「機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)(公式)」は2025年4月9日から2025年6月25日まで、日本テレビ系列で放送されたTVアニメである。監督を務めたのは「フリクリ」や「トップをねらえ2!」で有名な鶴巻和哉。
個人的には見事に終わってくれた作品だと思っているのだが、「その後」に思いを馳せることができる終わり方でもあった。ということで今回は、「機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)」のその後がどのようになるのかについて考察していこうと思う。
この考察の根幹になるのは以下の仮定、あるいは「事実」である:
イオマグヌッソに吹っ飛ばされた「ア・バオア・クー」とその戦力は失われたまま。
当たり前の仮定のように思えなくもないのだが、一応注意は必要である。「GQuuuuuuX(ジークアクス)」世界のゼクノヴァ現象は、同じ世界線で場所を移動するゼクノヴァと、「向こう側」と繋がるゼクノヴァの2種類が描かれており、イオマグヌッソはどう考えても後者なのだが、そうであることが確定しているわけではない。そのため「仮定」とした。
シャアだって、最初のゼクノヴァで別の世界(向こう側)に行ったのだと思ったら単に別の場所に飛ばされているだけだったしね(それが、ララァのシャアを救いたい思い故であることも後々分かったこと)。
そしてこの仮定に立つと、「GQuuuuuuX(ジークアクス)」のその後は残念ながら悲惨なことになるように思われてしまう。記事タイトルにあるように、シャリア・ブルはシャアになってしまうし、セイラ(ルテイシア)はハマーンになってしまうのだろうと思う。
「しまう」といっている以上、ネガティブな未来しか無いと言っているわけだが、ここから詳しく私が考えてたことを書いていこうと思う。
この記事の内容を、AIが対話形式(ラジオ形式)で分かりやすく解説してくれます。
- シャリアとセイラの暗い未来
ア・バオア・クーの戦力喪失でジオンは軍事的に劣勢となり、世界は再び戦乱の時代へ突入してしまう。シャアを否定したシャリア・ブルは、彼自身が持つ「虚無」と「傲慢さ」から新たな「シャア」と化し、困難な指導者の立場に置かれたセイラも「ハマーン」のようになってしまう。 - 主人公たちの希望に満ちた物語の完結
世界の暗い未来予測とは対照的に、主人公マチュとニャアンの物語は希望をもって完結している。彼らは過去を乗り越え、未来に向かって強く生きていくことが示唆されており、世界の政治的混乱から切り離された、救いのある結末を迎えている。 - 初代ガンダムへのオマージュと続編不要論
世界の混迷とは裏腹に主人公の未来には希望があるという結末は、初代「機動戦士ガンダム」が本来持っていた「希望」への見事なオマージュとなっている。様々な意見はあると思われるが、このラストを守るためにも続編はつくらないほうが良い。
結局自分が正しいと思っているシャリア・ブルと、望まぬ立場にいるセイラ

シャアを否定する先にある「シャアらしさ」-シャリア・ブル-
「GQuuuuuuX(ジークアクス)」における最大のミスリードは、シャリア・ブルがシャアを「盟友」として求めていたように見えたことだと思う(私もそう思っていた)。
ところが、最終回で明らかになったことは、「シャアでは『だめ』ということを再確認して消すため」だったということが分かった。
シャリア・ブルが「消す」という判断を下した決定打は、シャアの以下の言葉であったと思う:
この世界で私は、彼女の石によって守られているらしい。そのような歪な世界にニュータイプの時代が来るとも思えない。だから万能の存在といえる彼女をこの世界から排除する。人類をよりよき時代に導くのはそれからのことだ。
このシャアの台詞の直後にシャリア・ブルはシャアに対する攻撃を始め、次のように語った:
私にはわかる。貴方がジオンを率いるのは危険だ。いつかキシリア様のように地球に住む人類の粛清にたどりつく。貴方の纏う「虚無」がそう言っている!
「逆襲のシャア」を知っている我々としては少々のユーモアを感じる台詞ではあったのだが、その断定的な物言いがどうしても気になってしまう。
シャリア・ブルのいうところの「虚無」はまさに彼自身がまとっていたものであり、彼自身は「軍事法廷に裁かれてお役御免になる(おそらく死刑を想定していた)」事によってその「虚無」を纏う自信が影響力を持ち続けることを止めようとしていたのだが、「シャアはその『虚無』に気がついていないから無理やり排除するしかない」と判断したことになる。
所謂「正史ガンダムシリーズ」におけるシャアの空回り人生を思えばシャリア・ブルの言うこともわからんでは無いのだが、そんな彼は容易くエグザベに説得されてしまい、アルテイシアを戴くジオンを支えることを決めてしまう。
結局「虚無」をまとった人物が第一線に残ってしまったことになる。
さらに、「人類をよりよき時代に導く」と平然と言ってしまうシャアと「私にはわかる。貴方がジオンを率いるのは危険だ。」と断言してしまうシャリア・ブルには「傲慢さ」という分かりやすい共通点があると思われる。
本編中シャリア・ブルは、ニュータイプとして卓越した洞察力を持っている様子が描写されている。それが、彼のシャアに対する判断を正当化しているのだが、彼は優れた洞察力を持っているだけで未来予知ができるわけではない。そんなことができるならもっと彼の思い通りにことは進んだわけで、そうならなかったということを考えれば、あの段階でのシャアに対する判断も彼の「傲慢さ」が現れていると考えることができるだろう。
そして、ザビ家が実質的に消滅しアルテイシアがジオンを率いるとしても、ニュータイプが戦わずに済む世界が直ちにやってくるわけではない。
そもそも、ア・バオア・クーの大戦力がなくなっている時点で地球連邦との軍事的均衡は完全に失われてしまっており、連邦としてもリベンジを果たそうと虎視眈々としているだろう。単純にジオンの繁栄を考えるなら、キシリアが画策していたように地球をイオマグヌッソで吹っ飛ばさなければならなかった。
どう考えても、「GQuuuuuuX(ジークアクス)」のラストの後は、再び戦乱の時代がやってくる。そしてそんな状況に嫌気がさしたシャリアは、結局は人類の粛清に走ってしまうのではないだろうか。そもそも「虚無」をまとっているのだから。
あまりにも困難な状況と募り続けるシャアへの不満-アルテイシア・ソム・ダイクン-
どうやら「GQuuuuuuX(ジークアクス)」の世界では連邦軍のエースパイロットとして活躍していたと思われるセイラさんだが、最終的にはアルテイシア・ソム・ダイクンとしてジオンを率いることになった。
しかし、その状況はあまりにも困難である。先に述べたようにア・バオア・クーの戦力は失われてしまっているし、そもそもザビ家に心酔していたジオン軍の連中もまだ残っている可能性がある。
国内政治だけでも一筋縄ではいかない上に、地球連邦も黙ってはいない。誰がジオンのトップに立っても再び混乱を迎える宇宙世紀に翻弄されてしまうことだろう。
もちろん、アルテイシアは自らの意思でその困難な道をゆくことを決めたのだろうが、極稀に、ほんの少しだけ、ララァとよろしくやっているキャスバル兄さん(シャア・アズナブル)に思いを馳せることがあるかもしれない、「あの野郎、お気楽にやりやがって!」と。
一方、シャアの方としても、いつまで待っても「ニュータイプの時代」がやってこないことにしびれを切らして、アルテイシアに接触するようなこともあるかもしれない。
その頃にはひどくララァに「教育」を受けているだろうから、「機動戦士Zガンダム」でハマーンの前に現れたときのようなことにはならないと思うのだが、接触を図ることそのものが問題である。
そんなシャアの態度を見れば、アルテイシアは腹を立て、頑なになり、柔軟性を失ってしまうのではないだろうか。ハマーンのように。
「Zガンダム」のときにシャアがなさねばならなかったのは「ハマーン、悪かった、ミネバと三人でやり直そう!」と言って新生活を始めることだったが、「GQuuuuuuX(ジークアクス)」において大事なことは「何もしないこと」である。
おそらくはララァが止めてくれるとは思うのだが、どうしてもこんなことを考えてしまうのだよね。
さて、基本的には私が考えた「その後」はこんなもので、一言でまとめると「正史ガンダムのように無限地獄が始まる」とまとめられると思う。
このように考えるとなんとも薄暗い気持ちになるのだが、大事なことは、ここまでに書いたことの中にマチュとニャアンが登場しないことだと思う。
「GQuuuuuuX(ジークアクス)」の続編はあってほしくない

マチュとニャアンは心配ない
「GQuuuuuuX(ジークアクス)」を考えるときについつい「あの世界そのものがどのようになっているのか」とか「あの世界はどのようになっていくか」ということを考えがちなのだが、あの物語の主人公がマチュであったことを忘れてはならない。
そして、マチュの物語は見事に終焉を迎えてくれたと思う。「いつかまた会えるって、ガンダムが言ってる」という台詞で締めくくられるので、何やらシュウジに対する執着や恋慕の思いが残っていると見ることもできる。
ただ、あの台詞をニャアンにまっすぐ発言していることがポイントになるだろう。つまり、マチュの中でシュウジへの思いは正しく昇華されており、未練とかそういった思いから発言したものではないということである。
思えば「シュウジ」とは、「ここではない何処か」へマチュやニャアンを導いた存在であり、2人は見事に「ここではない何処か」へ旅立つことができた(お尋ね者になったままだが)。
あの後もマチュは「シュウジを探す旅」と称して様々な経験をしながら強く生きていくのだと思うし、ニャアンも一緒にいるかも知れない。
いずれにしても、2人は前向きに強く生きるであろうことが推定されるので、「その後」については全く心配がない。だからこそ、上で書いた「薄暗い気持ちになる考察」の中にマチュやニャアンの話が出てこなかったのである。
私にとって「GQuuuuuuX(ジークアクス)」のラストはとても良いものだったが、それは「主人公が生きる世界は混迷を極めるが、それでもマチュは強く生きる。」と思わせてくれたからだと思う。
見事な「機動戦士ガンダム」のオマージュとしてのラスト
あのラストについて、「機動戦士ガンダム」との比較でもう少しだけ考えてみようと思う。
「正史ガンダム」は「機動戦士ガンダム」の後も続編が作られ、結果的に延々と終わらない戦乱が描かれた。そこにある種の人類に対する諦めのようなものが漂っている。
まあ、現実の人類は今のところ戦争を克服していないのだからしょうがないところもあるのだが、なにか一つでも「希望」のようなものが描かれてほしいとも思う。
ただ、ふと思い出してみると、初代の「機動戦士ガンダム」にその「希望」が描かれていたように思われる。
まずいちばん大事なことはきちんと一年戦争が終わったこと。そして、戦争に巻き込まれ、実質的に父と母を失ってしまったような状況にあったアムロ・レイが「帰る場所」の存在を強く自覚できたことがあのラストの素晴らしさだと思う。
「機動戦士ガンダム」に続編がなかったと仮定してみると、この記事でやってみたように「その後の政治的混乱」は同じように想像できたと思う。その一方で、アムロ・レイのその後についてどのような想像をできただろうか?
あのラストを見れば「色々あったけど、アムロ・レイは強く生きていく」と思えたのではないだろうか。そしてそれは、ブライトやミライさん、カツ、レツ、キッカについても同様だろう。つまり、結果的に「無限地獄」の始まりとなってしまった「機動戦士ガンダム」であったが、そのラストには確かに「希望」があったのだと思う。
このように考えてみると「きっと、マチュやニャアンは強く生きていくのだろう」と思わせてくれた「GQuuuuuuX(ジークアクス)」のラストは、最高の「機動戦士ガンダム」のオマージュだったということができるのではないだろうか。
続編は是非とも作らずに
今回は「GQuuuuuuX(ジークアクス)」のラストのその後について考えてきたのだが、一言でまとめると「政治的には混迷を極めるに決まっているが、マチュたちは強く生きる」になると思う。
そして続編を作ってしまえば「正史ガンダム」のような事になりかねない。つまり、マチュやニャアンのあり方そのものが混迷を極めてしまい、せっかくあった「希望」も失われてしまうと思う。
いいラストであったが故に続編を望んでしまう気持ちもないではないが、是非とも続編は作らずにいてほしいと思う。
皆さんはどう考えるだろうか?

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