう。「おおかみこども」は見事な舞台装置であり、そしてこの作品はその舞台装置を見事に使い切ったと言えると思う。
考察④:途中で現れる「蝶」の意味-雪の変化と「バタフライエフェクト」-
最後に、上のことに関連するが、草平が雪に「獣臭い」といったシーンで、窓外を飛んでいた「蝶」について考えてみようと思う
小さなことではあるのだが、アニメはその全てが描かなければ存在しないと考えると、あのシーンにはどうしても「蝶」が飛んでほしかったという制作サイドの思惑があることになる。
一つは、あの「蝶」が「変容」「変身」「進化」を象徴するものであるという見方だと思う。
あのシーンは、結局のところ、雪が「人間として生きる」ことを決断する重要な分岐点となっている。もし「獣臭い」と雨が言われたとしたら、あそこまで気に病むこともなく「だから何?」という反応であったかもしれない。
しかし、雪は「バレてはならない」と考えたし、それがバレるということをひどく気に病んだ。そして、その「バレたくない」という強い思いの存在によって「ああ、自分は人間としていきたいのだなあ」ということに逆説的に気がついたという言い方ができると思う。
そのような「変化」のきっかけのシーンであることを表現するために、あのシーンには「蝶」が飛んでいたのである。
ただし、もう一つの見方もあると思う。「バタフライエフェクト」を表現したかったのではないだろうか。
「バタフライエフェクト」は、「些細なことが思いがけない結果を生む」ということを表現することばだが、あのシーンの「些細なこと」とは、「草平はただ『獣臭い』と思っただけ」ということになると思う。
草平にはその臭いの裏に雪の秘密があるなんて考えていないし、まして、雪の人生を決めさせようなどと全く考えていない。しかしその意図とは全く別の結果を生んだことになる。まさに「バタフライエフェクト」だろう。
まとめると、あのシーンで「蝶」が描かれた理由は、
- 広い意味での「変容」を象徴し、雪の変化・決断のきっかけになったシーンであることを表現し、
- 「些細なことがそのような変容を生み出す」という「バタフライエフェクト」をも表現するため
ということになると思う。制作サイドの本当の意図はインタビューしなきゃわからないが、このように見えることもまた事実だと思う。
あのシーンは結果的に雪が人間としていきるという「あり得る未来」のきっかけになったわけだが、本来的には他者に対して「獣臭い」というのは無礼なことであり、それが小学生ならひどく傷つくだろう。
雪は草平を物理的に傷つけたことがきっかけで学校に出られなくなっているが、あれが現実社会なら、ただただ心が傷ついたから学校にいけなくなるということも十分考えられる。
その場合も言った本人としては「そう思っただけで、その人を傷つけようとは思っていない」と考えるかもしれない。しかし、これこそがまさに「バタフライエフェクト」のネガティブな側面であり、言葉は注意深く使わなくてはならないということも表明されていると思う。
以上が現状で私が「おおかみこどもの雨と雪」を見て思ったことでございます。皆さんにとってどのような映画だったでしょうか?
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