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【紅の豚】ポルコは何故豚であろうとするのか?ー宮崎駿男の悲哀シリーズ①ー

紅の豚は1992年に公開された宮崎駿監督による劇場用アニメーション作品である。ギリギリ映画館で見ていてもおかしくはない年代に公開された作品だが、小学生に頃に金曜ロードショーで放送されたのを見たのが最初だと思う。やはりと言うべきか、子供の頃はそれほど面白いとは思わなかったが今ではとても好きな作品の一つとなっている。

さて今回は紅の豚最大の謎主人公ポルコが豚である理由について考えていこうと思う。

もちろん理由なんて何でもいいし、なくてもいい。実際私自身もかつては気になっていたのだが、今はそれほどポルコが豚であることが気にはなっていない。それでも一応考えたことはあるので、それについてまとめることにする。ただ、今回まとめるの豚であるとはどういうことかであって、豚になった理由の神秘を解明することではありません。その辺はご注意ください。

紅の豚でポルコは何故豚であろうとするのか?

世の潮流に飲み込まれまいとする男の意地

紅の豚に関して考えるときに思い出したいのが、宮崎駿監督の疲れて脳細胞が豆腐になった中年男のための、マンガ映画という言葉である。

豆腐という言葉に宮崎監督が込めた思いを完全に理解することは出来ないと思うが、重要なことはそれほど肯定的には聞こえないということだろう。その上で、言うほど批判的でないように聞こえるということも重要なことのように思われる。

つまり結局男は脳が豆腐になる瞬間がくるものだというニュアンスを持たせながら語ったことなのだろう。

豆腐という言葉に乗せたニュアンスを明確に言語化するのは難しいが、鋭さをなくすとかただ日々を生きるだけとかもうこんなもんかなと言った思いにかられている状況かもしれない。我々の目には宮崎駿監督がそのような状況になっていたようには思えないわけだが、我々には分からない何かがあったのだろう。

もちろん、東映時代の労働組合活動や、社会主義が本格的に失敗し無視あるいは敵視されている状況に思いを馳せることはあったかもしれない。

ただ、そういった具体的な何かというよりも、ああ、もう何かが始まることはないのだな~という抽象的な諦めが前提にあるのだと思う。

その上で豚であるとはどういうことか。

それは、そんな状況に対する反抗の象徴であり、それでも俺はまだやれるという男の意地の表明であろう。

どんなときにも世界は我々を置いてけぼりにして突っ走っていく。しかし突っ走ったものが正しいとは限らないという思いに多くの人はかられるだろう。別に追いつけないわけではない。でも、でも自分たちの正しさの価値をどうしても忘れることは出来ない。そして何より、その正しさを忘れずにいられるのは自分たちしかいない

ポルコが豚で有り続けるということは、そのような自分の正しさの表明であり、世界に対する真っ向勝負の皮肉である。

十代や二十代の内にこんな想いに駆られていたら病気だが、皮肉しか言えなくなる瞬間がどんな人にも来るかもしれない。そんな皮肉の代表者として紅の豚を作ってくれたのだろうか。

しかし、我々は知っている。宮崎監督はこれ以降も作品を作り続けたことを。

皮肉で終わったら中年ですらなくただの中二病患者である。結局のとろころ紅の豚それでもなお作り続ける決意を表明する作品になったのかもしれない。

我々も宮崎監督にならって、なにかをし続けなくてはならない。それは世の潮流に合致しているかどうかなんでどうでもいい。飛ばねえ豚はただのブタである。俺たちは俺達の正しさのために飛ぶのだ!

俺は生まれてからずっと、ただのブタだけれども。

捕獲されまいとする男の意地と悲哀

これまでのことで基本的には豚であることの意味は明確になったとは思うのだが、我々はジーナを無視してはいけない。

そして我々が注目しなくてはならないのはジーナのつぎのセリフである。

私がこの庭にいる時にその人が訪ねてきたら、今度こそ愛そうってカケしてるの

子供の頃はなんとも思わなかったが、こんな無礼な言葉はあるまい。結局はいい男は全員いなくなったから、今度は流石にアイツのことでも愛せそうと言っていることになる。

もちろんこんな無礼なことをジーナがポルコを前に言ったことはないと思うが、誰よりもその感じに気がついているのがポルコである。

これまで一度たりとも自分に振り向くことがなかったジーナにポルコは惚れてはいるものの、3人目の男が死んだタイミングでようやく自分を捕獲しに掛かっている状況にやったぜ!なんて単純に思うことは出来ないだろう。

それでも、そんなカケをせざるを得ない彼女の状況や寂しさを思えば、日本男児ポルコとしては彼女を捨て置けない。しかし、彼女に屈服するもの腹が立つ。

紅の豚はそういうポルコの遠回りの物語である。

ポルコはずっと空を飛び回り、ジーナに捕獲される瞬間を待ち続けたのである。ではそんなポルコの態度を決定づけたのは何だったのか?

もちろん、フィオのキスである。

あのキスで誰からも愛されなかった男ポルコは、誰からか愛されたことのある存在になっただれからもは流石に言いすぎか

その時ポルコはこんな世界も捨てたもんじゃないと思ったのかもしれない。豚として突っ張ってきたポルコは、自分を置いてけぼりにした世界を肯定しちゃったわけである。だから一瞬豚ではなくなってしまった。

いずれにせよ、ようやくポルコはジーナのもとに胸をはって出向いたとうことになる。

ちょいと情けないような気もするが、若くして惚れ谷も関わらず、自分を一度たりとも顧みなかった相手に対してはこんなものでよいのではないだろうか。

さて、そんなポルコは結局豚ではなくなったのだろうか?

その答えはエンディングタイトル後のラストカットで分かる。

彼は今でも飛んでいる。ジーナに捕獲されながらもいや!俺はそれでも自由なんだ!と突っ張りながら空を飛んでいるのです。

もしかしたら、あなたと同じように。

この記事で使用した画像はスタジオジブリ作品静止画の画像です。

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