「銀河英雄伝説」は田中芳樹によるSF小説である。が、残念なことにいい年のおっさんになった今でも原作を読んではいない。しかしながら、1988年から開始されたOVAシリーズは全110話あるにも関わらず何度も視聴した。私にとっての「銀河英雄伝説」はいつまで経ってもあのOVAである(「 Die Neue These」はもちろん面白かったけど、思い出補正は強力である)。
今回は「銀河英雄伝説」の劇中で露骨に描かれた「民主主義の腐敗」と「専制君主制の栄光」に関して、作品の内容を振り返りながら考えていこうと思う。もちろん、自由惑星同盟は「共和制」を標榜しているが「共和制」の定義が極めてめんどくさいものなので、我々の実状にそくして「民主主義」に関して考える。
まずは露骨な第1話と第7話について振り返ろう。
*以下の文章は1988年から開始されたOVAシリーズがもとになっています。
露骨な第1話と第7話-「すでにあるもの」への批判-
「銀河英雄伝説」という物語を根本的に支える「構造」を我々に植え付けたのが第1話と第7話だったと思う。そしてこの2つに話には共通するメッセージが存在するように思われる。つまり「すでにあるものは腐敗している」であろう。
第1話「永遠の夜の中で」
「銀河英雄伝説」の第1話はなんとも露骨な物語であった。自由惑星同盟の老兵は、二度に渡りヤンの進言を無視し、結果的に大敗を喫することになった。
初めて見た頃にはそれほど違和感もなく見ることができた第一話だが、今見るとあまりにも露骨である。
自由惑星同盟と帝国は150年に渡り戦争を続けており、同盟側の将校もその実践の中で昇進を果たしてきた人物である。それにしてはあまりにも思慮が足りない。
結局のところ、ヤン達の上官の露骨な無能さは「銀河英雄伝説」という物語のある種の「しかけ」だったのだろう。つまり、「すでにあるものは腐敗している(あるいは腐敗して見える)」という状況を見せることによって、ヤン・ウェンリーを始めとする「主人公たち」の行動に我々が寄り添いやすくしているということになると思う。
ただこの「しかけ」はさらなる効果を生んでおり、自由惑星同盟にとっての「すでにあるものとしての民主主義」に対するある種の批判的精神をも我々の中に植え付けたのではないだろうか。
もちろんその役割を直接的に演じているのは第3話「第十三艦隊誕生」であり、ヤンの親友ラップの婚約者であり旧友でもあるジェシカエドワーズの演説によって「民主主義社会における貴族」、あるいは「民主主義社会」の構造その藻に対するある種の嫌悪を持つことになる。だが、第1話の露骨さが重要なスパイスにはなっているだろう。
そしてこの「しかけ」はキチンと銀河帝国側にも存在している。
第7話「イゼルローン攻略」
銀河帝国側の主人公(あるいは「銀河英雄伝説」の主人公)ラインハルトの人生を決定づけた物語は第4話「帝国の残照」で描かれた。
そこでは、銀河帝国という構造に姉を奪われたラインハルトの悲しみと貴族社会への嫌悪が描かれている。これは自由惑星同盟側にとっての第3話の枠割ということになるだろう(「すでにあるものとしての貴族社会」への批判)。
一方で、軍事に関しても「すでにあるもの」が腐敗していることを示したのが第7話だった。
第7話「イゼルローン攻略」では、要塞司令官と艦隊司令官が完璧に逆をつきまくって、ヤン率いる第十三艦隊によってイゼルローンを奪取されてしまう。
しかし、そこにもキチンとヤンヤラップらのような「すぐれた若者」としてのオーベルシュタインが存在しており、何故か彼だけはものの見事に状況を把握し完璧な提案をし続けていた。しかし「すでにあるもの」である二人の老兵は、露骨にミスを犯したのである。
このように、自由惑星同盟と銀河帝国は共に、軍事と政治に「歪み」を抱えているという双子のように描かれており、「銀河英雄伝説」はその原因となる「すでにあるもの」との戦いとして始まることになる。
しかし、同盟と帝国はまったく異なる命運をたどることになる。
民主主義の必然と憧れとしての専制君主制
上で述べたように、「銀河英雄伝説」は軍事と政治の双方にある種の歪みがることが描かれて始まるのだが、それ以降は主に政治的腐敗が描かれることになる。まずは自由惑星同盟について振り返りながら、悲しき民主主義の必然に思いを馳せよう。
乖離する議会と民衆
自由惑星同盟の政治的腐敗はトリューニヒトという人物に象徴されかつ押し付けられている。
しかしそれは物語をある意味わかりやすくするためであり、実際に発生していることは議会制民主主義のある種の必然である。
議会は本来我々側
そもそも民主主義社会において「議会」とは「我々側」であるという構造が本来は基本になる。
議会の本質はルールづくりであるが、それをする場に自分たちの代表を送り込めるということは本来大変に喜ばしいことである。その素晴らしさは真逆の状況を考えればすぐに分かることで、ある種の「貴族院」のようなところですべてのルールが決まるとなれば腸煮えくり返る思いである。
ただ、極めて残念なことであるが、この素晴らしい基本構造を持った社会も厳しい現実に直面することになる。
多数派が勝ち続ける必然と民衆の絶望
民主主義社会では議会の構成員を選挙、つまり「多数決」によって決めることになるのだが、これがなんとも曲者である。
一見公平でいい方法にも見えるのだが、ルールを決める人々を多数決で決めるということは議会の多数派を占めるのはもちろん多数派の支持を得ている人々である。
ではその状況が逆転することはあるのだろうか?
もちろん原理的には可能だし、少なくとも我が国でも戦後2回ほどそれが発生している。たった2回だが。
ただ、基本的には民主主義社会は変化が起きにくい。多数派は多数派にとって都合のよいルールを作り、多数派の近くにいる人間もその恩恵を受けるために既存の多数派の一員になろうとする。結果多数派は多数派であり続け、少数派は延々と少数派として煮え湯を飲ませられる状況が続いてしまう。
自分が多数派であるという自覚があるうちは良いが、そうでなければ「多数決」ほど腹立たしい仕組みはないだろう。しかも我々は様々な政治活動が許されているので、「少数派であるのはお前が悪い」と言われる始末である。その先にあるのは「諦め」という絶望だろう。
多数派も諦め始めるという矛盾
多数決をその根本に据えている民主主義社会で、「少数派」が諦め始めるのは分かるのだが、現実社会を見ても分かるように、実は多数派も諦め始めてしまうという矛盾がある。
ある程度時間のたった民主主義社会の多数派が求めるものは、変化ではなく現状維持である。では多数派がその現状なるものに満足しているかというと実はそうなっていない。
現状が維持されているということは、社会が抱えている問題に関しても延々と先延ばしが続いているということでもある。もちろんある程度のマイナーアップデートはされるだろうが根本的な解決はほぼなされない。
それは社会の構造そのものによって引き起こされているので「ガラガラポン」する以外にはおそらく解決策がない。
それを多数派も分かってはいるのだが、現状何かしらの利益や「安定」を得ている以上、劇的な変化をしてもらうわけにはいかないのである。
誕生する「政治家」という侮蔑用語-トリューニヒトが象徴するもの-
このように、民主主義社会では、多数はであろうが少数派であろうがこの世の中に何かしらの「諦め」を持ってしまうが、何かを諦めている状況というのはそれほど気分の良いものではない。というよりも不愉快である。
もちろん選挙で代議士を選んでいるのだから、その原因は我々自身にあるし、自分自身の不甲斐なさを責めることが構造上は求められる。それでも「悪者」を探したいのが人情というもので、我々は「政治家」という悪者を生み出すのである。
我々が「政治家」と呼んでいる人々は本来「代議士」と呼ばれるべき存在である。我々に変わって議論をしているのだから当然のことと思われる。
しかし、多数派にとっても少数派にとっても何かしらの問題が存在し続けている現状の原因は「あいつら」であってほしいという願いが「政治家」を生み出す。
結果として、かつて「我々側」だったはずの「議会」は「政治家」という我々から乖離した人々の住む別世界となる。
その状況では、「政治家」とは代弁者ではなく権力者であり特権階級である。
そのように我々が捉えていると、結局の所この社会は「特権階級という名の少数に寄る大衆の支配」がなされている社会ということになる。
そして我々は専制君主を追い求めるのである。
憧れとしての専制君主制
結局「貴族支配」と変わらないなら、延々と議論だけがなされ何も決まらない民主主義社会より、優れた指導者による専制政治のほうがよっぽど良いと考えてしまうだろう(専制君主制への憧れ)。
そして、その願いがものの見事に、そして究極的に具現化されたのがラインハルト・フォン・ローエングラムだった。
「銀河英雄伝説」という作品が非常に痛快であるのは、ヤンやラインハルトの見せる見事な艦隊戦もさることながら、皇帝となったラインハルトが「名君」であったことにもその理由を求めることができるだろう。
彼が治める銀河帝国なら、アーレ・ハイネセンも脱出を試みなかったに違いない。
ただ、一方で、そのラインハルト本人が憎んだのも専制君主制に端を発する貴族政治である。そして、その祖にして「劣悪遺伝子排除法」などという悪法を制定したルドルフ・フォン・ゴールデンバウムの存在をしめす事によって「専制君主制」の危険性も描いてくれている。
「銀河英雄伝説」は結局の所、我々のあこがれとしての専制君主制を、ラインハルトという稀代の英雄に実現させるという物語だったのかもしれない。
ただ、ラインハルトの死とともに銀河帝国の春が終わりを告げたことは実に悲しいことである。あの銀河の人々は、あの後どんな日々を送ったのだろうか。
結局「諦めない」しかない
ここまでは「銀河英雄伝説」が教えてくれた「民主主義の必然」と「憧れとしての専制君主制」について述べてきたのだが、民主主義社会に生きる我々は結局どのように生きるべきなのだろうか?
結局の所、民主主義社会に生きる我々にできることは唯一つ「諦めないこと」しかなかろうと思われる。「議会」と民衆を乖離させる根本原因は我々の「諦め」なのだから、当然と言えば当然である。
では「諦めない」とはどういうことかというと・・・
- 「どうせ変わらない」と思わずに選挙に行き続けるとか、
- 「我々はどんな問題でも解決できるのだ」と本当に信じ続けるとか、
- 社会問題の解決策を本気で考えてみるとか、
- 人と協力しながら解決のために本当に動いてみるとか、
と言ったことになるだろう。とんでもなく青臭く感じるかもしれないが、やはりこれしかないだろう。とんでもなくしんどい生き方ではあるけれども、こういうことをしていないなら人事をつくしたことにはならない。
民主主義社会で生きるとは、基本的に苦行を繰り返すということである。
別の言い方をすると、結局の所、我々一人一人が「良き市民」であるしかないということだろう。
なんともしんどいことではあるが、どうしようもなくなったら「銀英伝」でも見てリフレッシュしようぜ。
以上、「銀河英雄伝説」を見て思ったことを書いてきたが皆さんはどうだろうか?細かいところには異論があるとは思うが、概ねこんなもんだったのではないだろうか。
ただ、なんやかんやと艦隊戦が面白かったよね。個人的にはマル・アデッタ星域会戦が一番好きだった。ビュコック提督の姿には震えたね。彼が一番好きな登場人物だな。
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